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こころの回復

ひとは心を悩ますとそれを解消したくもなる。
何故かといえば悩みたくないから。
何故かというと自身の心が辛いから。

そんな悩みが増してくるとその心を病ます人も中にはいる。なりたくてなったのではない病に。

だから、こうも考える。
それを回復したいと。

回復を辞書で検索するとこう書いてあった。

1 悪い状態になったものが、もとの状態に戻ること。また、もとの状態に戻すこと。
2 一度失ったものを取り返すこと。

辞典:Weblio辞書「回復」

回復(ちゆ)

そこに書かれる「悪い状態になったもの」の”もの”をここでは心とする。悩んでいる心を回復させるため「もとの状態に戻す」ということです。

では、この”もと(の状態)”とは何か。
例えば、ケガであればその傷が治れば回復となる。例えば、風邪であればそのウイルスを薬等で退治できれば回復することが出来てしまう。

それは、自身のカラダが回復したと実感できる”もの”があるからこそ、治癒となり、納得も出来るのです。

そう。回復とは自分の心が納得してこそ、回復したと云えるのです。

しかし、心という”もの”は自分の何処にあってどんなカタチをしているかを知りません。だから、もともと”もと”となる心を知らないから、回復したのかどうかも実感する”もの”がないのです。

そんな心が悩めば『心を回復する(したい)』と思うばかりで、それは解のない方程式を無理に解くのと同じ事をしています。でも。そうしてしまうのが人であり、それには”自身の心が辛い”から仕方なくもそうしてしまうのです。

その回復させる”もの”を知っていれば、それがどんなに複雑な方程式でも実感もでき解は導けるのです。

もの

知っておりますか?自分たちは心を習ってないことを。辞書にもその心が何処にあってどんなカタチをしているかは書かれてません。もちろん、学校の先生からもです。漢字と辞書に書かれる意味ぐらいは分かってもそれ以上は解らないのです。それは、誰もが回復させる心(もの)を知る術がほぼないことを示します。

ならば、本当に回復できない”もの”なのか。
いや、そうではなく”ほぼない”と云うことです。

”ほぼ”とは、自分たちには「心がある」ことを誰もが知ってます。何故か、それを知っているのです。心はココにあるとは言えなくても「ある」ことだけは判り云えるのです。

ぽち☆が知らないだけかも知れませんが、もしかしてどこかの文献に心がココにあると書かれいるかも知れませんね。でも、ググっても検索できません。それなら、もっと良い方法があるのをご存知でしょうか。

それは「ある」と云える”自分の心”に問えば良いのです。その心に教えてもらえば確かであり納得もできるのです。それは自分にとって1番確かな応えとなり得るのです。

心は”もの”なのです。
今まで、自分たちはそれが見えない”もの”として考えていたのではないでしょうか。

”考える”行いは、感情を湧かす理由をつくる1つです。その感情は見える”もの”も見えなくさせる性質があり、悩めば悩むほど複雑な感情を湧かし解を見失せていたのです。

それでは”自分の心”に向けた問いかけは届くはずもないのです。

五感

誰もが知る五感には、味覚・聴覚・視覚・触覚・嗅覚があります。その五感は、自分の何処にあるのかを習って知っていると思います。

では、その五感で得た情報(しげき)は何処に伝わるのでしょうか。

それが”心”ですね。は間違いです。
実際はその心の中心にある”気持ち”に伝えられるのです。それでは、その情報が気持ちに伝わるとどうなるか。それは幸せかどうかを判断するのです。そして、その判断を元に気持ちが感情(じょうほう)を湧かし言動させているのです。

自分たちはそれを考えた事がなくても知っているのです。それが心のある理由だからです。自分たちの言動は、幸せかどうかで異なっていると誰もが判っているのです。何故、感情に喜怒哀楽(かんじょう)があるのかは、”気持ち”がその感情を使い心の表情として言動を発していると判ります。

