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【いざ鎌倉(49)】京の新たな支配者、六波羅探題

前回の振り返り。
貴族社会では死刑が廃止されていましたが、後鳥羽院の計画に加わったとされた公卿5名を容赦なく斬首とする鎌倉幕府。
戦争という武士のフィールドに足を踏み入れた彼らに幕府は「武士の論理」を適用するのでした。
後鳥羽院とその皇子たち「三上皇二親王」は配流され、幕府の介入によって後鳥羽院の兄・後高倉院が「治天の君」として院となり、新天皇にはその子・後堀河天皇が践祚しました。
多くの人が恐れた皇室滅亡は回避されましたが、後鳥羽院の皇統は幕府によって否定されました。

失意の帝王

後堀河天皇の践祚と前後して後鳥羽院への処罰が進められました。
7月6日、後鳥羽院は洛中の四辻殿から洛外の離宮である鳥羽殿に移されました。
後堀河天皇践祚の翌日となる7月10日、北条時氏(泰時嫡男)が甲冑姿で鳥羽殿に参上し、「院は流罪となりました。早くお出でください」と責め立てました。
後鳥羽院は突然かつ無礼な態度に言葉を失いましたが、最後の望みとして寵愛した忠臣・藤原能茂との面会を望みました。
時氏は父・泰時に相談し、泰時は能茂を出家させた上で後鳥羽院の下に向かわせました。
能茂の変わり果てた姿を見た後鳥羽院も出家を決断します。
後鳥羽院は似絵の名手・藤原信実に御影を描かせた後、自身の第三皇子である仁和寺御室・道助法親王を戎師として出家しました。
描かせた御影と切った髻を後鳥羽院は母・七条院殖子に送りました。
歴史教科書にも掲載され、我々の良く知る後鳥羽院の御影はその時のものです。

後鳥羽上皇御影(藤原信実筆)

この時の後鳥羽院にはかつての絶対の帝王としての威風は失われ、敗者としての失意が残されるばかりでした。
「君臣共に後悔、腸を断つ」と『吾妻鑑』は記します。

後鳥羽院、隠岐へ

7月13日、後鳥羽院は流刑地となる隠岐への旅路につきました。輿を進行方向と逆向きとする罪人移送の逆輿に乗せられての出発でした。
供奉したのは元北面の武士・藤原能茂と坊門局、亀菊ら女房数名、医師1名、僧1名と護送する武士を除けばごく少数でした。
7月27日、出雲の大浜浦(島根県八束郡美保関町)に到着し、護衛の武士の多くはこの地で帰京しました。
後鳥羽院が隠岐に渡ったのは8月5日。およそ18年に及ぶ隠岐での生活が始まるのでした。

後鳥羽院の皇子たち、その運命

後鳥羽院の正統後継者として期待され、その計画にも積極的に加わった順徳院は7月20日、流刑地の佐渡への旅路につきました。父以上の好戦派であったともいわれます。
順徳院には一条能氏、藤原範経、源康光と女房2名が供奉しました。しかし、旅路は過酷であったようで能氏は病となって京へ帰国し、範経も重病となって越後で死去しました。
8月中旬には佐渡へと渡り、約20年の流刑地での生活が始まりました。

後鳥羽院の第一皇子である土御門院は、後ろ盾であった源通親を失ったことにより父帝の意向によって半ば強引に皇太弟・順徳院に譲位を余儀なくされ、長く政治の中心からは外れていました。
父帝の計画に参画せず、諫める「賢王」であったとも伝わります。
幕府も戦争責任を不問としていましたが、父と弟たちが流罪となる中、自分の意志で土佐へと赴きました。後により京に近い阿波へと移りました。

7月24日に六条宮雅成親王が但馬へ、同25日に冷泉宮頼仁親王が備前に配流されました。源実朝の後継者の四代将軍として鎌倉への下向を幕府が望んだ両親王でしたが、父である後鳥羽院は実朝死後に拒絶。両親王は父院の計画に加わり流罪となりました。
雅成親王は後鳥羽院の死後に赦免され、一時的に帰京を認められましたが、幕府と九条家の皇位継承を巡る政争に巻き込まれて再び但馬へと送り返されました。建長7(1255)年に56歳で薨去しました。
頼仁親王は配流先の備前国児島(岡山県倉敷市・岡山市南区)で40年を超える人生を送り、文永元(1264)年に64歳で薨去しました。

