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北斗に生きる。

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終戦から73年目の夏。 私は戦争体験者である祖父の手記をあらためて読み返した。幼少期の記録から、軍に召集された青年期、 そして終戦の日。 73年前のあの日、祖父は宮崎でその日を迎… もっと読む
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戦艦「三笠」で、祖父に会う。

今日、初めて横須賀へ行った。 屋外の恐竜イベントがあって、絶賛恐竜ブーム到来中の息子を連れて遊びに。その後に、ふらりと三笠公園にある記念艦「三笠」に立ち寄った。そこで私は少年時代の祖父に出会った。 世界三大記念艦「三笠」明治35年に英国のビッカース造船所で竣工した戦艦「三笠」は、東郷平八郎大将率いる連合艦隊の旗艦として、明治38年5月27日にロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎撃し勝利。この海戦での勝利は、日露戦争の終結へとつながる。 その後、ワシントン軍縮条約によって日・

北斗に生きる。-最終話-

アメさん(米軍)の音もなく静かになったので、風呂に向かう。道路のわきの草むらに飛行服を着た下士官がいる。自転車にまたがったまま目をギョロッと開けて死んでいる。おそろしい。空から目える所は歩けない。一休みして風呂に入ろうと何百年か前に掘った横穴に入ってみる。中に入って驚いた。怪我人が七、八人ほどいた。一人は腹に千人針を巻いて、太腿の肉が半分無く、骨が白く見えていた。 レンガ造りの酒保庫の前を通った。甘い香りのする煙がモクモクと出ている。赤黒い物体がニョロニョロの流れ出している

北斗に生きる。-第9話-

明けて正月から、寒稽古の時である。 丁度、運悪く体調が悪い。毎朝、病室まで検温にゆく。寒稽古に参加することが出来ない。 二日目、「寒稽古がいやで検温に行っているのだろう。お前みたいなやつは死んでしまえ」 といわれる。翌朝、軍医少尉殿に寒稽古に出て銃剣術の仕合に出たい旨を話し、全治にしてくれと頼んだ。軍医殿は何かを感じたらしく、体調が悪かったら病室に来いと、全治にしてくれた。 翌朝は、まだうす暗い寺の境内に集合する。 いきなり「村山、出てこい」と班長が挑戦してきた。 この時を

北斗に生きる。-第8話-

十二月二十三日、今の天皇がお生まれになったと、先生から聞かされた。 二十五日の二学期も終わる二、三日前だった。雪の校舎前に集合した。校長先生が皇太子様がお生まれになったと、長々お話をされた。 これはそのお祝いに下された有難いお菓子であると、紅白の饅頭を渡された。十二月末の樺太は日中でも零下二十度くらいである。本当はふかふかの赤子のホッペのような柔らかさと思ったが、運んでくるまでに凍ってしまい、頭にぶっつけると痛くなる固さであった。食べることの出来ないお菓子を大事に持ち帰った。

北斗に生きる。-第7話-

六歳の秋に完成して引越した家は、窓の入った明るい部屋であった。 デコボコのない板張りの床、家の中にはなんにも無いガランとした装いだった。 翌年、四月小学校に入学した。 現在のようにピカピカの一年生ではない。 母方のばあ様からはかすりの着物と羽織が送られてきたので、それを着て学校に行った。 六年生の次兄に連れられて、下駄をはいての通学だった。上履もなく足袋でペタペタ歩いていた。 着物を着て学校に行ったが、体を動かすと脇腹がチクリチクリと痛い。ちょっと動いても痛い。家に帰って

北斗に生きる。-第6話-

七月七日の七夕である。 晴着ではないが子供の浴衣を着て、七時頃、隣近所の小学生にさそわれる。提灯を持って 「ローソク出せ、出せよ……」と家々を回る。 十人ぐらいだったろう。町内の商店は、二、三軒だった。各家では子供達が来るというので、ローソク一本ずつと飴と菓子を、一人一人に渡してくれる。借家の人達でも子供の声をきき、玄関にローソクを持って待っていた。紙袋を各自が持って、その中に入れてもらう。 ローソクは手で握っていた。夏のさかりの暑さと手の温もりで、十本くらいのローソクがひ

北斗に生きる。-第5話-

オレは大正十四年一月三日、サハリン(旧樺太)の農家の三男として、丸太小屋で生まれた。父は三十一歳、母は三十三歳と記憶している。 父は樺太に渡る前は、標茶町阿歴内(しべちゃちょう あれきない)の大地主が所有していた山林の炭焼き夫として入山して働いていた。 山林といっても名ばかりであった。木材として使用できる大木は杣夫(そまふ ※北海道では山子“やまご ”という。山に入って木を伐ることを業とする人のこと)が切り出し、その残りの小木や大木の残り木を炭窯に入れ、木炭を作る。木炭は炭

北斗に生きる。-第4話-

大泊港に一緒に入隊する若者が十人ほど集合した。稚内に上がってからだんだん仲間がふえ、青函連絡船では四十人くらいになった。 日本全国から三重空の津に集合した時は、四百人近くになった。列をつくり隊内に入る。分隊も班も決まるが、班長はまだ決まっていない。 二日目の夕刻すごい腹痛で動くことも出来ない。夕食どころではない。樺太からきた東海林という兵もころげまわっていた。二人一緒に医務室行きである。翌朝、どこも痛みがないので帰ろうとすると、昨日から絶食しているので、二人一緒に盲腸をとる

北斗に生きる。-第3話-

七月上旬、樺太といえどすごい猛暑である。 川の温度が十度以上になり、川の中に一時間くらいいても寒さを感じないほどである。 産卵のためそ上する樺太鱒が暑さのため川上に行けず、日中は木の陰や小川の川口に涼を求めて、体を休めている。夜になってからまた上流の産卵場所に向かうのである。 たまたま昼休みにヤスを持って川に行く。河向いの小川まで行って驚いた。川原の石のように見えたのは総て鱒である。小川の流れのように三角形に浮かび、背びれと尾びれを動かして休んでいる。数はおよそ千匹ほどで

北斗に生きる。-第2話-

徐々に戦況もたけなわとなる。 昭和十八年いずれ御国の盾と海軍予科練に志願した。予科練甲種は元中学卒であった。 早稲田中学の講義録で勉強していると言うことで、無理であったが特乙試験も一次パス。二次試験は茨城県土浦航空隊である。家から大泊港までは丸一日がかりである。 翌日、大泊から稚内まで船で八時間。北海道に上陸、函館まで二十四時間。 今考えるとまるまる三日でようやく青森だ。 青森から十八時間、ノンビリした旅のようだが横になったのは船の中だけであった。汽車の中は四人交代で座席

北斗に生きる。

昼すぎ、正男君がとんできた。 「とうとう日本は負けたとよ。天皇陛下がラジオでいってた」と告げる。とたん五体がくずれる思いだった。 八月十五日、何かをする気力もない。食欲もない。兵舎に帰る。夕食後、外に出る。 昨日まで暗かった街は電気がつき、明るい街に見えた。 ----------- 終戦から73年目の夏。 祖父の手記をあらためて読み返した。 幼少期の記録から、軍に召集された青年期、 そして終戦の日。 73年前のあの日、祖父は宮崎でその日を迎えた。手記はそこで終わっている