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炊飯器を見つめながら 第570話 8.15

「こ、これは...... ああ、弱ったな。どうしよう」ウサギの着ぐるみ姿をした小柄な男は、炊飯器を見つめると、嘆きながらため息をついた。
 男は小さな劇団に入っている。この日はミュージカルの舞台があった。男はまだまだ若手で、物語の序盤にだけ出てくるチョイ役。それも着ぐるみで、ウサギの役をセリフなしで後ろで踊るだけ。

 だから他の中堅以上のメインの役者よりも早く舞台が終わる。この男を含めた若手団員たち。彼らは自分の出番が終わったら裏方の仕事をする。この日男は、炊飯の担当を任されていた。これは劇団員の食事を作るためにご飯を炊く係である。
「ご飯を炊いておけば便利だ。もう弁当ではなく、オードブルなどのおかずだけでいいからな」という団長の提案だ。
 そのためこの劇団では、電気炊飯器を持参して各会場を回る。そして演じる劇場の楽屋にある、電源を借用してご飯を炊くのだ。
 ところがこの男、あろうことか炊飯器の電源セットをし忘れていることに気づいてしまう。
「うああ、あと30分でお昼。どうしよう、今から炊いて間に合うだろうか?」

「どうした」男の様子が気になったのか、同じ若手の先輩劇団員が声をかける。「あ、先輩、やっちゃいました」悲しそうな男。ウサギの着ぐるみのままだからそのギャップが不思議でもあった。
「おまえ、ああ、これはまずい。舞台終わったらみんなすぐにご飯食べられるようにしないと、空腹時の怒りはシャレにならんぞ」
 男ひとりのミスとはいえ、ご飯が炊けていなかったとなれば、男だけでなくこの先輩を含め若手劇団員全体の失態になる。先輩は腕を組んで考えた。「あ、そうだ、よし、お前今から刺身を買ってこい」即座にひらめいた先輩。「え? 刺身」「そうだ。この劇場の近くに魚屋がある。そこに行って人数分の刺身集めてこい。お金はこれ見せて『後から』と言え」先輩が男に渡したのは、今回の舞台のチラシ。「でも刺身って」
「それは俺に策がある。お前はとりあえず刺身だ」「あ、わ、わかりました。では」男はチラシを持つと一目散に楽屋を後にする。もちろん着替える暇もなく、ウサギの着ぐるみのまま出て行った。

 外に出ると当然男の姿が目立っている。みんなが男の方に視線を送ってきた。だが男にはそんな余裕はない。とりあえず先輩からの「刺身を買ってこい」これしか頭になかった。
 先輩が言うことは正しい。劇場から歩いて5分もかからないところに魚屋がある。店には人だかりがあった。そして魚屋が威勢の良い声を張り上げている。
「らっしゃい。今日は8月15日。実は終戦記念日だけじゃねえ。今日は刺身の日だ。なんと560年前の室町時代後期に、初めて『刺身』と言う言葉を使ったという記録残っていて、それが今日ってわけですわ。だからうちは、本日、刺身全品半額! さあ、赤字覚悟だ、もってけ泥棒!」

 威勢の良い魚屋につられるように客が次々と刺身を買う。男は品切れを心配して、急いでその中に入る。するとみんな慌てて男の方に顔を向けると、避けるように離れてくれた。
「おお、こりゃ珍客だ。ええ、ウサギさん、刺身ですかい」「はい、少し大人数何で」「で人数は」男は劇団員の人数を伝えると、魚屋はいったん奥に入る。そして大きな容器に適当に刺身を入れてくれた。
「はいよ」大きな容器に入った刺身を手にする男。「で、お題はこちら」と魚屋は伝票を渡す。男はそれを見ると「とりあえず、これ、あとでまた来ます」と言って先ほどのチラシを渡すと、逃げるように魚屋を後にした。
「え、ちょっと、ウサギさん。ん? ほうあそこの劇団の人か、なら多分大丈夫だろう。後で楽屋に集金に行こうかな」

ーーーーー

「刺身買ってきました」「よし、冷蔵庫に」先輩の指示通り、楽屋にあった冷蔵庫に容器ごと刺身を入れる。伝票を先輩に渡すと「先輩、刺身をどうするんですか? まさかごはん替わりに」
「ちょっと違う、実はほら」先輩が見せたのは紙パックの酒。
「ご飯が炊けるまでの間、皆さんには刺身と酒でも飲んでもらう。これはベテランたちをイラつかせない作戦なんだ」「え、酒? でも夕方に次の舞台が」
 慌てる男に先輩は笑う。「ハハハハハハ、うちの中堅以上は多少飲んでも舞台に穴をあけることはない。むしろ少しくらい飲ませた方が、調子が出るっていうくらいだ。だからミニ宴会をさせて、その間に再セットしたご飯が炊きあがればいいってこと」

 こうして舞台が終わる時間になった。男も先輩も緊張の面持ち。「いいか、俺がみんなに説明するからお前はすぐに刺身をな」「はい」ちょうど同じ若手劇団員が、ご飯のおかずになるようなオードブルを買ってきた。とりあえずそれをテーブルに置く。

 やがて中堅以上の劇団員が戻ってきた。戻ってくると最初に顔に塗っていたドーランを落とし、衣装を脱いでていく。男はその間、刺身をオードブルの横に置いた。そして横には紙パックの酒。
「さて、ごはんにしよう ん? 何これ」団長が驚くのも無理はない。ご飯がない代わりに、刺身と酒が置いてあったから。
「実はですね、え、ご飯の代わりにちょっと飲んでもらおうと」先輩が良くわからない言い訳をする。
「おまえ、馬鹿か。夕方も舞台があるんだ。酒はその後だろう!」ベテラン劇団員が怒りの声。
「え、ああ」慌てる先輩。「そうよ、何考えてるの? ちょっとご飯はどうしたの。腹減ってるんだけど」今度女優の大先輩からの激。
 先輩は次の言葉が出ずにしどろもどろ。「ま、まずい」男は慌てて頭を下げて「すみません!」と大声で謝った。

「急にどうしたおまえ。まさか炊飯器が壊れた?」心配そうな団長。そのときご飯が炊きあがった合図のメロディーが鳴った。「ああ!」どうやらご飯が間に合ったようだ。
「あ、炊き立て。そうか、あんた炊き立て食べさせてくれるために、時間調整してくれたの」と先ほどの女優が途端に笑顔。
「え、いえ」今度は男が戸惑う。そこで先輩が「ええ、間に合いました。そうなんです。実は間に合わなかったらと思って、その間、刺身とお酒をと思っていました。でもご飯炊きあがりましたね。ではすぐに」というと、男を伴い、人数分のご飯を茶碗についでいく。

 ところが「ごはんは、もういいよ」とベテラン俳優の声。「ええ?」ふたりが振り返ると、すでに中堅以上の団員たちが紙パックの酒を、自分のコップに入れている。そして飲みながら刺身に手を付けているのだった。


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シリーズ 日々掌編短編小説 570/1000

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