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檸檬読書日記 カフカは人形になって、夏目漱石はぽこりぽこりと、秋は蘇る。 1月29日-2月4日

1月29日(月)

ラリッサ・トゥーリー・文、レベッカ・グリーン・絵『人形からとどいた手紙 -ベルリンのカフカ』を読む。絵本。

作家のフランツ・カフカは、ある日人形をなくした女の子と出会う。
悲しむ女の子に、カフカは人形から手紙を預かっていると、何通かの手紙を渡すのだった。

この話、実際にあった出来事を元に、現代風にアレンジ(特に手紙の内容を)しているものらしい。
カフカといえば、不条理だの救いがないだの、ダークめなイメージがあったが、この本のエピソードでがらりと印象が変わった。

病気で苦しむ中でも、女の子が悲しまないように、カフカは一生懸命考え、人形の冒険を手紙に記す。
ただ冒険の話を書くだけでなく、人形が戻らなくても、自分(カフカ)が手紙を書き続けなくても大丈夫なように、終わりまで凄く考えられていた。あなたの元へは帰れないけれど、いつまでもあなたを想っていると。その寄り添うような優しさに、じんわりと温かさが滲みてくるようだった。

彼自身の物語だけでは分からない、温かさと優しさに満ちた、きっとカフカを好きになる、とても素敵な絵本だった。

あぁ、カフカの作品だけでなく、彼自身のことを知りたくなってしまった。
探したけれど、ピンとくるのがあまりなくて…。やはり彼自身の日記とか手紙を読む方が良いのかなあ。そうすると全集か…。全12巻…。うーむ。




多和田葉子『言葉と歩く日記』を読む。


言語はわたしにとって体系ではなく、一種の「できごと」なのではないかと気づいた時、日記という形式がわたしにとっては言語について書き記すのにふさわしいのではないかと思った。自分の身に毎日どんなことが起こるか、予想できないし、操作もできない。誰に会うかは、相手が拒否しない限り、ある程度自分で決められるが、その人が何を言い出すかは予想できない。言葉は常に驚きなのだ。


「言葉は常に驚きなのだ。」に、確かに確かにと思わず大きく頷いた。
言葉って、本当に面白い。時と場合によって意味や色合いが違ってきたりするし、それ自体には意味をなさなくても、使う人のセンス、組み合わせによって、言葉の度合いが変わったり、衝撃をもたらしたりする。そして、発見。

特に日記をつけるようになってから、色んな出来事に注視するようになった。気にして言葉という形にすることで、自分の中で世界や言葉が広がったような気がする。さしてとりとめのない出来事も、いい感じで形成されて、おさまるような…上手く言葉にできないけれど。言葉というものが深まった気がする。

でもきっと日記って、自分の中にあるものを整理するためにつけるんだろうなあ。言葉という形にして、頭の中を整理して、いつでも取り出しやすいように閉まっておくために。





1月30日(火)

数週間前までほとんど寝ていることが多かった祖父が、家の中だけどだいぶ歩き回っているのだとか。良かった良かったと思っていた矢先、その調子で蜜柑を枝切り鋏で採ったりしていたらしい…。おいおい。
その上靴がないからと(実際には靴箱の中にちゃんとあるが、分からなかった模様)、足にビニール袋をして、ガムテープでぐるぐる固定して靴代わりにしていたらしい。総じて恐ろしい。

でも、昔の人って本当に凄いなあと実感。ないとなったらあるもので代用するという精神よ、呆れたけれど流石だなあと関心してしまった。



高原英里『川端康成異相短篇集』を読む。
「赤い喪服」を読み終わる。

とても短い。
赤痢になった女の子と母親の話。
とても悲しみに満ちている。死と赤とが押し寄せてくるようだった。最後の母親の悲鳴のような叫びが、いつまでも頭から離れない。

川端康成の「赤」は珍しいなと思った。でも、生々しいどころか、目の前が「赤」に染まった瞬間、全身から「赤」を奪われるような、消失感が襲ってくるようだった。





1月31日(水)

自家製干し柿。


今回は、祖父の柿で作ってみた。祖父の庭には柿の木が2本あって、1本は普通の柿の木なのだが、もう1本は大きい不思議な柿がなっていて、そっちは美味しくないからとずっと食べずにいた。
でも、これを干し柿にしたらどうだろうかと試しにやってみたら、まさかの大成功。種はあるけれど、甘くて美味しい干し柿になった。

