見出し画像

【異国合戦(9)】鎌倉幕府、新時代へ

 連載第9回。
 前回記事は下記よりお読みください。

これまでの記事は下記のまとめよりお読みください。


宗尊親王の下向

 建長4年(1252)4月1日、幕府は6代将軍宗尊親王を鎌倉に迎えた。親王の父は後嵯峨上皇、母は平棟子。母の実家は桓武平氏であるが、平清盛ら武家平氏とは別系統の家門である。棟子は大変な美人で後嵯峨上皇のお気に入りだったらしい。
 仁治3年(1242)生まれの親王は10歳で鎌倉へと下向した。この頃の皇室は、皇位継承と無縁の皇子は出家の上で大寺院を継承させるのが一般的であったから、既に弟の後深草天皇が即位していながら俗人のまま親王宣下を受けて皇室に留まっていた宗尊親王は、父の後嵯峨院に大切にされていたといえる。僧侶になって大寺院に入ったほうが将来にわたって経済的な恩恵を十分に受けられるのだが、そうしなかったのは宗尊親王の皇位継承の可能性を後嵯峨院は残したかったのだろう。
 ただ、母・棟子の身分が低いことで皇位を継承することは簡単ではなく、「天皇になる」でも「出家して僧になる」でもない「征夷大将軍になる」という新たな道を開く幕府からの親王将軍下向の要請は父・後嵯峨院にとって渡りに船であった。「即位しないのであれば征夷大将軍が一番良い」というのが当時の後嵯峨院周辺の評価であり、これは征夷大将軍(鎌倉殿)の価値が京でも高く認められていたことを示す。
 後嵯峨院は宗尊親王に仕える貴族たちに「将軍に仕えるのは私と仕えるのと同じであり、昇進に不利がないようにする」と伝えて鎌倉に送り出したという。貴族たちにとっても「京を離れて鎌倉で出世する」という道が従来以上に開かれた。
 
 4代将軍九条頼経の際は無位無官で鎌倉に下向し、成長するまでは尼将軍として北条政子が将軍権力を代行するという形式が取られたが、宗尊親王は最初から将軍として鎌倉に下向した。
 これは代行するに値する人物が鎌倉側に不在だったということもあるが、執権北条時頼が将軍不在を望まなかったとも考えられよう。旧九条将軍派や反得宗勢力の巻き返しの隙をつくらない政治の安定と継続が重視された結果といえる。

親王将軍誕生による変化

 摂家将軍と親王将軍は鎌倉幕府の歴史において「非源氏将軍」として同一に括られがちであるが、九条家と皇族では当然身分に差があり、将軍の性格に差が生じる。幕府はその差に苦慮した。
 一例として、宗尊親王を乗せた輿が幕府創設者である源頼朝の墓所の前を通過した際に将軍を輿から降ろすかどうかが議論になった。先代九条頼嗣の際は輿から降ろす対応を取ったが、宗尊親王は輿から降ろすことなく通過することにした。北条時頼を中心とした幕府首脳部は親王という出自を重視した対応を取った。
 また、これまで将軍自ら参拝することが慣例となっていた鶴岡八幡宮臨時祭は奉幣使派遣に変更された。身分の高貴な親王は安易に行啓(外出)しないというのが表向きの理由であったが、武家政権の幕府に親王行啓についてのノウハウが不足していた、行列の体裁を整えるのに従来以上に費用を要したことも理由として考えられよう。
 行啓の機会が限られることは必然的に御家人と行動を共にする機会が減少することを意味し、これは将軍と御家人の深い主従関係を築く体験の減少も意味した。将軍を中心とした派閥形成が脅威となりうる北条得宗家にとっては好都合であったといえる。
 成長するにつれて宗尊親王は和歌を得意とするようになり、将軍御所に和歌に心得のある御家人が集まるようになった。鎌倉歌壇は3代源実朝以来の活況を呈するが、その和歌を通した集まりが摂家将軍時代のような得宗家に対抗する政治派閥へと発展することは無かった。

幕府政治の転換

 建長8年(1256)3月11日、執権北条時頼の舅にして連署である北条重時が連署を辞して出家した。これにより重時は政治の一線から退く。この時、59歳。今日の感覚からすれば年金も貰えずまだまだ若いが、当時としては十分に老齢といえよう。法名を観覚という。
 浄土宗を信仰しており、念仏を中心とした信仰の生活を送るのが出家の目的であった。隠居先の極楽寺にちなみ「極楽寺殿」、「極楽寺入道」などと呼ばれた。浄土宗の念仏信仰を厳しく批判した日蓮も重時については「立派な人物である」と高く評価している。
 
 後任の連署には重時の弟で2代執権北条義時の五男・北条政村が就任した。政村は、義時死去の時点における正妻・伊賀の方の子であり、義時の有力な後継候補であった。伊賀氏の変ともいわれる後継争いは結局、長男・北条泰時の勝利に終わり、伊賀氏関係者も処分されたが、政村は不問とされた。以後、政村は野心を見せることなく、得宗家を支持し、幕府の重鎮の一人としてあり続けた。

(前回シリーズより参考記事)

 政村は延応元年(1239)年に幕府の最高議決機関である評定衆の一員となり、翌年から連署就任まで17年間評定衆筆頭の地位にあった。このことは得宗家の側も政村を強く信頼していたことを物語る。兄・重時の出家により、満を持しての連署就任であった。
 
 連署交代から約7か月経った11月執権北条時頼が病に倒れる。時頼は出家し、執権を辞任した。後任に前連署・北条重時の長男で前六波羅北方探題の赤橋長時が任じられた。これにより初めて北条氏本家である得宗家以外から執権が誕生した。
 「ただし家督(時宗)幼稚の程の眼代(代理)なり」と『吾妻鏡』は記しており、長時はあくまでも北条時宗が成長するまでの中継ぎであった。時頼は病から回復すると、政務に復帰しており、幕政の実権は以後も時頼の手にあった。
 ここに将軍でも執権でもなく、北条氏の家督、つまりは得宗が最高実力者として幕政を主導する得宗政治が生まれることになる。
 
 執権と連署が交代したこの年、京に追放された4代・5代将軍の九条頼経・頼嗣親子が相次いでこの世を去っている。鎌倉幕府は新しい時代を迎えようとしていた。

北条時宗元服

 時頼出家から3か月後の正嘉元年(1257)2月26日、7歳になった北条時宗が元服する。将軍の宗尊親王を烏帽子親として一字拝領し、正寿と呼ばれた少年は「相模太郎時宗」の名を与えられた。
 前年に元服を済ませた庶兄は「相模三郎時利」(後に時利から時輔と改名)の名を与えられている。
 通常であれば長男が太郎で次男が次郎となるが、時頼は長男に三郎、次男に太郎の名を与えた。これは正妻の子で嫡男である時宗が、側室の子で庶子である時利より上位の立場にあったことを示す。「次郎」を飛ばしたことはそれだけの差があることを意味しているとも解釈できよう。
 いずれにしろ北条時宗が未来の北条氏の家督=得宗であることは誰の目にも明らかであった。

第10回へ続く。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?