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檸檬読書日記 猫は鬱々と、カフカは分裂し、桜はふわふわと。 4月8日-4月14日

4月8日(月)

「作者」と「著者」は同じものだと思っていた。
だけど内容によって分けられているのだとか。

「作者」は小説とかの創作物を書く人。
「著者」はエッセイなどのノンフィクション物を書く人。

知らなかった。

よく分かっていなかったから、今まで著者で統一していたけれど、これからは意識して使い分けよ。

それにしても、こんなに身近なことなのに今まで知らなかったとは。驚き。
身近すぎると反対に見えづらくなるということだろうか。



吉田篤弘『百鼠』を読む。

へっくしょん。


くしゃみで始まる物語はろくな話じゃない、よくよく気を付けろ--いつか誰かがそう言っていた。


相変わらず不思議。
何かとらえられそうで、あと少しのところでとらえられない。

全てが第1話である、始まりの物語が3編。
何か繋がりがありそうだが、それがなんなのか、上手く言葉にできない。


「なんで君が泣く?」
「なんでって……僕はあんただから」
「それが悲しい?」
「だって僕はあんたになるんだよ。あんた以外の誰にもなれないんだから」


6歳の少年は男に言った。


死体は気まぐれで勝手なものだ。父にいたっては、頭の上にも夢の中にも一度として姿を見せたことがない。もう顔も声もすっかり忘れてたしまった。


とらえられそうで結局とらえられなくて、不思議だけど、その中に真理があるようなないような、曖昧だけど、なんだか好きなんだよなあ。この人の作品。

後どうでもいい話だけど、この中にカフカが出てきて驚いた。こんなところにも顔を出してくるのか君は。



『東リべ』の和久井さんの新作が出るようで、嬉しさで震えている。この人の絵、凄く好きなんだよなあ。また見れるなんて…ありがたや。

次はジャンプかあ。ジャンプの楽しみが増えたな。わくわく。
最近は(個人的に)マガジン優勢だったけど、またジャンプもきているなあ。

そういえばまだ『東リべ』読んでないなあ。この機会に読もうかな。





4月9日(火)

分類を 好むは人の さがなれど やり続ければ 最後は1人

同じ人など、この世にはいないよなあと思うのです。



坂口安吾『桜の森の満開の下』を読む。

ようやく読めた。
去年から読もう読もうと思っていた作品。でもせっかくなら、この桜の時期に読みたいと思って我慢していた。

内容は、山賊の男が美しい女を妻にするために、夫を殺してしまう。
ようやく手に入れた女は不思議な人で、男を恐れるどころか男に対して様々な注文をしてくる。
元いた妻たちを殺せと、首を集めてるおくれと。
女の残酷な行為を見、望みを叶えていくうちに、男はだんだんと心が遠のいていくのを感じる。男は悩み、桜の木の下で考え、そして…。

残酷で幻想的で、そして美しい。
桜の木の下の恐ろしさがひしひしと伝わってくる。
昔昔は、美しいものはまやかしであり、人を騙し惑わすためのものとされていたのだろうか。
美しき裏には、人を食らう鬼がいるとか。
だから美しきものには気をつけなくてはいけない。見極めなくてはいけない。そういうことなのかなあと、思ったり。

桜が咲くこの時期に、読むのに最適な作品だった。
そして、人がいる時はいい、でも人がいない満開の桜の下には、気をつけようと思った。

来年は、梶井基次郎『桜の樹の下には』を読もうかな。



萩原朔太郎記念館に行く事前準備(ただ日にちは未定)のため、『萩原朔太郎詩集』の「青猫」をパラパラしている。
相変わらず鬱々としていて、鬱々に侵食されそう。
でも読んだはずなのに全く覚えてなくて、おそらくそれは全然理解してなかったせいだと思うけど…今読んだらちょっとわかる部分もあってちょっと楽しい。(それでも難解で、分からない部分の方が多いけど) 

後、青空文庫で『定本青猫』も少しかじる。
本当は実物が欲しかったけど、安くても数万円…。図書館にも置いてなく、泣く泣くです。

どうやら題名の「青猫」には意味があったらしく、「青猫」の「青」は、英語の「Blue」からきているのだとか。
「Blue」は「希望なき」「憂鬱なる」「疲勞せる」の語意がある。つまりは「青猫」は「物憂げなる猫」という意味らしい。ほう。

