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オッペンハイマーを観た

(ネタバレあり。)

 日本全国での上映開始に先駆けた新宿での先行上映だった。35mmフィルム版のチケットは発売して数時間で売り切れ、IMAXは一般上映開始してから観ようと思って、Dolbyシネマを選んだ。音響も映像も素晴らしかった。大正解だった。
 3時間は濃厚ではあったが淡々と過ぎた。長いという意見は鑑賞前にも鑑賞後にもちらちら見聞きはしたが、私自身は最後のシーンでこの時間が終わるのを残念に思うと同時に、全く疲れを感じていないことに気づく程には没頭していた。それは私が主演のキリアン・マーフィのファンだからではない。寧ろ、劇中の彼の裸は哀れに見えてしまったし、その元々骨太なのに痩せている滑稽さはいつにも増して彼の頭蓋骨を大きく見せ、女好きという役どころではあっても、決してハンサムな男としてや、セックスシンボルとしての描かれ方はしていなかった。と感じる。それはいつも観ているピーキー・ブラインダーズの彼があまりにも色気に溢れているので私に耐性があっただけかもしれないが。3時間はきっと濃かったのだが、当然のように経過していた。私にとっては中だるみもなく、エミリー・ブラントがインタビューで「オッペンハイマーを鑑賞することは鑑賞ではなく体験である」といった節のことを言っていたのにとても納得をした。鑑賞後に自らが汗ばんでいることに気がついた。
 原爆投下の実験が成功する場面が一番の衝撃だった。無音、そして忘れた頃にくる恐ろしい質量をもつ爆風。質量という言葉が正しいかはわからないが、とにかく分厚いパンチのような衝撃であるのだ。それは砂漠での実験で、実験を観測する側の人間は計算された充分な距離をとっており、爆風の後の砂を受けるだけだった。その爆発の真下に、広島が、長崎があったのだ。日本人としてはそれを考えてしまうことを避けることはできない。それだけで圧倒的な熱と光と爆風に加えて、破壊された建物が凶器となった都市。実験の成功を喜ぶアメリカ人(を演じている役者たち)を観ている間の感覚はぼーっとしていて、それが映画の演出であるのか、私自身のショックによるものなのかはわからなかった。満員の観客席から、僅かに涙と鼻を啜る音が聞こえた気がする。私自身も目が潤んだ。暫くその感覚のまま観続けた。原爆投下後、オッペンハイマーが演説をする。熱狂する傍聴席のアメリカ人がまるで原子爆弾の被害者のように一瞬映し出される。ここで呆れた。こんなものではないだろう。クリストファー・ノーランはキリアン・マーフィーとフローレンス・ピューのセックスシーンは描けるのに、焼け爛れ、ずるずると剥け落ちた皮膚は描けないのか。突き刺さったガラスは?黒焦げの焼死体は描けるのに、そこに一瞬では到達できなかった悶え苦しむ火傷を負った人たちを、一部だけ炭になった人たちを描けなかったのか。人が嘆き悲しむような描写はあっても、痛みはない。苦しみもない。劇中に何度か出てくる『Japanese』は徹底的に数字であった。
 反面、オッペンハイマーは痛みの分かる人物として描かれる。恋人の死を知った時にはそれなりの反応を見せるし、愛も執着も失望もある。人間らしい高揚や驕りも、迷いも思想もある。この映画では、徹底的に彼の心情が描かれる。仕事や活動を通じての、友人との心理的な距離も近く、孤高で高慢な物理学者といった印象はあまりうけない。もちろん、聖人でも善人でもない。物理という常人では理解できない共通言語があったからか、ごく限られた人しか存在しない、機密の計画の中の人物で、人との関わりが強く濃くあったからか、羨ましいほど人間関係の豊かな人生である。
 映画としての完成度は非常に高く、特に音響の使い方が秀逸であった。しかしここまで偉そうに語ったものの、私はきっとこの映画の50%も理解ができていない。だから観終わってすぐにもう一度観るのだということは私の中で決定していた。元々そのつもりではあり、だが、そんなことは関係なく、すとんと当たり前のように、これはもう一度観るものだと、自分の中に着地したのである。先にも述べたように、長く情報も色も光も多い映画だが、重苦しいといった印象は抱かなかった。長さの割にあまり疲れを感じなかった。慣れない時間の流れ方、間違いなく言えるのは、これは良質な映画で、再度観るべきだということ。一度一人で鑑賞をして、後日IMAXは友人と観に行こうと話していたが、やはり二回目も一人で見たいと思い直した。