最後に、後鳥羽院の官軍の敗戦により廃位に追い込まれた仲恭天皇は、母の実家である九条家の屋敷に移りました。以後、政治に関わることはなく、天福2(1234)年に17歳で崩御しました。

幕府の西国進出

承久合戦の勝利は東国政権であった鎌倉幕府の西国進出が進むきっかけとなりました。
幕府軍の東海道軍を指揮した北条時房と北条泰時は六波羅を拠点とし、「占領軍司令官」として戦後処理を進めました。六波羅探題のはじまりです。初期の六波羅探題は軍事・警察機構としての性格が色濃い組織でしたが、後に裁判能力も強化され、幕府の京における出先機関としての存在感を増していくことになります。
承久合戦の敗戦により、北面の武士は大幅に縮小、西面の武士は廃止され、朝廷は独自の軍事力をほぼ失いました。また、院や朝廷が治安維持のために在京御家人を直接動員することもなくなりました。戦前は数多くいた、後鳥羽院にも幕府にも忠誠を誓うような両属の武士はいなくなったということです。
こうして御家人が幕府を介さずに天皇と繋がりを持つことは否定されました。

これにより、六波羅探題が京の治安維持の主導権を握ることとなり、朝廷は六波羅への依存を深めていくのでした。
なお、時房と泰時が鎌倉に戻った後も六波羅探題は北条一門から選ばれました。承久合戦において、六波羅探題の前身といえる京都守護・大江親広が官軍に加わって幕府と敵対した反省を活かしたと言って良いでしょう。
以後、歴代六波羅探題は滅亡の時まで幕府を裏切ることは一度もありませんでした。

また、後鳥羽院に従った貴族・武士の所領3000か所以上が没収され、幕府の御家人に恩賞として与えられました。当初、御家人たちは西国の所領には代官を派遣することが多かったのですが、後に蒙古襲来によって西国の防備が求められるようになると、幕府は御家人たちに西国所領への移住を推奨するようになります。こうして西国に移住した御家人を西遷御家人と言います。

戦争責任者・残党の捜索

三上皇が配流された後も、幕府は六波羅探題を中心に逃亡した戦争責任者の捜索を続けました。

承久3(1221)年10月6日、南都に潜んでいた藤原秀康・秀澄兄弟が捕らえられました。
南都から河内へと逃亡した後に捕らえられ、六波羅に送られて処刑されました。
兄弟は、後鳥羽院の信頼篤く、官軍の指揮を任されましたが、実戦経験はなく、最後まで幕府軍を脅かすような戦いを展開することはできませんでした。

嘉禄3(1227)年6月14日、出羽国羽黒山総長吏として幕府の調伏を行い、合戦にも出陣した一条家出身の僧・二位法印尊長が京で捕らえられました。戦後の混乱の中、逃亡生活を続けていましたが、この頃、幕府への反乱を計画していたと伝わります。捕らえられる際に尊長は抵抗し、武士2名を負傷させた後に自殺を図りましたが失敗し、六波羅に連行されて処刑されました。

同日、和田朝盛も捕らえられました。幕府の侍所別当を務めた和田義盛の孫であり、和歌の名手として3代将軍源実朝の側近でもありました。
和田合戦と承久合戦、2度幕府を相手に戦った反骨の武士。捕らえられた後のことははっきりと伝わっていません。

寛喜2(1230)年12月、かつて伊賀・伊勢・美濃3カ国守護であった大内惟信が比叡山で法師となって潜んでいた所を捕縛されました。約9年の潜伏生活でした。
惟信は、3代実朝政権において政所別当を務めるなど源氏一門に相応しい幕府の重鎮でしたが、在京が多かったことから後鳥羽院の官軍に参加。美濃での戦いで武田信光・小笠原長清の軍勢に敗れました。
六波羅に捕らえられた惟信は西国へ流されました。

こうして戦後も10年近く、幕府は官軍側の戦争責任者と残党の捜索を続けました。

次回予告

北条義時、政子が相次いでこの世を去る。
京に続いて鎌倉にも新しい時代が訪れるのであった。
そして遠く隠岐の地で政治と離れた後鳥羽院は和歌の世界へと還り、『新古今和歌集』の完成形を求める。
京で度々起こる後鳥羽院帰京への期待。
突然の皇位継承問題。
帝王たちの最期。
歴史の真の勝利者とは。
終局、「最後の勝利者」。

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