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#11 マレーシア留学「日本人はいったい何者なのか。外からのぞいた日本人」

マレーシアに来てもう3か月が経とうとしている。

海外から冷静に日本社会を見つめることもできてきた。留学に来たからこそ日本人がいかに特殊な民族かということにも最近気が付いてきたので、今回はそこを文章化しようと思う。


1. 言語文化から紐解く日本人の性質と社会

まずは言語が抱えている背景から言及したいと思う。

日本語は世界でもトップレベルのハイコンテクスト文化である。お隣の韓国やインドネシアなどアジア圏も比較的その傾向がある。逆に、英語圏とりわけ、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどはそれとは反対に圧倒的にローコンテクスト文化である。それを理解せず、普段の日本人と喋っている間隔で、かれらと会話をしていれば、途中でかみ合わなくなったり、トラブルにつながりかねない。

ハイコンテクスト、ローコンテクストとは「文脈」「状況」を意味する「コンテクスト」が高いか低いかということであり、どれだけ会話が、文脈理解や状況理解に依存するかについての文化的差異である。

要する日本語のようにハイコンテクストであればあるほど、「阿吽の呼吸」という言葉で語られるように、はっきりと言葉にせずとも雰囲気や文脈を掴んで相手のことを理解することが中心となるが、逆にローコンテクストであれば、シンプルで明快なコミュニケーションをとるため、言葉通りに伝えられ、読んで字のごとく受け取られる。「暗黙の了解」なんてものはなく、思ったことは言語にしないと伝わらない。そういうわけで、ローコンテクストの人に遊びに誘われたとき、「いけたら行く」などの曖昧な答えを返し、結局行かなかったから、トラブルになったという事例はしょっちゅう耳にする。無理なら無理とはっきり言う。自信をもって断っていい。断ったぐらいで関係性は終わらないし、そんなことで終わる関係性ならむしろ切った方がいい。

そして、次にこのハイコンテクスト文化にどのように国民性に関係しているかというところについて言及する。

2. 日本人は本当に協調的か

日本の強すぎるハイコンテクスト文化は「空気を読む」という言葉が顕著に表している

言葉にすることなくその雰囲気を読み、その場において最適な言葉を、自分の本当に思っている意見を押し殺して言った経験はないだろうか。

まさにこのシチュエーションは「本音」と「建前」という日本人特有の性質が当てはまるように、ハイコンテクストは日本人の性格と強い相関があるように見える。

日常生活でも、相手に合わせて会話をしたことはないだろうか。

「その場の会話を盛り上げたり、相手と良好な関係を気づくために自分に嘘をついたんだ」だから自己犠牲の精神を持つ日本人は「協調性があってすばらしい!」というのは、私は表向きの浅はかな理論でしかないと思う。

実際我々の心の中にあるのは、「相手に好かれるため」そうして「自分のポジションを落とさないようにする」という自分の地位や名誉にすがる利己的な感情ではないか。どうも自分には集団主義に見せかけた、個人主義に思えてならないのだ。

実際、もし本当に集団主義であれば、集団に関心を持つ人が増えて、もっと活発に集団の利益になる議論が生まれてもいいはずだ。しかし、実際日本は政治や社会問題に無関心な人が多いという指摘をよく耳にしたことはなかろうか。政治の話を他人とするのはどことなくタブーとされ、政治に関する議論を親や友人としたことがない人は多いのではないか。

実際にデータも出ている。

まずは、個人主義についての衝撃的なデータだ。
「日本の貧困対策がどれほど貧困かよく分かる数字」 2012年11月09日 『Afternoon Cafe(BLOGOS版)』によると、
「自力で生きていけない人たちを国や政府は助けるべきだ」とは思わないと言う人の割合は日本は何と38%、すなわち、3人に1人以上がそう思わないと答えているのである。
アメリカ:約28%、
イギリス:約8%
フランス:8%
中国:9%
インド:8%
個人の自由や自律を重視するアメリカでさえ約28%なのだから、日本がぶっちぎりで高いことが分かる。

これを象徴する有名な現象は、生活保護不正受給に関するバッシングだ。メディアが不正受給について囃し立て、ネットでさんざんバッシングなどが起こり、本来受給水準にある人が、バッシングを恐れて制度を利用できないという問題である。実際、全受給者のうちたったの0.3%が不正受給者であるにもかかわらず、この影響もあってか、受給可能ラインの人で生活保護を受けていない人は約8割という重大な問題を引き起こしている。「生活保護の人は楽をしている」と非難する風潮もまだまだ根強く本当に支援が必要な人の足かせになっている。

続いては政治や社会の無関心のデータについてである。
ロイター・ジャーナリズム研究所の調査で、「前週にニュースについて同僚や友人と会話をしたか」と調査したところ、「はい」と答えた人の割合は、日本:19%
米国:40%
英国:37%
圧倒的に日本が低水準にある。

それだけではない。「オンライン上でニュースをシェアしたり、議論をしたか」という質問では、
日本:5%
米国:20%
英国:12%
諸外国に比べて大幅に下回っている。