どこまでも鬱々でござる。

今気づいたけど、「青猫」読んではいるものの、その特集期間に行けるのかな…。行く頃には終わってそうな…。
ま、まあいいか。こんな機会ないと読み返さなそうだしね。うんうん。面白いしね。うんうん。





4月10日(水)


この花好き。
随分前から置いてあるけど、ずっと綺麗。長持ちなんだなあ。



米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読む。


私も身に覚えがあるが、脳には自分に都合の悪いもの、不快なものは記憶しないどころか、無いも同然となってしまう「自動忘却装置」が備わっている。一種の自己肯定欲というか自己保存本能みたいなものか。
(略)
もっとも、著しく忌まわしい罪を犯すと、「自動忘却装置」だけでは不十分で、人はその記憶を封じ込めるために極度に心が強ばるようだ。未だに日本軍による南京大虐殺は無かったと主張する人たちは、心底からそう信じているのなら、もっと心穏やかでよさそうなものを、虐殺を裏付ける主張や証言が出る度に、過剰に攻撃的な反応をする。


過剰反応する場合、どんなことでも、そこには後ろめたさと真実がありそう。



屋根の上 桜ふわふわ 舞う下で 特等席で 花見する猫

屋根の上に猫がいて、その上に満開の桜が覆いかぶさっていた。誰にも邪魔されない、凄くいい場所を見つけたものだなあと思った。
 




4月11日(木)

台湾の対応を見ていると、日本の準備不足、対策危機感のなさが浮き彫りになる。
日本は地震大国にも関わらず、対策のすかすか加減よ…。
寝泊まりする場所等、前は1日かかってしまって困ったからと3時間でできるように準備していたらしい。流石である。
せめて備えてほしいなあ。特に食料と水。何度も体験しているから、色々対策の仕方はあるの思うんだけどなあ。

一度来たとて、来ないこいうことではないよ。



レナード・ウルフ『青髭ジル・ド・レー 悪魔になったジャンヌ・ダルクの盟友』を読む。

最近正常なものばかりを読んでいるから、頭を一旦混乱させようと思って読んでみた。

ジャンヌ・ダルクの戦友であり、何人もの少年を殺害した殺人鬼、妻殺しの青髭ジル・ド・レー男爵の話。

読んでみたら想像以上に狂ってて、感覚が狂わされそうになる。
この時代、凄まじい。常軌を逸していたのは、ジル・ド・レーだけではなかった。
陰謀暗殺に騙し合い、嫉妬権力に殺し合い、そして勿論戦争に、悪魔への異常な恐怖心。混沌としている。正常を探す方が難しい。

その中で産まれたジル・ド・レー。生まれながらに巨額な財産を手にし、幼くして両親を亡くし、若くして戦いに駆り出された男。
そりゃ気も狂う。
どんな名目であれ、戦争とは人を殺すことだ。1人手にかけてしまえば、何人だろうと変わらなくなる。そして争いが終わったとて、その感覚がなくなる訳ではない。
だからこそ、やはり戦争とは恐ろしいものだと改めて思った。

ただ異常なものばかりではなく、なるほどなあと思うこともあった。ジル・ド・レーが大金をばんばん浪費することに対して


金をふんだんに使うことは国にとって好ましいことだ、「そうでもなければ一般市民は無一物になったであろうし、さらに、金というものは本来さまざまな場所へばらまかれ分配されることを望んでいるものだ」


確かに。使い方は別として、お金を様々なところに回すのは、国にとって国民にとってもいい事な気がする。

後は、ジャンヌ・ダルクについても結構興味深かった。何より、ジル・ド・レーとジャンヌの関係が、恋愛としてないところがいい。戦友、友愛、愛はあるが神聖なものとしている。そして、ジル・ド・レーはジャンヌが処刑させたから狂ったのではなく、寧ろ裏切ったからというのは面白いなと思った。
負い目を感じるからこそ、ジャンヌの死後も彼女にとらわれ続けた。ジャンヌが素晴らしい人であった、そして自分は常に彼女の側にいて助けていた、という偽りの物語を作り芝居として人々に見せることで、裏切った真実をなかったことにしようとした。頭の中でもそうやって書き換えていった。らしい。

