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【創作論】人は物語が好き。作者と作品と批評について。

1920年代には、ニュー・クリティシズムという文学批評思想が流行しました。
当時、芸術作品への批評がまるで作者その人についての批評になってしまうことが多発し、その反発として生まれた潮流だったようです。

ウィキペディアには――

作品を社会的、歴史的文脈から切り離し、また作者の伝記的事実と結びつけることをせず、純粋に作品そのものに即して論じようとした。

とあります。
つまり、作者ではなく作品に目を向けようということですね。


私も一時はこの考え方に深く共感していました。
記憶に新しいもので言えば、新海誠さんの『君の名は。』に対して、作家の石田衣良さんが、


「たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか。それがテーマとして架空のまま、生涯のテーマとして活きている。」


などと言及しているのが本当に寒かった。
こうなってくると、素人がプロファイリングの真似事をしているだけです。



一方、作品を見て作者の人となりが気になるのは鑑賞者の性でもあります。
私も小説を読んだり映画を観たりして作家や監督をググる行為は当たり前のようにしますし、作者について知識を得れば作品の印象が変化することもあります。

クラシック音楽の演奏家は、楽曲の持つ社会的・歴史的背景を作曲家自身の伝記的事実(例:作曲当時失恋のどん底だった)を含めて研究し、表現に活かすそうです。
現代のポピュラーミュージックでも同じです。ミュージシャンの個性を知った上で曲を聴く方が魅力的に聴こえるでしょう。


こういったことは芸術以外の分野でも当てはまります。

スポーツもそうです。
誰だって競技の中身だけを楽しんでいるわけではありません。アスリートのパーソナルな部分を知った上で感動を得ようとする。
だからこそスポーツ選手がテレビのバラエティ番組に呼ばれるといったことも起こるわけです。


いずれにしても、
作品(見せるモノ)と、作者(見せるヒト)は、切り離せない関係にあることがわかると思います。



■ 人々が楽しんでいるものの本質は何か

では、作品と作者を結び付けることによって、人は何を楽しんでいるのでしょうか。
それこそ、私は「物語(ストーリー)」であると考えています。

どういうヒトが、どういうプロセスを経て、どういうモノを作ったか/どういうコトをしたか。
これがそのまま一つの物語であり、その物語に人々は熱狂するのです。


私も小説を書きますから、作り手が作品にこそ注目してほしいと感じる気持ちはよくわかります。
まして、新海誠さんのように作品を通して自分をプロファイリングなどされてしまうと、それは不快でしょう。


しかし、モノとヒトを総合して鑑賞すること(されること)を避けられないのであれば、むしろ作者の方から自分の人となりを積極的に見せていくことも戦略として賢いのかもしれません。

ある作家が以前、
「テレビに出ることで作品が売れるなら大歓迎」
といった趣旨のことを発言されていましたが、これは――

自分自身という巨大な物語を見せようとしている

とも取れるのではないか。
今はそんな風に考えるようになりました。



私も、noteに個人的な内容も含め様々な記事を書いておりますが、
「これらがいずれ私の小説作品と結びつけられて誰かに論じられる日が来たら……」
と空想して、一人でわくわくしているのであります。



■おまけ

似た考えを書いている方もおられました。紹介させていただきます。