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相対的に語ることの限界について

東京東京東京東京東京東京王子

お便りをいただきました。ペンネームMacIntyreさんからです。

貴殿の態度は結局のところ「何事もほどほどに」「常識の範囲内で」「良心に照らして」といったような文言で表現されるたぐいの、「中庸であれ、中庸が善である」という凡庸な規範の再確認にすぎないのではないだろうか。そして何が「中庸」かどうかは、その凡庸な規範の信奉者の手に一方的に委ねられている。あるいは、個人主義的な価値観が支持されている、たとえ表面的にであれ万人に開かれているとされている言説の場においては、その「中庸」を裏付けるのはつまるところ個々人の好み preference であるという情緒主義に陥り、統一的な見解には至らず、さまざまの同様に非合理的な立場が並列するのみだ。𝓢𝓲𝓷𝓬𝓮𝓻𝓮𝓵𝔂.

マシュマロ


科学的知見は時とともにその総量を増やし、また改良され続け、専門家のみならず一般の人々の認識もそれに合わせ変化していった。
人々は天動説をかつての意義をもって真面目に論じはしないし、写真に魂を抜かれないかと怯えることもない。現代人はキツネにだまされない。

(今後大絶滅でも起こらない限りにおいて)〈人々の科学リテラシーは向上し続けてきたし、今後も向上し続ける〉という楽観的な進歩史観を採用してみることは、〈人々の道徳は向上し続けてきたし、今後も向上し続ける〉というそれの絶望的な見通しの悪さに比べてみれば、楽勝だろう。

ここでわたしが関心を持っているのは、なぜ古代ギリシアや古代中国その他の地域から現代に至るまで、ありとあらゆるところや時代で道徳について語られ続けてきた豊穣さがある(「科学」よりも広く、永く、深く!)のにも関わらず、人々の道徳は停滞しているか、ある面においては古代人よりも衰退しているように見えてしまうのか、ということだ。

水がH2O、2つの水素原子と1つの酸素原子からなる水分子の集まりであることを、人々は知っている。
水が万物の根源であるとか、水と火が愛によって結合するとかいった見方で世界を合理的に記述する試みが、今後新たに受け入れられることはないだろう。

道徳はどうだろうか。
決定的な道徳の理論というものがやがて打ち立てられるという見込みは、一見したところだいぶ情勢が悪い。
様々な偉人たちが提唱した様々の道徳、様々な地域や時代に根ざした様々の道徳、それらが並列的に配置され、「○○の立場を採用した場合、××ということになる」といった記述がなされるのがせいぜいだ。
そして、道徳の実践の最大の舞台となる日々の生活においては、いまだ人々はモブのザコキャラのようだ。
わたしもあなたもそうである。

ここで、「しかしたとえば奴隷制は無くなったし女性の参政権も男性同様に認められるようになった。今現在が『決定的』ではないにしても、道徳は着実に進歩しているのではないか」というような異議が当然考えられる。
それについては、「ではなぜその道徳が進歩した状況において、トランプやガーシーが当選したのか」という新たな問いがわたしに生まれる。
あるいは、先にモブのザコキャラと述べたように、端的に自分を含めた人々のモラルについて嘆息することは、日常的にないだろうか。
まとめサイトを見ているときとか。

これだけでは不親切であるのは承知しているので換言しよう。
ある面においては着実に進歩し、ある面においては停滞したり衰退したりしてしまうこともあるような形での、ある道徳のあり方やそのヴァリアントは仮に成立してきたと認めたとしても、道徳というものの全体性が、それ自身の全体性でもって進歩していくような形でのあり方ではないのはなぜだろうか、ということだ。

前者のような道徳のあり方のうちのそれぞれを、ただ相対的に並べるだけでは、「ではどちらがより優れている(より妥当である)のか」という真摯な議論はできない。
後者のような全体性の向上のために、古典における議論は示唆を与えてくれる。

非合理な選好によって立場を決めてしまうエートス

語りうるものの統合としての自閉的なロゴス

思い出を裏切る、ほとばしる熱いパトス

いのちを持った土くれの不滅の知の座、プシュケー

最近知ったプッシーの意味

いじめしてるお前

プッシーじゃん(笑)

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