ただ、その言動には悩み辛さと不幸を感じることで、更に考えてしまう癖を出します。

例えば、辛く思う出来事をそうなる理由と知らずに考え答えを求めるのもその癖です。気持ちから湧いた感情には本音となる言動になりますが、そこに更なる感情を考え加えれば本音は変ってしまうのです。”考える”は人間に与えられた特権ではありますが、その”考える”の使い方を間違えれば感情を湧かす癖を出させてしまうのです。それが自身の”気持ち(ほんね)”を見失わせ、自ら感情に振り回されさせてしまうのです。

人は感情豊かな生き物です。
その感情を扱える内は”自分らしさ”があります。ただし、更なる感情が湧けばその感情(こころ)に扱われてしまうのです。

人は自分の”気持ち”を中心に活きているあら納得もあり幸せも感じられるのです。

その”気持ち”から湧いた感情は、様々な”感”が付く”もの”へとつながるのです。それは五感にも同じ”感”があり、喜怒哀楽の感情にも”感”があるのは偶然ではないのです。自分たちに”感”のつく言葉が多くあるのには理由があるのです。そのひとつ1つが”気持ち”に繋がり感情(じょうほう)が五感のある部位(カラダ)に伝わるからです。その”感”たちは”気持ち”を中心にバラの華のように幾重にも重なり合いカタチついてます。

その全貌が”心のカタチ”という”もの”です。

心のカタチ

人のカラダとは何処が傷ついでも”嫌”なものです。
それは幸せとは到底云えない出来事だからです。心も同じです。傷つく事を誰もが望みません。それはとてもとても”嫌”だからです。

それに、人はいつの時代から心と身体を分けて考えるようになったのでしょうか。

自分たちのカラダの中心には”気持ち”と云う1つの基準があり、その基準に自分たちの言動は起こされる。その基準とは、母のお腹の中で持たされた記憶。それが”気持ち”を持つ理由なのです。

その記憶(きもち)を中心に”感”の付くものが幾重にも重なりカラダを形成します。”感”のつくものを1つの繋がった”もの”と考えるなら、心とカラダの堺めなどなくなります。手脚も繋がってます。指・手・腕・二の腕・肩と全てがつながっているのです。それら名称は人が便利よく付けた名前なだけ、カラダはどこもカラダです。

それと同じに心も解りやすくそう言っているだけです。自分たちはそれを忘れてしまっていたのかも知れませんね。

その証拠に自分のカラダも心もどちらも傷つくのが”嫌”なはずです。ならばどれも大切な”もの”だったのです。

心のカタチとは、自分自身だったと云うことです。

こころの回復

人は嫌な事が嫌いです。
それは不幸が伴うからに他ありません。もし、何らかの理由により、その不幸を感じる物事に自然と回復しようとします。それは、母に持たされた記憶に戻ろうとするのです。そして、その記憶の状態に戻る事が”こころの回復”となるのです。

人の心は浮き沈みをする”もの”です。
何故、浮き沈みをするのかは、その記憶がある限りその居心地が”幸せ”だからです。それを知るじぶんだからどこもかしこも「幸せになりたい」と思わせるのです。人は幸せになる権利を持たされ産まれてきました。それは当たり前な事をしているだけなのです。

今、悩み・辛く・しんどくても、それは人ならあり得ることなのです。人生を活きると云うことはそれら避けては歩めないのです。避ける事ばかりを考えれば感情を湧かしてしまうのです。だから、”心を知る”必要があったのです。その中心にある基準で歩むのです。

それには”心のカタチ”を知る必要があり、それが自分自身(こころ)と解かれば、まず最初に回復させる”もの”が心の中にある”気持ち”となり、その気持ちが回復すれば、自ずと言動も決まるのです。それは”幸せな感情”を湧かすことかたはじまり、全身に伝わったとき笑顔を醸し出すのです。

笑顔は”幸せ”のバロメーター。

活きる者はすべて幸せを好むのです。それは自身の心の中心に記憶した”気持ち”からの感情を湧かせるからです。それを。

『気持ちのままに』と云い。それがどんな病にも効く回復となるのです。

”病は気から”は知ってますよね。

つづく↓

(心のカタチより)

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