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檸檬読書日記 中原中也の幻が、夢で燃える少年に、雪のような数字が降る。 2月12日-2月18日

2月12日(月)

危なかった。
2回ほど轢かれそうになった。基本的にぼんやりしてるからなあ。気をつけねば。

後、3回ほど対向の人と行く手が被って、もごもごっとなった。なんだろう、ぶつかりそうになる日なのかな。外に出るなということだろうか。大人しくしていろというお告げ?大人しく本を読んでいなさいという、それなら有難いお告げだけどなあ。(有難いのか?)

ということで、大人しく本読みます。





2月13日(火)

ピザ。


トマトペーストに生ハムとオリーブ。チーズはモッツァレラ。

パン焼き器でピザ生地も作れるから本当に便利。
焼き上がった後にルッコラのせて黒トリュフオイルをかけて、ブラックペッパー(が異様に好きなので(最早中毒)、これでもかとガリガリ、埋め尽くされるまでガリガリ)かけて、完成。
なのだが、急いで食べなくてはと慌ててトッピングして、勢いそのまま慌てて食べて、撮るのを忘れました。あちゃー。

味は最高。生地がモチモチで美味しかった。



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む。

ドイツ語には、人間には使えない、動物の「足」のみ使える単語があるらしい。
人間の口と動物の口も単語が違くて、人間の顔を意味する単語は、動物の顔には使わないのだとか。面白い。

日常でも文章でも、分けなくとも分かりそうだけれど、何故分けたのだろう。他の国でも分けているところはあるのだろうか。言葉って、本当に面白い文化だよなあ。



『幻』(百年文庫)を読む。

記事を読んで、気になって読んだ本。

本の中には、短編3作品が掲載されている。

1つ目は、川端康成『白い満月』
2つ目は、ヴァージニア・ウルフ『壁の染み』
3つ目は、尾崎翠『途上にて』

川端康成の『白い満月』は以前読んで感想を書いたから、飛ばす。

他2作品を読んだ。

『壁の染み』は、なんとも不思議な話。頭の弱い自分には完全に理解することは出来なかったけれど、どうやら壁にあった染みが、形を変え様々なものに見え、そして想像(なのか空想なのかが)広がっていくというもの。(おそらく)
内容をなんとなく知っていたから、おそらく1度何かで呼んではいるようだけれど、それでも不思議だなあというか、なかなか掴めない作品だった。
ただ最後のオチが、なんとも秀逸。ぐるぐる。

最後、記事内で中原中也みがあると書かれていて気になった、この本を読もうと思ったきっかけの『途上にて』。
これまた不思議な話。
男が歩きながらあることを思い出したり、現実だったり回想だったり、ぐるぐる行ったり来たりする。何がなにやら、結局何が起きているのか自分には分からないまま終わってしまった…。

文章もまた独特で、本の虫にでも食われてしまったかのように、何か少しずつ足りないような、ガタガタとした、まるで昔のラジオの角張った音声を聴いていかのような感じ。
けれどそれがまた小説というよりも、詩のように感じられた。
そして確かに、丁寧な物言いながらも少し尖った、子どものような生意気さに中原中也みを感じた。言葉や単語のチョイスも何処と無く中原中也を思わせるような。

内容はほとんど理解出来なかったけれど、惹かれる何かがあって、もう少し知りたいなあと思った。今度違う作品も挑戦してみよう。

それにしても、記事の中で、川端康成『白い満月』について「エグイ」「エグみのある表現」と書かれていて、何度見ても感嘆してしまう。その発想はなかった。でも確かに。
いやはや、その単語が出るエグさに脱帽です。(少し使い方違う?)





2月14日(水)

少し前に読んだ絵本『人形からとどいた手紙 ベルリンのカフカ』の紹介文をふと見たら、この実話は、村上春樹も「カフカと人形」として小説内で語っているとあった。なぬ。どの小説だろう。『海辺のカフカ』かなあ。

他にも調べたら、カフカのこの逸話は、ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』という小説の中でも語られているのだとか。ほぅ。読んでみたくなってしまった。

カフカはもう充分だと思ったけど、妙にカフカが頭の中を駆け回る。気がつくと片隅からひょっこりはんの如くひょっこりしてくる。「カフカ」とあると、ついつい見てしまう。頭からなかなか離れない。
カフカカフカカフカ。
カフカがまわる。
もしや、とり、つかれた?



