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プレミアム化する世界と人が欲するもの

 プレミアムな商品が増えている。モノやサービスはどんどんとコストがかかるようになり、しかも人々は昔から触れているものほどそれに慣れてしまった。もはや当たり前となった身の回りの商品達に、既に人間は関心を示しにくくなっているのだ。
 それに追い打ちをかけるように、モノやサービスの値段は上がっている。ますます、そんなものに見向きもするはずがない。だから商品を提供する側は必死に、関心を繋ぎ止めようとプレミアムという切り札を切った。

 プレミアムへのイメージは様々あるが、特別であること、高価なこと、高級なことなど、おおよその方向性は誰にでも感じられるものだ。プレミアムと名前がついているだけでも、明らかに、それは他の同じ種類のものとは一線を画するのだと想像できる。そしてそれは目立つことになる。プレミアムなコーヒー。プレミアムな旅行プラン。プレミアムな医療サービス。そんなふうに。

 これらは1つの苦肉の策であることは疑いはない。それまで、そんなことする必要もなく成り立っていた商売が立ち行かなくなってきたからこそ、そういったものがまん延しているのだから。企業努力という言葉の通り、苦しい局面でも工夫で乗り切ろうという当然の動きなのである。だから世界はきっと、これからもプレミアム化していくことだろう。

 その是非はともかくとして、消費者として忘れてはならないことがある。それは、こういったプレミアム化が、本当に私達に必要なものかということだ。あるいは私達はどこまで、自分自信の存在と比べて、そのプレミアムを手に入れるべきなのかということである。
 たとえば衣食住に困っている人に、プレミアムな絵画は必要ない。それはただ、値段にしか価値がないものになるだけだ。そして、そんなプレミアムな絵画をいくつも持っている資産家が、さらに手に入れればそうするほど、ひとつひとつのプレミアムさは少なくなっていく。

 プレミアムとは押し付けられるべきものではない。加えて、必要十分でなければありがたみがなくなるものだ。この世のすべてがプレミアムになってしまったら、きっとそれに相応しくない人々は既にいなくなった後だろうし、残った人々はさらなるプレミアムを求めて無益な争いを起こす。
 だから私達は考えることをやめてはならないのである。プレミアムな商品が当たり前になりつつあるこの世の中で。必要なのか十分なのか。自身の存在と価値観をはっきりと持ち、少しでも立ち止まって。

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