国同士の争いの大きな理由でもある(と私は考える)、ナショナリズムに聞こえてしまうのは本望ではないが、一緒に観るのが外国人の友人となると尚更である(アメリカ人ではない)。しかしきっと日本人の友人でも同じだ。例えば劇場を出た時に少しでも異なる感覚を得ていた時に、お互い安易に口にしてしまうであろう言葉に、同意も反対もしたくない。誰かと一緒にいるという理由だけで、薄っぺらい感想も述べたくない。それを考えるだけで疲れてしまう。ただ黙って、一人でゆっくりとゆっくりと、消化したい。劇中のオッペンハイマーがぼーっと夢想しているように、黙って、たった今観た、聴いた、感じた、という言葉で表すには難しい感覚ーーー経験をもう一度得たいのだ。
 それは私の希望であり、この映画を通じて別の意見や感想と出会い、それを交換するのも有意義であると思う。少なくともこの映画が大きく評価され、最大級の注目を浴びているのにも関わらず、実際の原子爆弾とその投下された事実については一切話題にならないアメリカ人の感覚は伝わった。日本人であり、以上のことを偉そうにつらつらと述べた私も、ポップコーンを食べながら鑑賞ができる精神状態であり、あくまでもエンターテイメントとしてこの映画を消費している。原子爆弾への脅威が身近になったかと聞かれれば、それはない。日本が必死で戦争をしていた時に、アメリカ内部で何が起こっていたかの知識が少し増えた程度である。劇中で原爆投下場所を決定する会議において、誰かーーー恐らく議長的なポジションの人物ーーーが京都は文化的価値から候補地から外した、ハネムーンで訪れた素晴らしい土地だったと言っていたのが妙にアメリカ人らしかった。パールハーバーの後でも、アメリカ人の、ユダヤ社会のナチスに対するような憎しみは日本に対しては感じない。彼らはーーープロバガンダや争いがなければーー日本の文化はどちらかといえば好ましいと思っているし、今の観光客を観ても、本当に日本が好きなのだろうなと感じさせる。ただ、アメリカ人の命に対して、日本人の命がとてもとても軽いだけである。そして、戦時中日本人の命を軽く扱ったのはアメリカだけではなく、日本政府であったことは、彼らによって記録された歴史を学んで尚、明白である。空襲に逃げるな水をかけろと、本土決戦だとうたい、大した計画もなく、物資のラインもなく、消耗品のように兵隊を戦地に送り込んだ政府である。この社会縮図は今尚全く変わっていないのだろうが。
 以上の感想は、オッペンハイマーを演じるキリアン・マーフィーを見て、アメリカ人ではないだろう、アイルランド人だろう、アメリカ人のふりをするのを辞めてくれと思ってしまったほど(役者に非常に失礼な感想である)、私の強いアメリカに対するコンプレックスがあったのもので、誰かを不快にさせていたり傷つけていたら本当に申し訳ない。私には日本人としてのアイデンティティや醜い選民意識が確かにあり、アメリカ人に対してレイシストーーー人種差別的な発言をしていることもここに謝罪したい。全ての人間がそうである、という言い方は決して正しくないし、避けるべきである。ただ、私の気持ちを馬鹿正直にこうして残しておきたかった。
 映画に話を戻すと、エミリー・ブラントの毒気が素晴らしく、オスカー助演女優賞ノミネートも納得である。ロバート・ダウニーJrは主演のキリアン・マーフィーに比べてシーンは限られていて、同じような画ばかりであったが、最終的に無意識にオッペンハイマーを応援したくなるには充分ないやらしさと存在感を発揮していた。フローレンス・ピューはこの時代のファッションメイクが本当によく似合うし、華があって、観ていて楽しい。低い声も素敵だ。しっかりとした肉づきの背中や、首に歳ではなく体型によるシワがあるのに気づいてしまうのに、なんて魅力的なのだろう。新しい美のスタンダードを体現していて、従来の痩せ型ではない彼女が次々と色んな映画で良い役を掴みとっていくのを見る非常に楽しい。数年前は彼女の太さが無意識に許せず、スクリーンで見慣れない体型のため違和感を得ていたのが、今ではすっかり大ファンである。
 最近仕事について考えることが多いため、こんなクリエイティブで思考や感覚を刺激し表現できるプロジェクトに参加できる人間たちに嫉妬を覚えた。やはり私は消費する側から、創造する側へ移りたいのである。
 

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