『覚和歌子詩集』を読み始める。


こと こと たたく
  はじめは ことば
  ことほぐ ために
  うまれた ことば

ころ ころ ころと
  ことばを やどし
  ころがる こころ
  はじけて ひかる

から から からに
  こころを やどし
  からっぽ からだ
  おんがく みちる

「こ・こ・から」


口の中に飴玉が転がるような、リズミカルな感じがいいなあ。始まり、プロローグから既に良い。



高原英里・編『川端康成異相短篇集』を読む。
「弓浦市」を読み終わる。

小説家である男の下に、30年前に弓浦市という場所で会ったという婦人が訪ねてくる。
女は弓浦市であった2人の秘め事を語るのだが、男には女が語るその記憶はなく、聞けども聞けども、1つとして思い起こされることはなかった。

これは女の妄想なのか、男の頭がおかしくなったのか、どちらにしても少しひんやりと寒くなった。

婦人は、まるで昨日のように出来事を男に語って聞かせる。けれど、男にはその情景は浮かぶものの、実際に女と過ごした光景を頭に浮かべることは出来なかった。そこだけが記憶から抹消されてしまったように。

どことなく恐ろしさを感じるのに、不思議と婦人に対しては怖いと思うことはなかった。それほど女の記憶は明瞭で、ブレがない。忘れている、思い出せないことの方が間違っているような…。
まるで感覚が狂わされるような作品だった。





2月15日(木)

驚くほどにnoteが追いつかない。
本もそうだけれど、溜め癖は本当に良くない。本当に。本も最初は、読むのがなくなってから買うを繰り返していたのに、いつの間にやらなくなるということがなくなって、寧ろ読めてない本がどんどん増えていく。
noteと本も、少しだけ読めていないものがある時は、まだ読めるのがあるとニマニマしていたけれど、増えすぎて溜まりすぎると少し焦る。焦りつつ溜める。いや本当、良くないよ。



森泉岳土『フロイトの燃える少年の夢』を読む。漫画。

フロイトの夢から始まり、エミリー・ブロンテ、ヘルマン・ヘッセ、ヴァージニア・ウルフ、ドストエフスキーの夢に関する作品を漫画にしたもの。

どの作家の夢も、夢ならではのまるで迷路ののうな、不合理さと不思議さがあって、何がなにやら分からないけれど惹き込まれる、引きずり込まれる魅力があった。そして、少しの恐ろしさ。

何より、個人的には絵が凄く好みだった。
モノクロでモダンで、絵を墨で描いているらしく、その味が堪らなく良い。墨ならではの独特な、紙の繊維を浮き上がられるような、ボワッとした感じが、描いている人の温度が伝わってくるようでとても良い。だからこそ絵が迫ってくるような、迫力があるのかな感じもした。
今やデジタルのキラキラしたものが多い時代で、人が描いているんだなあと伝わるのこのアナログさは、本当に素敵だなあと思った。


そういえば、結構前にこの人の他の作品を買ったような、しかもまだ読めていないようなと思って探してみたら、やはりあった。

『カフカの「城」他三篇』

その上、カフカである。また、カフカである。
でもカフカ作品は読みたいと思っていたから、丁度いいかもしれぬ。漫画で『城』を読んだ後に小説を読んだ方が、理解しやすくて読みやすくなって良いかも。
今度読も。

この人の絵とても好きだから、他の作品も集めたいなあ。探してみよ。



blueskyやってる人が増えているから気になるけれど、なかなか踏み出せない。
飽き性だから直ぐほっぽり出しそうだしなあ。はたまた、気軽に投稿出来るからと、noteの方が疎かになって出来なくなる可能性も。
でもnoteやってる人の投稿見れるのは魅力的だよなあ。見るためだけにアカウント作るでも良さそうだけど。うーん、悩ましい。
少し考えよう。

