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【いざ鎌倉(9)】英雄の最期 源頼朝薨去

関白・九条兼実の失脚により、朝廷の政治は源通親を中心に進められることになります。
源頼朝は、建久7年の政変において、かつての提携相手であった九条兼実に助け船を出さず、引き続き源通親を交渉相手として娘・大姫の入内を目指していました。
しかし、入内は一向に実現に至りませんでした。

今回は建久8(1197)年から。

本編前回はこちら。

失脚後の兼実について書いた人物伝も合わせてどうぞ。

悲しき姫

源頼朝と室・政子にとって最初の子である大姫は長らく病がちでした。
寿永2(1183)年、源頼朝と木曽義仲の間で緊張が高まると、両者は自分の子供を婚姻させることで和議を結びます。
頼朝の娘・大姫は人質としてやってきた義仲の息子・清水義高の許嫁となります。
しかし、翌年和議は破綻し、頼朝が京に送った軍との戦いで義仲は敗死。
大姫は義高を鎌倉から逃がそうとしますが、逃走は失敗し、義高は頼朝配下の御家人に討たれてしまいます。
若くして許嫁を父の命令で殺された大姫は、それ以来、心を病み、病床に臥すことが多くなりました。

頼朝が大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたのは、良き相手を見つけてやろうという親心などではなく、純然たる政治的な問題と考えるべきでしょう。
事実、後に大姫の妹・三幡の入内工作も行っています。可哀そうだから、罪滅ぼしとして天皇の后にしようとしたという話ではありません。
頼朝には自身が天皇の外戚に収まり、幕府の政治力を引き上げる構想があったのだと考えるべきでしょう。

源通親をパイプとした入内工作がなかなか進まなかったのは、通親に積極的に取り次ぐ積極的意志がなかったというのもあるでしょうが、やはり大姫の体調が依然として万全ではなかったということも大きいと考えられます。
建久8(1197)年7月14日、2年前の上洛と父の工作が心身の負担となったのか、大姫は体調を悪化させ、悲しく短い生涯を終えます。
20歳だったといわれます。
頼朝が膨大な資産と労力を費やし、九条兼実を切り捨てて臨んだ入内工作は、水泡に帰すこととなりました。


後鳥羽天皇の譲位

大姫死去から3か月経った10月13日、頼朝の妹を妻とする親幕府派の公卿・一条能保が病死します。
頼朝にとっては朝廷とのパイプ役をまた一人失う痛恨事でした。

頼朝が京への影響力を低下させる中、後鳥羽天皇が源通親の養女・在子との子で、4歳の為仁親王への譲位の意向を示します。
為仁親王への譲位が実現すれば、源通親が新帝の外祖父となり、自身が外祖父に収まろうとする頼朝の構想は破綻します。
頼朝は幼帝への譲位に反対し、後鳥羽天皇にとって兄となる守貞親王、惟明親王への譲位を主張しますが、後鳥羽天皇と源通親にとってこれを受け入れるメリットは何もなく、頼朝の提案は無視されます。
建久9(1198)年1月11日、後鳥羽天皇が譲位し、為仁親王が践祚します。
第83代土御門天皇です。

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土御門天皇

「源博陸」と自立し始める後鳥羽院

土御門天皇の践祚・即位により源通親は、天皇の外祖父として朝廷と内裏に強い影響力を持つとともに、譲位した後鳥羽院の執事別当に就任し、院の実権をも握ります。
このときの通親の位階は正二位権大納言でしたが、絶大な権勢から「源氏の関白」を意味する「源博陸」と称されるようになりました。

この譲位は明らかに源通親が主導したものですが、18歳となった後鳥羽院が徐々に自立の道を歩み始めていることも見逃せません。
建久7(1196)年10月には坊門信清の娘との間に第二皇子・長仁親王が、建久8(1197)年8月には高倉範季の娘・重子との間に第三皇子・守成親王(後の順徳天皇)が生まれています。
源通親の養女で土御門天皇の母である在子から他の女性へと後鳥羽院の気持ちは移りつつありました。
このような中で後鳥羽院は源通親ではなく、自分自身が正統な帝王として政治権力を行使できる政治体制を模索していくこととなります。

英雄の死

大姫が他界し、新帝が即位した後も、婚姻で幕府と朝廷を結びつけることを頼朝は諦めきれません
今度は、次女・三幡の入内を画策し、朝廷との直接交渉のための3度目の上洛の準備を進めます。

しかし、建久10(1199)年正月、頼朝は御家人・稲毛重成が新造した相模橋の落成を祝う行事に出席した後、鎌倉へと戻る帰路で落馬し、意識を失います。
鎌倉に戻った後も頼朝の容態は回復せず、1月13日に他界します。
享年53歳でした。

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源頼朝墓所(鎌倉 白旗神社)

京には1月20日に頼朝死去の報が伝わり、左近衛大将・近衛家実は日記にその死因を「飲水病(糖尿病)」と記しています。
単なる落馬事故なのか、何らかの病で落馬に至ったのか定かではありませんが、流人の立場から武門の頂点に立った英雄の突然の最期でした。


次回予告

頼朝の死で第一章が終わった感じがあります。
次回は再び人物伝。
もちろん「源頼朝」についてです。

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