干しすぎたせいで、自分好みのカチカチ硬めで、それまた最高。弾力最高の、むっちむちでもっちもち。売り物以上に美味しいかもしれぬ。無添加無農薬だから安心だしね。

どうなるか分からないからと、とりあえず4個しか作らなかったけれど、来年(いや今年か?)からは、たくさん作ろう。
いやぁ本当、もっと作っておけば良かった…。こんなんあっという間に食べてしまうよ。惜しいことしたなあ。
でも次が楽しみだ。むふふ。

そういえば干し柿は、高血圧の人によいのだとか。干しでなくても、普通の柿でも効果があるらしいが、干すとより効果的らしい。


カフカについて良い本が見つかった。というか教えてもらった。なんという僥倖。近々読みたいな。





2月1日(木)

驚いた。やっと2月である。
1月は色々ありすぎて、長く感じた。途中まだ1月?と思ったし、感覚的にはもう2月中旬くらいなのだけれど、まだ2月が始まったばかりだった。びっくり。

最近時間感覚が狂っている。数日前だと思ったら昨日のことだったり、自分だけ1日で2、3日進んでいる気がする。少し前まで去年だったのが信じられぬ。



アーサー・ビナード『日本語ぽこりぽこり』を読み終わる。

タイトルになっている「ぽこりぽこり」とは、夏目漱石の俳句


吹井戸やぽこりぽこりと真桑瓜


からきているらしい。何故「ぽこりぽこり」なのだろうかと思っていたけれど、なるほど夏目漱石か。とはいえ、夏目漱石がこんなほんわかした俳句を書いていたとは驚き。何故か堅いイメージがあったけど、でも良く考えれば『吾輩は猫である』とか、ユニークだもんなあ。

しかし、実はこの俳句には未だに謎があるらしく、「ぽこりぽこり」が「ぼこりぼこり」という濁音説もあるのだとか。
「ぽ」と「ぼ」では全然違う…。でも自分は作者同様、「ぽこりぽこり」説を推したいなあ。そのほうがほっこりするから。

この本には、日本の知識で知らなかったことは勿論、著者の母国であるアメリカについても、両方の視点で見れるとても興味深い内容だった。
言葉もそうだけれど、住んで使っている身としては、当たり前になりすぎて気づけないことはたくさんある。(芸人の厚切りジェイソンが出た時も、確かにと良く良く考えればの不思議さに驚かされた)

アメリカ人だからこその俯瞰した視点、アメリカとの比較など、冷静な目で日本を見ている。だからこその、今まで気づかなかった日本の良さや他と比較しての駄目さを知ることができた。

本当に、住み続けていると、自分の国のことは見えなかったりする。今の状況も。何処かの国では日本は終わりだから今のうちに行っておけと言われていることも。気づけないからこそ、他の視点は大事だよなあと改めて思った。

書かなかったけれど、ハロウィンのエピソードなど、色々分かっているのだなあと思えることがあったりと、ユーモアに満ちながらも、上手い具合に間にピリッとさせたり、言いたいことはきちんと言う姿勢が、読んでいていいなあと思った。
他のエッセイも読んでみたくなった。





2月2日(金)

干し芋。


自家製のさつま芋から作成。蒸して皮むいて切って数日陽の当たるところに干すだけで完成。簡単。
何より干し芋にすると、甘みが増す。美味しい。好みの硬さに出来るのも魅力的。(自分は固めが好み。だから結構時間がかかる)

今回はさつま芋がたくさん採れたから、もう何回目だろうというくらい作っている。でも美味しくて直ぐ食べきってしまう。干している最中も結構食べてしまうから、出来上がるまでに少なくなる。危ない食べ物だ。

さつま芋に関して少し残念なのが、今回凄くたくさん出来たのに、3分の1くらいを駄目にしてしまったということ…。
寒さ対策は一応していたのだけれど、やはり置く場所がなくて外で保管していたのが原因。人間でいうなら霜焼けになってしまった…残念。
やはり保存は難しいんだなあ。来年は早めに干し芋にしてしまおう。干し芋なら日持ちするからね。決意。

そういえばさつま芋は、食物繊維がたっぷりだから、便秘によいのだとか。干し芋になるとその効果は絶大。



葉室麟『読書の森で寝転んで』を読む。

著者の作品『蜩ノ記』の映画版の話。
この映画の監督を務めたのが小泉堯史という監督らしく、彼は黒澤明監督の助手を28年務め、彼のスタッフも黒澤出身が多いのだとか。だからか、映画に対してのこだわりが凄かった。
例えば家譜。