また、「普段からオンラインでニュースをシェアし、コメントを書き込むか」について聞いた項目でも、日本は36カ国中最下位の13%だった。

こんな社会のどこが集団主義で、どうして真に協調性があるといえようか。日本の協調性は自己中心的な協調性で、自分の損得をフィルターにして、とりあえず協調しているだけなのではないだろうか。

もちろんすべての日本人とは言わない。本当に相手のことを思って、行動できる人間を日本人を何人も見てきた。対照的に自分は偽りの協調性にまみれた人間であったことを再認識し、ここに改めて自分への戒めとしてこの記事を書いているという側面もある。

3. 炎上文化について

かといって、協調性とかを考えず、忖度しないで発言した人間はどういった末路をたどるかは目に見えている。

そう。炎上だ。同調圧力や偽りの協調性が強すぎるために、そこから外れた発言や行動は一斉に袋叩きされる。

だが、ひとつ考え方を変えると、時と場合によって炎上されるような発言が、実は本質っぽいこともある。

社会にとって都合が悪いことが引っ張り出されて、それに火が付く。それが本質でない理由はどこにもない。なんとなくで「炎上したからこのトピックについて会話するのは間違っているから、避けよう」とする姿勢は逃げているとも捉えられる。逃げてばかりでは議論は前には進まないし、本質は捉えられない。

もちろん、すべての炎上トピックが本質をついているとは言わない。ただ、炎上を恐れて、何もできなくなる方が問題だと思っているタブーに足を突っ込もうとする姿勢が、意外と硬直していた議論の潤滑油となり、物事の解決につながることもあるかもしれない。それくらいの心持ちで最近は、ごうごうと燃え上がる炎がいかに広がっていき、そしていかに沈下していくかをゆったりと眺めている。

ここで、タブーに関する留学上で学んだ経験を話す。

留学をする人間はさんざん聞かされると思うが、
「外国人と宗教と政治の話をすることはタブーなので避けましょう。トラブルになりかねません」と口酸っぱく伝えられるが、それはあまり正しいとはいえない。まず第一に、向こうがなりふり構わず聞いてくる。

「日本の政治はどうなっているのか」
「経済はどうなっているのか」
「どういう立場で眺めているのか」
海外の大学生はこういうことに関心が大きく、逆に「あなたの国はどうなんだ」と聞いてみたときもむしろ議論を楽しんでいる様子で話してくれる。

宗教に関してもそうだ。私は無宗教なので、宗教に対して無知であるから、とにかくいろいろ知りたいのであれこれ聞いてみるが、みんな真摯に答えてくれる。

特にマレーシアはイスラム教が6割を占めており、イスラム教では1日5回、お祈りしなければならないため「どのようにお祈りしているのか?」と聞いたところ、なんとお祈りの時間に礼拝堂に連れてってもらって一から丁寧にお祈りの仕方を教えてもらうことができた

終わってから「興味を持ってくれてうれしい」ともいわれ「なんていいやつなんだ、、、」といささか感動したわけだが、発端としてはなんとなくタブー視されていた宗教について質問してみたからできた貴重な体験だ。今では他の人よりも経験的にイスラム教を理解できている自身がある。

何が言いたいのかというとタブーかどうかは社会が決めることではない自分が決めることだ。実際に話してみて、やばそうだったらそのトピックについてはもう話さないようにすればいい。ただそれだけのことである。

4. カルチャーと宗教が無関心にどう関係するか

最後に上記で述べた、社会への無関心と他人への無関心について、留学先で学んだことも含めてその背景について述べようと思う。

純粋にこれも一つの相関関係ではないかと自分が勝手に考えたことなので、「これが原因でこうだ」という因果関係を無理に当てはめるつもりはないし、物事はそんなに単純ではないことは先に触れておきたい。「そうかもねー」程度で受け取ってほしい。

まずは、日本のカルチャーについてだ。日本と言えば、漫画・アニメを始めとして、ドラマ・アイドル、映画、音楽、文学、日本食、お笑い、ファッション、ギャル、侍など、枚挙にいとまがない世界に通用する強すぎるカルチャーを持っている。

まず、こっちに来て驚いたのが、今まであったすべての留学生が例外なくなにかしらの日本カルチャーに触れているという点である。アニメの話になれば、日本人の知らないアニメを見ている人はたくさんいるし、ほぼ全員日本食を食べた経験がある。

食に関しては驚くべきで、世界中のあらゆるところに日本食レストランがあるようだ。「好きな日本食は?」と聞いたら、選択肢が何個かあって、その中から悩みつつ、選んで「とんかつ!」や「オムライス!」などと、さしてメジャーではない日本食を答えれる留学生はざらにいる。

これは異常なことだと思う。

日本人で「好きなマレー料理は?」と聞かれて、悩みつつ「ロティチャナイ!」と言える人間はごくごくひと握りだろう。逆に自分が向こうのカルチャーを知らなすぎて、その会話をしようにもできないのがもどかしいと思うくらいである。