そもそもnoteの人で、やっている人はどれくらいいるのだろう。





2月16日(金)

久しぶりに通る道を歩く度に、周りが様変わりしていて、時々体が刻まれるような感覚になる。木が、どんどん切られてなくなっていく。
何故そんなに簡単に切れるのだろう。

熊もそりゃあ下りてくるよなあと思った。他の動物たちも。食べ物がない、行き場もないなら、下りるしかない。熊も動物たちも生きているのだから、そうするしかない。

結局人が悪いんだよなあ。動物たちの居場所や食べ物を奪ってまで、自分たちが食べる以上の食べ物を作るために壊してきたのだから…。動物たちに反撃されても仕方ない。
生あるものには、等しく生きる権利がある。それを侵すのだから、おこるのも無理はないよなあ。



『覚和歌子詩集』を読む。


むかし ことばは ひびきだった
(略)

むかし ことばは ひかりだった
ほしにしみいる ひかりだった
はなをひからせ こころをみのらせ
ほねをあたため ゆびをつながせた

むかし ことばは なまえだった
なまえはよばれて きみになった
(略)
なまえはきみそのもの
おかせない きみのいのち

そしてたったいまも ことばはちから
(略)
まぶしすぎてぼやけてしまう みらいから
ゆめのりんかくを きりだして
はなしたことを ほんとうにする
かならずきっと ほんとうにする

「むかし ことばは」


言葉には力があるからこそ、あらゆるものになる。救いにも刃にも希望にも。それは口から漏れた瞬間に発生する。救いにも刃にも希望にも。
本当にするし、刃はきっとかならず帰ってくる。
だから言葉は大切に慎重に、使っていきたいなあ。





2月17日(土)

王城夕紀『青の数学』『青の数学2:ユークリッド・エクスプローラー』を読む。

1度見た数字は忘れない栢山は、数学の天才少女・京に出会う。
理由もなく数学をやってきた栢山は、京に「数学って、何?」と問われて、数学に接し挑みながら、その答えを探していく。

1巻は、ネット上で数学対決の出来る「E2」での戦いがメインで、ひたすら競って数学を高め、数学と向き合っていくという感じ。

2巻は、登場人物それぞれが抱える数学について、悩みながらも答えを見つけていくという感じ。2巻は哲学的で詩的でもあった。

どちらとも、必死にもがいて考えて、悩みながらも数学に取り組んでいく姿は、まさに青春物語という感じだった。若い。

自分は、数学というのものは美しいものだと感じる。その数学の美しさが、見事に表現され詰め込まれている気がした。
正直、小説の中で語られる数学の内容は、難しすぎて1つも分からない。それでも、全く問題なく読めた。


大雪の中、彼女の上にだけ数字が降っていた。

見間違いかと立ち止まる。今一度見ればもちろん降っているのは雪で、でも一瞬白い数字片がきらきら角度を変えながら降る幻がまぶたの裏に残っていた(略)


本当に数学に満ちた、数学的美しさに溢れた作品だった。


数学が絡む物語は、あまり外れがない気がする。
1番有名なのは、小川洋子『博士が愛した数式』だろうか。あれは最早不動だが、個人的数学作品で1番のお気に入りなのは

川添愛『数の女王』

これは本当に凄い。
数学にファンタジーが加わった珍しい作品。数学好きにもファンタジー好きにも、謎が好きな人にも刺さるんじゃないかなあと。
1人1人に「運命の数」が与えられた世界で、数学を通して敵と闘っていくというもので…(おそらく。読んだのが随分前だからあやふや)

全体を通して数学だらけなものの、問題なく楽しめ、そして最後は驚き、仕掛けに脱帽させられた。

数学作品といえば他にも、陸秋槎『文学少女対数学少女』があり、文学あり数学ありその2つを合わせた謎ありで、これもなかなか興味深かった。(百合感はあるけど)
続編とかあったらいいなと思ったけれど、未だに出ぬ。残念。