秋谷(主人公)がいままで書いた家譜を庄三郎に示した際、画面に映るのは数ページだけである。当然、そのほかは白紙であってもまったくかまわないはずなのだ。
ところが、黒澤組の伝統であるこだわりではそれを許さない。
(略)
「蜩ノ記」で撮影に使われた家譜は、およそ百ページの本稿十六巻とこれを清書したものが十八巻。ほぼ同じ厚さの日記も十巻という設定だ。
撮影に際してこの膨大な書のすべてのページにきちんと文字が書かれた。
「新訂黒田家譜」などの家譜資料を集め、これらを参考に文章を作り、日記も現在する江戸時代の日記を参照して創作したという。(略)
小泉監督によれば、「秋谷と庄三郎が書いたり、読んだりするものだから、本物でないといけない。そうでないと二人の芝居も違ってくる」そうだ。


凄すぎる…。
尚且つ、演じる役者さんも筆をとるため書道をきちんと習ったり、所作を習うため稽古したりと、細部まで抜かりがない。


見えないところまで作ることで、俳優に現場のリアリティを感じさせるのが黒澤組から引き継いだ小泉組の伝統だという。


まさに、受け継がれている。

他にも、黒澤明監督の『赤ひげ』エピソードもまた興味深かった。
主人公の赤ひげは医師故に、薬棚が登場する。だけれど、実際中身を取り出すシーンはない。にも拘わらず、中にはきちんと薬袋が入れられていたのだとか。
流石は黒澤明。改めて思い知らされた。本当に凄い方だ。それをきちんとら理解し受け継ぐ小泉監督。日本にこんな素晴らしい人達がいたと知ると、何故か自分が嬉しくなってしまう。誇らしい。

そういえば、黒澤明監督作品も関連本も、全然見れていない。出たきっかけで、そろそろ読もうかな。
そうだ、来週は読もうと思っていた本読む週間にしよう。図書館から大量に予約本が来なければ。…やはり1ヶ月にしよう。2月は読む読む詐欺解消月間だ!



ジョイス・シドマン・文、ベス・クロムス・絵『あさがくるまえに』を読む。絵本。

祈りのような、願いのようなものが込められた絵本。


どうかおねがいです。一度でもいいから
あさがくるまえに世界をかえてください。

そして、ゆったりした
たのしいひとときが
めぐってきますように。


どうかこの本の願いと祈りが、届きますように。





2月3日(土)

芦原すなお『オカメインコに雨坊主』を読む。

画家である「僕」は、乗る列車を間違え、知らない村に辿り着いてしまう。
けれど妙に大人びた物言いをする不思議な小学生・チサノと出会ったことが縁で、チサノの家に居候になり、住み着くことに。
その村は住む人も周りも、少し不思議なことだらけで…。

とても緩い、基本的に日常系の話。
読んでいるだけで、自分の時間まで少しゆったりと進んでいくようだった。整うような、穏やかになるような。

不思議なことが起きたり、人ではないものが出てきたりもするけれど、何処までも日常的で、日常の延長線のような、あぁなんかありそうだなと言う感じ。悲しもあるけれど、それだけでは終わらない。


「亡くなること自体が不幸せなことではないのかもしれません」
(略)
「あなたは永遠の命を信じますか?」
(略)
「この世は生命があふれています」
「たしかに」
「その生命のもとはひとつではないのだろうか、ということです」
「はあ」
「その生命が、さまざまな形をとります。ほら、山桜の木になったり、池のフナになったり(略)、あなたになったり、わたしになったり」
「はい」
「その姿のひとつがこの世から去っていくこと--それが、亡くなるということです。でも、生命のもとは、生命全体は、ちっともなくなりはしないのです」
(略)
「だから、亡くなることは、生きているのと同じくらい、生まれてくるのと同じくらい、いいことかもしれません」


そうは分かっていても、寂しいと言う。けれど、手を引っ張るように、前を向かせてくれるような、最後までほかほかと優しく温めてくれるようだった。

何より、登場人物たちが誰も個性的で、とても魅力的。特にチサノという少女が個人的に推し。


「勉強がたいへんなんだ?」
「わたしは奉公に出てお嫁さんになるんだから、勉強は上の学校にいく者にさせとけばいいんだよ」
「君も大きくなったら上の学校にいきたくなるかもしれないよ」
「かもしれないことでしんどい思いをするのは、嫁にいってもないのに後家さんになった心配をするようなもんだよ」