それだけ、日本のカルチャーは世界の隅々まで渡っており、人々の日常に浸透しているのだ。その爆心地である日本にいる日本人が、その恩恵を受けまくっていることは言うまでもないだろう。

自分がここで指摘したいのは、「カルチャーが用意した現実とは別の世界にどっぷりと浸かりすぎていて、現実から目を背けている人が多いのではないか。」

あるいは、「現実は一応見ているものの、飯はうまいし、エンタメはおもろいし、おまけに治安はそこそこいいから危機感を強く抱かないのではないか。」と思ってしまう。

カルチャーが優れているのは大いに素晴らしいことだと思うが、それだけに現実を直視して、危機感を受け入れる勇気を持つ姿勢も重要だなと考えている。

続いて、宗教についてだが、日本は大多数が無宗教な人々によって構成される宗教国家だと思う。

実はカルト宗教や宗教団体と名乗る団体の数は、日本は比較的多い。配偶者などを亡くし、孤独を感じてしまった高齢者がすがるものして、あやしい宗教に入ってしまうという構図があるということについてはぜひ深堀たいところだが、今はそこについては詳しく言及しない。

日本の生活様式自体も、実に多くの宗教から影響を受けており、有名なところでは、神社は神道の影響を受けており、お寺は仏教の影響を受けて今も残り続けているものである。そんな日本であるが、なぜだかどこの宗教にも属さない無宗教の人が多い。世界的に見ても、無宗教の人がこれだけ多い国家は異例であり、私はこの無宗教こそが日本人の他者への無関心について関係があると考えている

少なくとも、世界のメジャーな宗教は他者に対して慈しみの精神を持つことを説いている。「困っている人には優しくしようね」ということである。

宗教の教えについては多かれ少なかれ、子供のうちから家庭・学校・地域・教会などにより習慣のように刷り込まれていくものである。

具体例を挙げると、イスラム教には「ラマダン」という一カ月の間は、日の出ている間だけは一切何も口にしてはならない、いわゆる断食の期間がある。なんでそんな辛いことをわざわざするのかと思うかも知れないが、理由の一つに「十分ご飯を食べられない貧しい人の気持ちを理解する」というものがあると聞いた。要するに、恵まれないものに対する慈しみの精神を養う行為でもあるということだ。

また、海外に行くと、物乞いの人が街にいることは珍しくはないが、意外と寄付が集まっている。街を歩く人がちょっとばかりであるが、すっと小銭や手元にあった紙幣を渡しているのをよく見かける。これはその精神の基、成り立っていると考える。日本人でお金を寄付したことがある人は意外と少ないのではないか。実際に寄付市場を見ても、GDPに対する寄付額の割合が諸外国に比べて低い

どんな日本人でも、なんとなく倫理的に他者に対して優しくしなければならないのは知っているだろうが、宗教のように刷り込まれるほど教えこまれたかと言えばそうではない。宗教という人生に一生つきまとう、ある種の道徳みたいなものを持たなかったために、他者に関心を持てなかった可能性はゼロではない。

もう一つ、無宗教であるが故の弊害として考えられるのが、「宗教が同一であるということから得られる無意識のうちの共通認識や連帯感」がないところも考慮しておきたい。

例えば先ほど挙げた「ラマダン」の例をもう一度活用すると、「ラマダン」を行うもう一つの目的に「イスラム教徒としての連帯」があるが、イスラム教徒は一カ月のラマダンの間、苦労を共にすることにより、よりコミュニティとしての連帯感を高めているのである。

さらに、「ラマダン」期間中、日没の間は自由に飲食できるのだが、日没後の食事は「イフタール」と呼ばれ、家族や親戚、地域の人などが集まり、食卓を囲んで一緒に食事をする習慣がある。これは非常に興味深い。「ラマダン」が日本の地域コミュニティのような、地域の年に一度の恒例行事のような役割を担っていて、それにより地域の連帯感や助け合いの意識を育んでいるのである。

これはただの一例でしかないが、他の宗教にも似たような習慣があり、日本人はたまたま無宗教であったためにこの機会を逃し、さらには同一の宗教であるという共通認識や仲間意識も逃してしまったということが言える。それが他者への無関心につながった可能性がないとは言えない。

5. 最後に

日本人の国民性は今回は悪いところを中心に扱ってきたが、いいところももちろんある。さんざん指摘しておきながら、自分が何か出来ているかといったら何もできていない。今のところ、ただ外から茶々を入れて自分はなにもしない気取ったコメンテーターだ。そんなものでは意味がない。というかそもそもこの指摘自体、定性的な気づきを都合よく列挙したものなので、まったくもって見当はずれかもしれない。こんなどうでもいいものに長々と付き合っていただいてありがとうございました。あらゆる国民性のいいなって思ったところをちょっとずつつまんだ、よくわかんない人間になれたらなと思います。

2023年12月11日著


参考ウェブサイト・参考文献

平田オリザ (2012)『わかりあえないことから - コミュニケーション能力とは何か』 講談社

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