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ネットを通じた人との距離について考えていた

 有名人とバッタリ会って、普段一方的に見ているからついつい親し気に声をかけてしまった。なんて話を時々聞くけど、私もネットでやらかしてしまう。
 当たり前の礼儀をすっ飛ばして、急に親し気にネット上で声をかけてしまって、ひんしゅく買ってしまっているんだろうなあ。後から気づく度、自分がイヤになってしまう。
 最近もまたやらかしたので、もー気をつけなくちゃ私ー!

 noteのコメント欄でも急に親しげに声をかけて自分の言葉が浅はかに感じたり、誤解を招く強い言葉だったかもと気づいたり。普段は気をつけていても油断してウッカリやらかしてしまう時がある。

 ネットでの距離感がわからなくなる。勢いで書いた時も多少考えた時も。ウッカリをカバーしたくても、その場でこの言葉はこういう意味だよ、今こんな気持ちです、と言えず文字として残ったそれを「あああ……」と頭を抱えたい思いで眺める。


 noteでは年齢や環境のちがう人とつながる。
 私たち世代は大人になるまでネットと触れ合ってこなかったし、私自身のHSP(highly sensitive person)気質も手伝って元々人との距離感を考えこみがち。どうとらえたら良いんだろうと「考える」ばかりがウロウロさまよい不安になる。
 そこでそれまでに築いてきた友人関係についてどう考えているか、まとめたらネットでの距離感もスッキリするのではと思いついた。

 以前からリモートで何人かのnoterさんたちそれぞれと話す機会もあったけど、昨年後半、初めて一人の方と実際に会ってみた。
 長くフォローし合っている方で、note以外でのやり取りも多かった。真剣なやり取りを積み重ねていたし、機会あったら会おうと思っていた。
 今どきネットなどで知り合った人と気軽に会う方もたくさんいるんだろう。大勢と会えるオフ会とか私は圧倒されちゃって苦手だけど、それ自体は全然良いのだ! 楽しめる人はおおいに世界を広げるのが良い。私だって人によっては声かけておしゃべりも楽しみたいもの。ただ一人ひとり時間をかけてゆっくり考えたい。自分なりの思慮分別を持ちたい。
 フォローに関しても、スキの基準も人それぞれで、すべてがまったくいっしょって人いないだろう。だから、私は自分だけのやり方かもしれなくても、納得して行動したい。

 ここに集まっている目的だって一人ひとりちがう。

 何もかもが一人ひとりちがうのに、自分の基準で人を当てはめようとするから疲れてしまう。
 それが疲れてしまう理由のうちの一つ。って、きっとみんなもわかっているだろうけど、私はそこから先、自分の気持ちにうまく折り合いつけられないから、よけいに疲れてしまうと気づいた。

 一人ひとりちがうって頭では理解していても、気が付くといっしょくたに考えてしまっている瞬間がとても多い。
 でもその反対を考えてみると立場や環境が似ているからって、考えや意見が合うわけでもない。
 気が合う面もあるなら、立場や環境のちがいに関してはできるだけ互いを受け入れあおうとしたいのだ。

 自分の生活の中で、実際に顔を合わせる友達を考えると、四六時中、行動を共にして面白がることも似ているなんて、学生時代のひととき。
 友人関係が続いたとしても、その後ずっと一緒ではないし、互いの環境も変化し、考え方のちがいも露わになってくる。

 それぞれの合う部分で付き合っていけば良いけれど、「ちがう」がただの事実としてとか、相手を知りたい気持ちとしてとか、そんな風にとらえられずにうまく消化できなくなってきた時。どうしているか振り返ってみると。

 少し距離や時間を置いている。
 感情的になっている時に、無理して自分をわかってもらおうとしたり、相手の意に沿おうとしたりすると、境界線がわからなくなってしまう。
 境界線がわからなくなると、なんでそこはちがうのよ! どっちがおかしいのよ! となってしまう。
 以前、どこかで似ている部分があっても、違う場面でまた似た感覚とは限らないものだよね。なので「私がこう思うのだから相手もこう思うはず」ともならない。
 大雑把に考えや意見が似ていても、そこから先は毛細血管みたいに細かく分かれているんだと私は理解している。

 必要なのは、よそよそしさじゃなくて相手を思いやる気持ち。今、どんな気持ちでいるんだろうと想像をめぐらす。想像めぐらせたってそれがちがうかもしれないけど。でもこまかな心情についてや議論が必要なこと、どうしてもゆずれないことは、落ち着いている時に話せばいい。

