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他者に人生を語り直すことで、なぜ生き方が変わるのか?

夜道を若い女性がひとりで歩いている。

車の音も聞こえないひときわ静かな道に入ってから、彼女は背後に人の気配を感じた。背中が少し緊張する。

頭の中では、今朝母が「世間はますます物騒になっている」とグチっていたのを思い出していた。

彼女は知らないが、実際のところここ数十年その街では人が襲われるような犯罪は激減していた。ニュースの報道は過剰に警戒を煽るばかりだ。

不安が高まる彼女は、歩くスピードをあげ、十分な距離が取れたと感じたところで恐る恐る後ろを振り返った。

そこには、彼女が成人してからも相変わらず「パパ」と呼ぶ大好きな父親がいた。

「パパだったの?もう、驚かさないでよ」

そう言いつつ、彼女は目の悪い父親のもとに駆けつける。「おお、まゆみか」。

彼女の胸のうちには安堵が広がり、笑みがこぼれる。同時に、不安になって足早に歩いていた自分がちょっとおかしくなる。

お母さんは心配しすぎなのよとも思った。


<過去のぬりかえ、未来のぬりかえ>

冒頭のストーリーは、僕ら人間が現実をとらえるときの柔軟な態度をよく表している。

夜道で背後に人がいるのを感じたとき、女性は当初「世の中は物騒だ」という教訓にあてはまる事例として現実に対処しようとしていた。

しかし、後ろを歩いていたのがパパだと知るや否や、過去はさかのぼって再構成されている。

後ろにいたのはパパだったという情報をひろったことによって、過去の意味づけがぬりかわっているのがわかるだろうか。

ストーリーの前半では「得体の知れない不審者に跡をつけられていた」出来事だったことが、あとには「目の悪いパパが私に気づかずほぼ同じ時間に帰宅していた」出来事に変わっている。

そして、過去をさかのぼって塗り替えたことで、また新しく「世の中は思うより物騒じゃない」という教訓を引き出している。

おそらく彼女は次同じような時間に同じ場所で背後に気配を感じたら、少しの緊張と同時にほのかな期待を持ってすぐに背後をふりかえることになるだろう。

それに、家に帰ってからこの街の犯罪が減っているという事実を検索して見つけ、母に教えてあげるかもしれない。

事実から教訓を抽出し、得た教訓にあてはまる事実を拾おうと行動する。

これがよくも悪くも僕らの習性だ。

<教訓を引き出す>

人間の脳は、勝手に物語を引き出してしまう機能を持っている。物語をものの見方とか教訓と言ってもいいかもしれない。

あの出来事は私にとってなんだったのか、なぜあんなことをしてしまったのか、きっと未来はこうなるだろう、もしこうだったら今頃は・・等々。

どうして僕らは物語を引き出すのか?

僕らにとって重要なのは今も昔も現実を正しく見ることではなく、生き残る見方をすることだからだ。

その証拠に、ぼ たちはこうした不⚪︎全な文章も読てめしまう。

過去に習得した単語や文法規則がここでも成り立っていると勝手に想定して空欄を補ってしまうのだ。

現実の世界において、似たような事象はいくらでもあるが、まったく同じ事象はない。

僕らは現実という無意味で膨大な情報のなかから、ほんのわずかな情報を抜き取り、つなげ、意味を見出し、教訓を引き出し、次回からはそれ以外に注意を向けないですむようにしようとする。

学びを引き出し、似たような事例にも当てはめてしまう性質がなければ、僕らは経験を蓄積できないし、言語も使えないのである。

<私が好かれるわけがない>

僕らの現実を理解するやり方は非常に柔軟ではあるけれど、時に硬直的になることもある。

たとえば、ある人が過去の出来事(のいくつか)から「私が人に好かれることはない」という教訓を引き出していたとする。

そうすると、この人はそれを証明するための出来事ばかりを過去からも現在からも拾うようになる。

それだけではなく、どうせ惨めになるだけだからと異性と話すことや顔を合わせることに消極的になるかもしれない。

異性に好意を向けられても気づかなかったり、騙されているだけだと感じてしまうこともありえる。

本当にこの人が好かれていないのか、好意に気づいていないだけなのか、はたまた好かれるわけがないという前提でするふるまいが他人を遠ざけているのかは永遠に試されない。

冒頭の女性のように、後ろを振り返って実際には何が起きていたのかを見つめ直すことが必要だ。

<自己理解はなぜ求められる?>

先に見たように、教訓は過去も未来もぬりかえるわけだけれど、それが人生が終わる頃まで続く可能性もある。

このことを踏まえると、自己理解が大事とか、内省する時間を持とうとか言われるのもわかる。

未来の選択を変化させるには、別の事実を抽出して、未来に生かす教訓を変えるしかないからだ。

先ほどの人物なら、たとえば過去に何度かはあったであろう親密な関係や親しげなコミュニケーションを具体的に思い出してもらうとか、自分がずっと誰かと親しく話してみたかったのだが行動には移していなかったことに気づいてもらうことが必要と思われる。