老婆のように大人びていて、子どもなのに大人すぎる言葉遣いに、それがまた読んでいくうちに愛らしいように思えて、誰もが虜になってしまうのではないかなあと思った。

特に自分が好きなのは、最初の自己紹介の場面。


「チサノというんだ、わたしは」
「名字は?」
「ヤマスソ、というんだよ」
山裾と書くんだろうか。「ヤマスソチサノちゃんか。いい名前だね」
「チサノは気にいっているけど、名字はへんだよ。お嫁にいくからいいんだけど」
(略)
「そうかな。どちらもいいと思うけどね」
「そう思うんなら、おじさんにはいいんだろう」と、少女は言った。


この達観した感じがなんとも良い。その後もずっと、チサノは淡々としている。そしてお嫁にいくからと言う。それは少し、時代を感じる。

この作品、全体を通して緩く、盛り上がるとか、刺激のようなものはあまりない。
でも、読んだ後、読んで良かったと思える作品だった。いつまでも心に温かく染み込んで残るような、とても素敵な本だった。


この本を読もうと思ったのは、少し前に読んだ、川上弘美『大好きな本 川上弘美書評集』に載っていて気になったからだが、本当に出会えて良かった。おそらく読んでいなかったら、出会うことはなかっただろう。だからこそ(noteもそうだけれど)、人の感想文は有難い。

読みたい本が増えすぎて、困りもするけどね。いやぁ本当、誰も彼も上手すぎて困る。読みたいリストが増えてく一方ですよ。だからか、たまにもう少しつまらなく書いてくれないかなあと、良く分からないことを思ったり。(え)
なんでそんなに読みたくなるように書くんだと、何故か逆ギレしたり。(え)
いやぁ、困ります。





2月4日(日)

嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「斎藤茂吉」編を読み終わる。

脳病院の院長であり歌人。名前は見たことがある気がするが…うーん。自分は歌系に疎いなあ。

斎藤茂吉は、歌人の顔と院長の顔、別々の顔があったらしい。


歌人を見れば論争し、カンシャク持ちでケンカ屋の異名を持つ茂吉が、病院では一転しておだやかな好々爺になった。医者が職業だからと言ってしまえば身も蓋もないが、歌はそれ以上の天職であり、躍動し、うねる魂と、底知れぬ慈愛の両面をあわせ持つ茂吉は、あやうい均衡を保ちつつ生きた歌人である。


ここまで極端に違うと、二人いたのでは?と疑ってしまう。もしや双子…?隠された真実が…!?なんてね。そんな訳はないです。

中でも幸田露伴関係の話が興味深かった。
例えば、幸田露伴の娘・文の話。


(略)文は何度か茂吉の見舞いにいっている。熱があって床に臥していた茂吉は、「いま、あなたが笑っているちょうどそのへんに露伴先生が立っているのが見える」と言ったという。文は、そのことを「なにかわかりそうな怖ろしさ」と感じた。


確かになに想像出来る恐ろしさがある。

もう1つ。


茂吉は尊敬する露伴の前に出ると固くなって、きちんと坐り、露伴の一語一句を聞きもらすまいとして手帳をとり出して、汗をかきかきメモをとった。「そんなことをしては困るよ」と露伴に注意されると「はい」と恐縮してそのときはやめるが、いつのまにかまた書き出していた。


純真な少年のようで、愛らしささえ感じる。幸田露伴の前で見せる顔もあったようだ。これで3つめ。え、三つ子ですか…?(違う)

最後。
幸田露伴の死の数ヶ月後、仲間たちで集まって露伴の写真の前で酒盛りをしていた時。


(略)その席で、小林は酔って露伴の声色を使い、「一杯やり給え」と茂吉へ盃をさした。茂吉はあわてて坐り直し、恐縮した顔で盃をうけた。茂吉が飲み干すと、小林は露伴の声色で「それではぼくに一杯よこし給え」といった。茂吉はまったく感きわまったように盃をかえした。その席には幸田文もいて、庵にいた一同はみなすすり泣いた、という。


斎藤茂吉の幸田露伴に対しての強い敬愛を知っただけに、こちらまで悲しみが押し寄せてくるようだった。
しんみり。




ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様にゆったりとした楽しい一時が巡ってきますよう、祈っております。
ではでは。

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