自分は正直、ジャンヌ・ダルクについて、天使の声を聞いた聖女であり英雄、だけど魔女だとされて火刑にあった人、という知識しかもっていなかった。
けれど、これを読んで少し認識が変わった。

聖女という疑問。

声が聞こえたから、というのは本当かもしれないけど、天使とか聖なるものではなかったのではないかなと。どちらかといえば悪魔と呼ばれる存在。

この当時の悪魔の認識は、今とは少し違う。


悪魔は「神なる唯一存在の写し絵」として人間の眼に現れたから、中世の人々にとっては悪魔の奢りは日々の誘惑であった。当時、一般に想像されていたところによれば、悪魔は〈囮〉として働く許しを与えられて、人間の信仰や道徳心の強さを試す、神に遣われた永遠の間者であった。


神の一部であり、惑わす者。
今はただただ恐ろしい存在とされているが、本来は試すための存在であった。
そう考えると、やはり悪魔の声だったのではと思える。
聖なる存在が人殺しを推薦するとは思えないものなあ。
まあ悪魔の実在がどうであれ、見極める力がいつの時代も大切なんだろうなと思った。

この本、ほとんどが頭が狂いそうな内容だけど、だからこそ見えてくるものがあったり、結局いい感じで頭を整理することができた気がする。
ジル・ド・レーに感しての色々な文献を総まとめしたような感じだから、彼を知るのに1番良い本ではないかなと感じた。

そういえば、何故ジル・ド・レーのことを「青髭」というのかと思っていたら、シャルル・ペロー『青髭』からきているのだとか。ほう。
6人の妻を殺して地下室につるし、7人目の妻も殺そうとして失敗した男の話。

後、引用だけど、ここにもカフカが出てきてびっくり。こんなところにも出ますか。



寺山修司『さみしいときは青青青青青青青』を読む。

悩むと分裂してしまう少女の話。


「もしも地球も、悩みあるごとに分かれることができたらどうだろう」
と詩人は考えた。
「戦争する地球としない地球に分かれるといい。そして人は好きなほうへ移って住めばいいんだ。なにもかもひとつにまとめようとするからいけないんだ」


そうなったらいいのになあ。
分かれて、争いたい人だけ争いたい人同士で争っておくれ。



んー、数ヶ月に1度くる食欲が湧かない期がきた。
正直何も食べたくない。何故人は物を食べなきゃいけないのだろうかとぐるぐる。
欲は知識欲だけじゃ駄目なのかなあ。睡眠も取らなくて良かったらいいのに。そしたらその分本が読めるのになあ。
食べることが必要なくなったら、人の悩みや争いごと問題の8割は解決するような、気もしないでもないような。まあ仮にそうなったとて、また違う問題が出てきてごたごたしそうだけど。

いっそ食べなくても…
いやいやでも食べれるだけでありがたいよな。贅沢言わない!そうだそうだ。やんややんや。





4月12日(金)

Blueskyの物足りないところが分かった。
スキを押した時、何も出てこないところだ。
noteだとスキを押すと、ピコンと文字とか絵が出てくる。だからあの感覚でスキを押すと、何も出てこなくてあれ?となっていた。押した後数秒待ったりもしていた。でもこれは出ないんだったなあと。
それがなんだか寂しい。

noteの、あのスキを押した時に出る言葉とか絵、結構好きなんだよなあ。何度も見て分かっていても、毎回見てしまう。出るまで待って、文字をちゃんと読んでから次にいったりしている。
だから設定していない人がいると、出ないのかあと少し残念に思っていたり。短くても設定してくれないかなあと勝手に思っていたり。

あぁ、Blueskyもスキ押したらピコンと出るようにならないかなあ。駄目かなあ、note以外ないもんなあ、そんな機能。
残念。

でも最近見る人が増えたから嬉しい。楽しい。
自分が投稿するのは遠のいてきているけど…まずい。



タナカミホ『空飛ぶ馬』を読む。

原作・北村薫『空飛ぶ馬』を漫画化したもの。
北村薫のこの「円紫さんと私」シリーズを思い出して、そういえば漫画も買っていたなあと思い出して、いい機会だからと読んでみた。

あの原作の独特な間、雰囲気を漫画で再現できるものなのだろうかと思っていたけど、杞憂だった。世界観を壊すことなく、完璧に再現されていた。
シンプルで少し影のある絵が、原作のゆったりと流れる時間と凄く合っている。