王城夕紀作品、どれも好きで追いかけ続けたいと思っていたのに、最新作が出ない。
出たら読もうと思って読まずにいたけれど、なかなかでないから結局最後のこの作品を読んでしまった。そしてやはり好きだなあと思った。綺麗で何処か儚いような、それでいて展開にワクワクし惹き込まれ、先へ先へと行きたくなる。
特に

『天盆』

この作品が1番好き。
この国では、将棋のような盤戯「天盆」というものがあり、勝者は国を動かすという。それに平民である天盆に魅入られた少年が挑み、歴史を変えていくという話。(だったようか、曖昧)
これにも数学的な要素がある。綺麗さと熱と儚さに何時までも残る作品だった。

もう1作品。

『マレ・サカチのたったひとつの贈物』

これはSF系。
サカチは不思議な病気にかかり、一定の場所に留まることが出来なくなってしまった。次の瞬間には、見知らぬ場所へと飛んでしまう。そんな彼女が残したものとは。
という話だったような。
儚く美しく、そして切ない。これにも当然ながら数学的要素があった。

全ての作品に数学的要素があるからこそ、次々出すのはより難しいのだろうけど、今のところこの3作品しか出ていない。もっと見たいのだけれど。出ないかなあ。







2月18日(日)

久しぶりに体重を計ったら、去年の過去最高(最低?)なかった時からまた1キロ減っていて、首を傾げている。体重計壊れました?
驚きすぎて2回も計り直したけど、変わらなかった。(その上、1回はより減っていた)
おかしいぞ。結構食べている気がしたけど…と思ったけど、よくよく考えると、蜜柑を大量に食べているだけだった。蜜柑は毎日10個くらいは食べているんだけどなあ。水分だからあまりプラスにならないのか。うーん。

でも、最近砂糖を余りとっていないのもあるかもしれない。誰かも砂糖を止めたら、今まで何しても減らなかったのに痩せたと言っていたような。本当だったらしい。

自分は砂糖の代わりに、甘みは蜂蜜で補うようにしている。蜂蜜の他は、アガベシロップ。砂糖も白砂糖ではなく、黒糖やきび砂糖を使う。
特に飲み物なんかは、蜂蜜の方が旨味が増して美味しかったりする。(紅茶やミルクティーやチャイ、ココアとか)

(ただ蜂蜜は、偽物もあるから気をつけねばならぬ。安いものは大概蜂蜜味の砂糖。高くて日本だからといって安全という訳でもないし…。蜂蜜はアジア系じゃないのが無難かも)

後は干し芋を毎日食べているのもあるのかなあ。



多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む。

池内紀さんの名前が出てきた。先週読んだばかりだから、おお!となった。
そういえばカフカもドイツか。ドイツ語か。最近ドイツづいているなあ。縁があるのかなあ。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「高村光太郎」編を読み終わる。

詩人であり彫刻家。『智恵子抄』の人。
73歳で亡くなっているらしい。結構長生き。


光太郎は(略)学生のころ、鉄アレイを使ってボディービルに励んだ。鏡の前に裸で立って、毎日鉄アレイをあげ、筋肉をつけた。(略)アメリカでケンカを売られても勝ったのである。


意外だ。頑固っぽいイメージはあったけれど、こんなにまで頑丈な人だったとは。その上、身体だけでなく、目の運動をして目玉も鍛えていたらしい。

カリスマ性があり飛び抜けた才能があったために、追悼も絶賛が多い。しかし追悼号の最後に、アンケートも載せたらしいのだが、それには散々なこと、批判が書かれていたのだとか。それは芸術というよりも、戦争に加担し、戦争支持の詩を書いたためだあったよう。高村光太郎は戦争が終わった後に後悔の文を出しているらしいが、まあやった事がなくなる訳じゃないからなあ。
でも、肯定的な追悼だけでなく、そういう批判的なものも載せるというのも、なかなか興味深いなと思った。
そのアンケート、見たいな。探してみようかな。

メモ
『高村光太郎読本』文芸臨時増刊




ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様が毎日安全に過ごせますよう、祈っております。
ではでは。

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