 一人ひとりと向き合うと、距離を置いたりそれで境界線を意識したりできるけど、ネットの世界ってなかなかほど良い距離を置けない。

 自分が機嫌よく書いていてもその日のその時間、落ち込んでいる人もいれば、自分が落ち込んでいる時に「やったー!」って喜ぶ気持ちを上げている人もいる。
 本来それぞれの世界で生きていけば良いのに、目に入ってくるそれらに、うまく対応できない日もある。自分の気持ちが落ち着いている時はどちらも受け入れられるけど、そうではない時は読みたい内容が偏ってくる。
 

 noterさんと会った時。その彼女も言っていた。
 「人のコンディションはそれぞれにちがって、自分が楽しい時に、読んでいる人によっては悲しい気分の時もあるし、その瞬間は楽しかったりもするよね。そこを考え始めたらきりがなくて何も載せられない」
 ほんとそうだ。
 私にとって大きな存在である「子供」のテーマ一つとっても。子供ができないと苦しむ人もいる。その中には子供いらないと納得づくの人も、揺れている人も、あきらめている人も、乗り越えた人もいる。
 ほのぼの話を書いている横で、子供について悩む人がいる。子供の年齢も様々。気質も体質も性格も環境もそれぞれ。子供が幼いころは接し方の理想について書いている人もいれば、現実そうはいかない葛藤について書いている人もいる。解決済みの人もいれば、頭を抱え続けている人もいる。兄弟のいる人いない人。自分自身に関して。自分の子供に関して。親側の気持ちもあれば、子供側からの考えが書かれている。

 そんな風に、すべてのことがあっちの面やこっちの面から。
 ネットだと同じ日の同じ時間帯に、全然ちがった環境の人がちがった意見や考え、正反対の気分のものがただ並ぶ。

 それぞれの気持ちがわかる。だから正反対であっても、どちらにも共感できる。コメント書いたりもする。私にとってはどっちも真実の気持ち。
 

 普段どうやって対応してるのかなって再び考えてみる。
 実際の生活での親しい友人たちの状況、環境、立場は。

 特別親しい3人の中に、シングルマザーや子供を持たない選択で結婚した友人たちがいる。それは世間では多数派とされている側ではないのかもしれないし、そこに関してだけ言えば、私とは立場や環境がちがうと言えるのかもしれない。
 でも彼女たちの仕事のこと、身体のこと。決して追いつけない背中を感じながら、互いに並んでいるようにしゃべる。それぞれ自分たちの立場や環境について、笑いながら、時には真剣に話し、聞き、感じたことを言う。

 他に楽しい関係を築きながら続いている友人たちも、その時に下す判断がちがったり、環境や立場がちがったり。どこかに共通点を見出してはその面で接しながら「あるある」と笑い、近づき過ぎて境界線がわからなくなったら少し時間を置く。


 何度も互いに近づいてみたり、遠ざかってみたりを繰り返し。
 今も気が付けば近くを歩き、互いに声をかければ走り寄れるような心の距離を感じている。

 ネットはてっとり早く趣味や好きなことがわかり、立場や環境がわかり、共通点を探りやすい。
 中でも特にnoteは、心の中にあるものをていねいに表現するものが多いから、目にしただけで急激に近くなった気がする。徐々に互いを知り合うのとはちがって、スピードが速い。

 でも急激に近くなったのを「通じ合えた」と思うのは錯覚で、本当はそうでもないよね。自分のすべてを表しきれているわけでもない。書いたところで自分の本意がそのまま伝わらないことも。書く側の腕だけじゃなくて、受け止める側のその時、その瞬間の気持ちの問題だってある。
 だから気持ちがすれ違うと、うまくいかなくなるスピードも速い。

 実際に会う間柄ってもっと親しくなるのに時間がかかる。私は特にそう。そしてそれでも良いんだとようやく最近わかり始めた。

 だって対面で話す時って、心の中にあるものをいつも話しているだろうか。
 私はこんなにしつこくたくさん書いているけど、人と会うとあんまり喋らない。話を広げなくても良いやなんだか疲れてる、って時もあるし、うまく広げられない時もある。相手によっては私の方が喋るし、年齢がらそれなりに雑談もする。けど基本的には無理に話さず黙っている。

 「人の表情や言葉の調子から受け取るメッセージってすごく多い」と、これも会ったnoterさんがおっしゃっていておおいにうなずける。
 
 顔を合わせて、しゃべりながら相手から何を感じ取って何を言葉に出すか。出さないのも含めて、その表現こそがその人らしさだったりする。

 接しながら相手に応じて「この人とはこういう付き合い方がベスト」の距離感を見つける。

 noteでのおつきあいは、表現して気持ちの交流をしている時点で、すでに共通している部分がある。ここで集まることで年齢とか環境の差を超えてくるから、始まり方としてはなかなか悪くないなあとも思っている。

 そこからは顔合わせて話す友達と一緒。ネットで皆さんの、関係性を深めようとするスピード速いからって、私がそれに合わす必要などなくて。一人ひとりとの距離感と境界線をはかりながら積み重ねていくだけ。

 きっとここからずっと続いていく人が出てくるんだろう。

 時間かかっても良い。むしろ時間かけたい。そしてnoteで表現する皆さんを立場や環境を超えて応援したい。私はnoteでは応援する立場。決めてかかることはないけれど、接している人には元気出してほしいし、幸せになってほしい。私にそんな特別な力はないので、その気持ちがどうやったら伝わるかなあと試行錯誤するくらいなのだけど。

 合わなかったり相手が自分に対して今一つなのかなという気がしたら、がんばらずに自分の境界線を大切にして、それぞれの人との距離の取り方をする。少し空白があったって、実際の友人たちってそんなもんだから、また近づく機会があれば良いなあ。
 私はそんなふうにしてゆっくり歩みたい。


読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。