読んで驚いたのが、内容を大分忘れていたこと。
読んだのが大分昔だから仕方ないけれど、想像以上にシリアスで驚いた。しっとりとした重さがある。

5つの短編どれも、少し怖さがある。
最初は、非現実的な、幽霊などのホラー的恐ろしさが、じわじわと迫ってくる。
それを覆し、現実へと戻すのが、探偵役であり落語家の円紫さんという人物。彼が淡々と、冷静に謎を解いていく。
その感じもまた自分の好みでもある。淡々と、最高。
そして、現実にはそんな恐ろしいものなどないということが分かる。非現実的な恐ろしさはなく、結局恐ろしいのは、人だと。
でもそれだけでは終わらないのが、この本のいいところ。
円紫さんは最後に言う。

「--人間というのも捨てたものじゃないですね」

そう思わせてくれる作品だった。
恐ろしい面もあるけど、それだけではないと。

改めて、やはりいい作品だなあと、好きだなあと思った。
落語や本と絡められているのもあって、興味深い知識も得られるし、何より円紫さんと私の会話が良い。悩み多き主人公の私に、優しく諭し導く円紫さん。
いやぁ、本当に好きです。
落語、文豪、日常系ミステリー好きなら、きっと好きになるのではないかなあ。
そして原作が好きな人も、知らない人でも、この漫画は楽しめると思う。

漫画になっているのはこの1冊のみなのが残念なところ。6冊全部漫画化してくれないかなあ。





4月13日(土)

『MONKEY』vol.30「渾身の訳業」を読み終わる。

今回の作品は、頭の弱い自分には結構難しくて、分からないものがほとんどだった。

翻訳物は難しい。おそらく慣れていないからだと思うけど。
題材とか凄くいいものばかりだから、海外文学ものを広めて読んで、慣れた後にまたチャンレンジしたいなあ。



「あっ!」

突然大声出すから、何かと思えば「檸檬の手柄だって言うのを忘れた!」と言う。どうやら、やったことに対して、やった報告だけで誰がを言うのを忘れたらしい。
「後で言っておくから」と強く言われ、偉いなあと思った。自分の手柄にしてしまえばいいのに。「株を上げておかないとね」と言われたけど、代わりに上げてくれても良かったのになあ。
自分の株が上がろうが下がろうがどちらでも良いけど、好きな人の株が上がるのは嬉しい。
あっでも、好きな人たちからの株が上がるのは嬉しいな。かなりね。

「代わりに手柄にしても良いよー」
差し上げます。と言ったら「それは駄目」と返却されてしまった。良い人だなあ。





4月14日(日)


ようやくお花見できた。

さくっと見て撮って、草餅を食べながら鑑賞。短時間だけど満喫した。
桜はやはりいいものだなあ。日本に生まれてよかったと思う瞬間です。大切にしていきたいなあ。



米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読む。

書評なのだから、出てもおかしくはなかったのだけど、ここにもまたまたカフカが出てきて、もうなんだかソワソワする。
こんなにカフカって当たるものなのか…?

短期間でカフカに遭遇しすぎて、カフカの顔が分裂して、カフカの顔がたくさん頭の中をぐるぐる回ってる。ひぇー。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「武者小路実篤」編を読み終わる。

小説家、個人的に『愛と死』が好き。
90歳で亡くなっているらしい。この時代では結構長生き。
その分長く文筆活動を続けていたようだが、生前から「過去の人」となされていたらしい。意欲は凄く作品は数多く出すも、これといったものが…ということらしい。
それでも1日3枚も絵を仕上げていたらしいから、そのエネルギーには驚愕させられる。

武者小路実篤は善良で温厚、人から悪い印象を持たれない人だった。だからなのか、追悼も似たり寄ったり。悪い人は書くことがあるけど、ということなのかな。

そういえば、数年前から調布にある「武者小路実篤記念館」に行ってみたいと思いつつ行けずにいる。
彼の素朴さが現れていて、凄く素敵そう。あぁ、行きたい。
今年は「萩原朔太郎記念館」合わせて行けるといいなあ。





ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様にも素敵な春が(とはいえもはや夏だけど)訪れますよう、願っております。
ではでは。

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