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誰が私を幸せにする?


毒親。親ガチャ。

この言葉を聞いて私のことを思い出す人がもしいたら、私はこんなふうに言いたい。

ふとそんなことを考えたので、
こーゆーポジティブで灯火になるものこそちゃんと言葉にしておこうと思う。


誰よりも面白い人生を歩んでいる

たしかに、私の人生は人より少しハードモードなのかもしれない。

父親は脳疾患に心臓疾患を患い、
その影響で長年にわたる母へのモラハラが続き、彼らは熟年離婚を選択した。
私は母と一緒に実家から籍を抜く。
父の支離滅裂で危険な様子から一線を画すべく、年明けについに「住基の閲覧制限」をした。越した先やバイト先に押しかけてこようとしたからだった。
敬愛する仲が良かった弟とは、実に1年以上会っていなければ声も聞いていない。
罪のない祖父とも交流は絶たれている。

近づく勇気はない。父が怖いから。

実家が太い子が多いうちの大学の中では、私は少し「大変な子」なのかもしれないし、
同世代の中でもとくに大人びていると
私を評する大人たちは
私のことを「苦労人」というのかもしれない。


だが私は、自分の「親ガチャ」というやつがハズレだとは微塵も思ってない。
むしろ大当たりだったと思っている。

人生がドラマチックであるべきだとは全く思わない。もっと平凡に暮らしたいし、穏やかに「どこにでもありそうな」人生を生きたい。
けれど私は、不幸中の幸いか
好奇心が強く少々飽きっぽい。
安定をあまり好まないらしい。

私が本当に安定を好む人間だったら、
今回の離婚には反対して
母にさえ耐えてもらえばいいと考えていたんじゃないだろうか。
こんなにも状況が変わるなら、「現状維持」を選択するのが「安定思考」というやつではなかろうか。

私は、そんなことするくらいなら
自分の人生がちょっとハードになろうが
2人の人間が幸せになる方を取りたい。
父と母にとっての最善策を取ってもらいたい。


自分の脚で立つということ

こんな私なので、将来は旦那やパートナーの収入に依存する気も更々ない。
まわりの女の子たちは、稼げる彼氏を捕まえて結婚を目論んでいる子が多いが、
私にはそんなベットはできない。
寄りかかることは必要だが、「立てる脚力」あってこそだと思う。
最後に自由を奪うのは、経済的依存だとも思っている。

だから私は、自分の足で立つ脚力が欲しい。
そう思って、就活に奔走している。
私が寄りかかる時は、子どもを産んで、
家庭で・社会で子どもを育てていく時でいいと思っているくらいだ。
だから、「立つために力を借りる」練習もしていく。
私のスキルアップも、チームプレー力も向上させていくつもり。
まだまだ中身もバージョンアップしてく。
コミュニケーション・スキルも
まだまだブラッシュアップの余地あり!

どうやったら私のことを幸せにしてあげられるか。
私が私を幸せにするために何ができるかを、
日々考えている。


私にとっての「子ども」

こんなんでも、「子どもが欲しい」と思えるのはなんでなのだろうと考えてみた。

私は、子どもたちのことを、彼らのことを、
「学びとる存在」だと思っている。

私たちはいま平然と
講義室で授業を聞いて、バイトやインターン先で働いて、自分の生活を回しているけれど、

もともとは言葉も知らなければ、
「世界」がどんなものかさえ知らなかった。
もちろん、まだまだ学んでいる最中だと思っている。

けど、私たちは20年も生きてきた。
20年も生きると、20年前のことは忘れてしまっている。

私は、彼らは
「忘れてしまった大切なこと」を
思い出させてくれる存在であると思っている。
だから彼らは、可能性に満ちている。
人にそれを与えることができるくらいに。

しかも、そんな彼らは
一度でも私が愛した人から生まれてくるんだからもう最高で仕方ない。
それだけでもう最高。
私は愛情深いタチで、それで損することもあるくらいなので、
愛を憎しみに変えて放置するようなことはしたくないと思っている。
だから最愛の人との子どもに会いたくなった時、私はこんなふうに言おうと思っている。

「たとえ私のことを愛せなくなったとしても、あなたの血を分かつ子どものことだけは生涯、愛すると誓って。
男であろうが女であろうが、真摯に愛すると。私たちが歪み合うことになっても、子どものことだけは愛すると。」
ここで怯むような人なら、歪みができる関係性ならば、むしろそれが早くわかって良かったくらいに思いたい。


愛する力を持って生まれてきた私

こう思えるようになったのも、きっと
「私は愛されなくたって十分価値がある。
私は『愛され』に翻弄れなくたって、
十分に価値ある存在。」
そう思えるようになったからかもなのかもしれない。
愛されることと、私そのものの価値は
全然関係ない。

よく、親ガチャ関連の話などでよく出でくるが、
「結局無償の愛をくれるのは親じゃなくて、子どもこそが無償の愛を親に与えている」
というテーゼがある。
子じゃなく親の方が無償の愛を受けているのだと。

別にそれでいいじゃないか、と思う。
私たちは愛される・愛されないに関わらず、
「愛する力」は生まれながらにして備えてきたとも言えそうじゃないか。
私は、愛したい。
愛されるのも嬉しいが、愛したい。
愛せる人間でありたい。




梅雨も明けそうな6月末日。
にわか雨が空気の熱をほどき、
ホッとするようなあたたかさに変える、
夏に片足を突っ込み始めた夜。
しっとり濡れた猫が乾いたアスファルトの上で暖を取っていた。

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