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すぐにとびつける「正しさ」にあやかって

「正しさ」を追い求めることは大切だ。それを疑う者はいないし、真っ向から反対することは認められていない。現実的に、様々な個人や団体が、社会的な正しさとか、倫理的な正しさとか、そういったことを達成しようと行動している。
 けれど一方で、そのような「正しさ」は、まことしやかにそれ「だけ」だとささやかれてしまう。正しさとは、正しいだけで現実に即していないとか、理想論だとか、青臭いとか、そういったレッテルを貼られる。

「正しさ」というものを、ただそれ「だけ」であると言ってしまいたくなるのは、事実「正しさ」というものが、私達から遠く離れているからである。それは崇高なある1つの到達地点であり、普遍的であるが故に一筋縄ではいかない。不完全な私達の生活は「正しさ」だけで出来ていないのは周知の事実であって、正しいがために無条件で肯定されるということは期待できない。
 だから私達は、正しさを、その即物的な思考によってやんわりと否定する。

 即物的。それがどうにも、枷なのである。「正しさ」などという理想論は、どうにも私達の日常にとって、個別具体的な利益をもたらしてくれるわけではない。そう思ってしまう。
 裏を返せば私達はよほど即物的になっていて、すぐに効果があるものとか、日常的に納得のできるものでないと、ほしいとは思わなくなっているのだ。それどころか、飛躍してそういった「遠い」距離にあると思うものを「いらない」と断じてしまうことさえある。

 これは、日常をまさに生きる私達の性質ゆえに、逃れることは難しい。大きな事、未来のこと、深遠なるもの、そういった創造の難しい諸々ではなく、私達は小ささや、今や、浅さについてのほうが観測しやすいからだ。「正しさ」とは中々に見えづらい。すぐに判断できないこともある。そのために、それにこだわることを、私達自身が許さない。
 だから、正しいことは、それ「だけ」だと評されることになってしまう。そしてそれ自体が「正しくない」としても、そんなことは最初から考慮していないのだから、何も問題に感じることはない。

 スピードの増す時代に、即応的な判断力が求められるにあたり、私達から「本当に正しいのか」は益々遠ざかっている。するとそれについて考えることもまた、減っていく。
 それは正しさ自体を歪めていく。形骸化した正しさばかりを標榜し、盲目的にそれを追い求めることを許すばかりで、正しさの正しさを吟味することは貴重だ。

 正しいは「だけ」と評されるような価値なきものではない。正しさとは、たとえその価値が時と場合によって変化するものだったとしても、「正しさを追い求める姿勢」のために、蔑ろにされてはならないものである。


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