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JW445 六つの社

【崇神経綸編】エピソード20 六つの社


第十代天皇、崇神天皇(すじんてんのう)の御世。

紀元前37年、皇紀624年(崇神天皇61)のある日のこと。

ここは、磯城瑞籬宮(しきのみずかき・のみや)。

地図(磯城瑞籬宮)

崇神天皇こと、御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえ・のみこと)(以下、ミマキ)の元に、子供たちが参内(さんだい)していた。

すなわち、彦五十狭茅(ひこいさち)(以下、のまお)。

国方姫(くにかたひめ)(以下、ニカ)。

千千衝倭姫(ちちつくやまとひめ)(以下、チック)。

五十日鶴彦(いかつるひこ)(以下、イカッピ)。

倭彦(やまとひこ)である。

ミマキ「おお・・・。大后(おおきさき)の御間城姫(みまきひめ)こと『みぃ』ちゃんとの間に産まれた子供たちか・・・。如何(いかが)したのじゃ?」

系図(五人の子供たち、みぃ)

のまお「大王(おおきみ)! 今年は、何年(なにどし)か、御存知にござりまするか?」

ミマキ「唐突に何じゃ? 今年は、甲申(こうしん)の年・・・。申年(さるどし)じゃな・・・。」

ニカ「その通りにござりまする。そして、今年、何があったか御存知ですか?」

ミマキ「社(やしろ)が建ったとか、神が降臨したとか、そんなところであろう?」

チック「さすがは、大王! 六所神社(ろくしょじんじゃ)が創建されました。」

六所神社(鳥居)
六所神社(拝殿)

イカッピ「出雲国(いずも・のくに)の人々が、師長国(しなが・のくに:現在の神奈川県西部)に移住し開墾(かいこん)をおこなって、その地を柳田郷(やなぎだ・のさと)と名付けたのよ!」

地図(出雲から師長へ)
地図(師長国)

倭彦「そして、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、素戔嗚命(すさのお・のみこと)、櫛名田比売(くしなだひめ)の三柱(さんはしら)を祀(まつ)ったのでござる。」

のまお「左様。柳田大明神(やなぎだ・だいみょうじん)として奉(たてまつ)ったのでござる。」

するとそこに「みぃ」がやって来た。

みぃ「みなさん、大事なことが抜(ぬ)けておりますよ。」

ニカ「えっ? 大后? それは、どういうことにござりまするか?」

みぃ「伝承では、甲申の年に創建された・・・としか書かれておりませぬ。大王の御世で、甲申の年は、もう一つ有るのですよ。紀元前97年、皇紀564年(崇神天皇元)です。」

ミマキ「そうか・・・。甲申の年は、六十年に一度、訪れるのであったな・・・。では、元年の可能性も有るということか・・・。されど、なにゆえ、今年になったのじゃ?」

みぃ「さあ、みなさん、その理由(わけ)が分かりますか?」

チック「やはり、出雲の方々が移住したという点ではありませぬか?」

イカッピ「我(われ)も、そう思うわ。出雲が、ヤマトに与(くみ)したあとって感じがするの!」

ミマキ「なるほどのう・・・。ところで、何処(いずこ)に鎮座(ちんざ)しておるのじゃ?」

倭彦「神奈川県大磯町(おおいそちょう)の国府本郷(こくふほんごう)にござりまする。」

地図(六所神社)

みぃ「じゃあ、どうして、六所(ろくしょ)なのか、分かる人!」

のまお「平安時代になって、周辺の有力神社から五社を勧請(かんじょう)したからにござりまする。なお、勧請とは、神霊を別の地に迎えることにござりまする。」

みぃ「よく出来ました! 六つの社が一つになったので、六所になったというわけですね。」

ミマキ「されど、なにゆえ、日嗣皇子(ひつぎのみこ:イクのこと)は来ておらぬのじゃ?」

みぃ「出雲のことが絡(から)む話題には、入りたくないと・・・。」

こうして、なにはともあれ、六所神社が創建されたのであった。 

つづく

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