当時に戻って現場検証をするように、あるいは再現ドラマを作るための取材をするようにして、ひろいそこねていた情報を集めることで違う教訓を引き出すのである。

これに対し、そんな遠回りな仕方ではなくて、ポジティブな言葉を唱えれば過去は関係ないという意見もあるかもしれない。

「私は誰からも愛される」と毎朝鏡に向かって唱えれば、昔の自分とはおさらばできるという考えである。

僕はこれには反対で、絶対にとは言わないけれど、「そんなおかしなことをしなければならない自分」とは、まさに好かれない自分の証明としてしか映らないのではないかという気がしてならない。(魔法の言葉を唱えるよりは、科学者になったつもりで実験をしようと言う方がマシかもしれない)

説得は、自分に対してのものでも腹落ちするだけの根拠がいる。

台を安定させる時のように、新たなものの見方(教訓)を支える脚として、別の情報・解釈を拾ってくる必要がある。

過去を振り返り「実はあの出来事はこういうことだった」と解釈し直すことで未来に質の違う選択を取れる可能性が生まれる。

<人生を他者に語り直す>

自分の思い込みを一人で発見するのは難しい。

たいてい、誰かと関わることで感じたことや、関わった相手に向けられたツッコミや質問があって、立ち止まって考えざるを得なくなることで気づくことになる。

他者には、最初から自分が使っているフィルターなど備わっていない。

だから、もし他者に自分の過去を語れば「なんでそうしたの?」「本当にそうだったの?」「本当はこうだったんじゃない?」とツッコミを入れられる可能性がある。

ツッコミを入れられれば、考え直し、新たに見つかった(思い出した)事実も加えて別のストーリーを紡いで納得させなければならない。

それを繰り返すうち、人を納得させるストーリーが形作られていき、同時に僕らは自分自身も説得し切ってしまう。

自分が好かれることはないと思っていた人が「私は実は人に好かれなかったらどうしようと怖がっていたんだ。がんばったのに好かれないのが怖いから、これなら仕方ないって自分でも納得できるふるまいをしてきたんだ。それで孤独を募らせて辛い気持ちにもなって・・」と言ったりする。

嫌われ者の物語が臆病者の物語に変質したわけだ。これでもまだネガティブな物語ではあるけれど。

友人がここでさらに「愛を求める本能って最強なのにね。みんなが負けてしまう欲望に抗って信念を貫き続けてきたのか。どんだけ忍耐強い不屈の精神の持ち主だよ。勇者もびっくりだわ」などといえば、前進する道がひらけてくるかもしれない。

<今年何回語り直した?>

現代人は忙しい。仕事相手(仕事道具)にも、スマホやパソコンの画面にも対峙していない時間はせいぜい寝ている間くらいなんじゃないか。

暗くなれば何も生産的な仕事ができず、ぼーっとするか、何か考えるか、人と雑談するしかなかった時代とは違う。

僕らはたぶん内省や自分語りの時間が昔より減っている。

この1年を振り返ってみてほしい。自分の人生を幼少期からさかのぼって人に話した(そしてとことん質問された)経験が果たしてどれくらいあるだろうか?

僕でも3回か4回くらいだと思う。

これが何を意味するかといえば、僕ら個人個人の「教訓」はずいぶん硬直的かもしれないということである。

同じフィルターを通して、ずいぶん昔に確立したシンプルな教訓を強化し続ける生き方をしているのかもしれない。

もしそうなら、せっかく生きてきた人生の数%の可能性しか引き出しきれていないだろう。

僕はライターで、いろんな人の人生を丁寧にさかのぼって語り直してもらい、本人に代わって言語化し発信するのが仕事のひとつだが、これには単に発信してその人を知ってもらうこと以上の根本的な価値があるように思う。

具体的には、次の3つの意味があると考えている。

<異質な他者との距離>

他者に語り直す価値の話をしたけれど、付け加えるなら、僕は他者との異質性が大きいほど語り直すことの価値が大きいと考えている。

わかりやすくイメージを図にするとこんな感じだ。

空気みたいに当たり前になっているような前提であるほど、それを崩し再解釈をすることで得られるものは大きい。

僕のお客さんは東京に住む40代の裕福な層の男性であることが多いのだけれど、彼らにとって僕はかなり異質性が高い存在だと思う。

だからこそ、ガッツリ対話すれば彼らが(もちろん僕にとっても)得られるものは大きいと思う。

コーチング用語で言えばスコトーマ(心理的盲点)がたくさん見つかるはずだ。時短ブログ発信代行サービスとして僕を捉え、端的にまとめた話を一方的にするのはかなりもったいない(#自画自賛)。

前回記事より

時間と関心を捧げ、クライアントが人生を語り直すのに(ぜんぜん盛らなくとも、脈絡なくばらばらと語ろうとも!)耳を傾け、その人であるかのように言語化するために質問を投げかける。

そのことによって、クライアント自身が、クライアントの過去や彼の見る世界から得られるものを変容させ、もっと自分の人生を愛せるようになっていく、かもしれない。

それに伴走するのが僕の仕事だ。



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