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雑感記録(216)

【最近の読書について】


ここ最近、というよりも昨日辺りまで割と精神的に疲労困憊していた訳で…。まあ詳細については前回の記録を参照されたい。

とは言え、読書をする頻度と言うのは増加傾向にあって、毎日神保町に居ては本を漁り、数冊見繕っては摘み食い的に読書をする。そうして関連する作品だったり、別の本を読みながら日々愉しく過ごしている。ここ数日のnoteを振り返ってみると、何だか性根の腐ったような文章しか書いておらず、自分で読んでいて片腹痛い。ついでに言えば、最近本について書いてないよなと思い、それで何となくこうして書き出してしまった。

この記録はどこで終わるか分からない。多分、書くのに疲れたら辞めるんだろうけど、今のところはまだ大丈夫そうだ。それでは適当に書いてみようではないか。


そういえば、前の記録で触れたが、神保町の古本屋は大抵の場合、水曜日と日曜日、祝日はお店があまり開いていない傾向にある。この記録が書かれているのは事実、水曜日な訳で今日はあまり古書店もやっていない。「うわ、今日本買えないじゃん」という落胆の中、昼休みただ神保町を亡霊の如く浮遊する人間であったことは間違いのない事実である。

まあ、そんな話はどうでもいい。

最近、僕が読んでいるのは柄谷行人『力と交換様式』と東浩紀・石田英敬『新記号論』である。活字で言うとこの辺りかな。後は、ちょこちょこ浅田彰『構造と力』を読んでいる。ちなみに最近読み終わった作品で言えば渡部直己・絓秀実・江中直紀『批評のトリアーデ』である。

何だかこうして眺めてみると、ニューアカというかその影響が凄く強い様に思われる。現代思想が強めという感じがしなくもない。特に『構造と力』を読んでしまっている時点で正しくそれなのであるから。ただここで僕らしいなと個人的に思ったのは中沢新一を読もうとしない所である。過去に1度『チベットのモーツァルト』を読んだことがあるが、正直僕のクソみたいな脳みそでは理解するには至らなかった。

多分だけれども、チベットの『死者の書』とか読めばよく分かるのかなとか思ってみたりしたが、微妙だったこともよく覚えている。ちなみにチベットの『死者の書』は購入し読んだが、何が何だかさっぱりである。出来ればレクチャー頂きたいものではある。

柄谷行人はもう過去の記録で散々に書き散らしているので、詳しいことは書くまい。しかし、柄谷行人はいつ読んでも面白い。これは何故かなといつも考えながら読んでいるのだが…謎である。ただ、『批評のトリアーデ』を読んだ際に柄谷行人はしきりに「僕がやっていることは出鱈目なんだから」というようなことを言っているのが個人的に面白い。あまり信用しない方が良いということを堂々と言っているのが個人的には物凄く好感が持てる。

どこか批評というもののもつ性質かどうか僕には知ったことではないが、いかにその対象作品を面白く読めるかがミソな訳だ。無論そこで使用される理論などがあまりにも暴挙に出ていたらそれはそれで危険だが、ある程度(と言ってもほんの些細な)の誤読は許容されているような節がある。だからこそ、批評の更に批評と言うように深みが増していくのである。つまり、何が言いたいかと言うと、柄谷行人は優しい。僕はそう感じる。

『力と交換様式』については最近ようやく「交換様式A」まで読み終えた訳だが、これが中々面白い。モースの『贈与論』で語られた呪術(?)だったかな…、それを皆が言及していないから納得いかねえ。から始まってフロイトの「エロス」と「タナトス」に関連させながらそれを分析しているのは非常に面白かった。生憎、手元に『力と交換様式』が無いので引用することが難しいのだが、この部分だけでもかなり面白く読める。

浅田彰は何度挫折したか分からない。これ何度目の正直?という状態が彼是何年続いているか分からない。しかし、不思議なことに年々分かる箇所が増えていることが実感できると嬉しい。今までは「クラインの壺」と言われてもそこに現代的な価値体系があると言われても何のこっちゃと言う感じだった。ところがここ最近、「なるほど」と思うことが多くなった。近代の価値体系がマルクスの「価値形態論」である所の貨幣である訳で。弾き出された価値を基準にしてそこからあらゆるものは価値を付けられていくが、現代の価値体系で行くと弾き出された価値は循環する訳だ。常にそれが変動する。

とここまで書いたが、図示すると分かりやすいんだがと悶々としながら書いている。まあ、詳細には『構造と力』に書いてあるからそれを読んで欲しい。ちなみに、マルクスの「価値形態論」については柄谷行人(しつこい!)の『マルクス その可能性の中心』を読むとあらかた掴めると思う。その後、原典を読むとなお理解が深まる。事実僕はそうでしたということだ。

しかし、僕が読んでいるのはニューアカの頃の作品だから1980年代の話である。時代を経た今もなお、輝きを保有している訳だが、こればかり読んでいては自身の思考のアップデートがされない。結局、昔の理論に乗っかったまま思考してしまう。何と言えばいいのだろうか、時代は進んでいるのにも関わらず頭だけ古いというのは柔軟性にあまりにも欠ける。僕はそんな人間にはなりたくないので、ここ最近ちょこちょこ新しい作品も取り入れようと躍起になっている。

手始めに、東浩紀のデリダ論を読む。凄く面白いなと思って読む。と言うか、自分が如何にデリダを読めていないかがまざまざと見せつけられ、この本を読むたびに毎回打ちひしがれている。

それで、これもどうも不思議なんだけれども、東浩紀を読んでいると不意に「あ、大澤真幸と佐々木敦も読みたい」ってなる。自分でも未だに理由なんてよく分かってないのだけれども、そこら辺を読みたくなってしまう。何というかシンプルに文章が好きなんだと思う。個人的には『批評王』が凄く面白くて、結局まだ途中なんだけれども、久々に本棚から引っ張り出して読んだんだけれども面白い。村上春樹の話があったんだけど…どんな内容かは忘れたが、面白いという感触は残り続けている。

そんな流れの中で、いつも僕が通っている大好きな古本屋があるんだけれども、そこに『新記号論』が置いてあった。何だか面白そうと思って手に取った……という訳でもない。僕は本を買う時にジャケ買いが出来ない。例えば本のタイトルで買うということだ。作家で選んでしまう傾向にある。東浩紀は当然知っている訳だが、偶然にも石田英敬も知っている。1年ぐらい前だったかな…ちくま学芸文庫から出ていた本を偶然にも読んで面白いなと思っていた。

これが中々面白い。というのも、僕は言語学と言ったら単純にソシュールしか出てこない訳だ。それが構造主義で云々とか色々ある訳だが、僕は言語学のソシュールというよりも構造主義としてのソシュールしか今まで見てこなかったんだなと痛感した。だからパースの話が出てきた時に「へえ!こんな人も居たんだ!」と思ったし、こういう言語の問題を精神分析の手法へと転化させたラカンなど…。なるほど。言語学とは多岐に渡る領域に侵食している。

それで日本にも一時期、言語学がブームになった時期がある。その代表と言って良いのか分からないが、丸山圭三郎がそれではなかったか。この人はめちゃくちゃソシュールについて書いていたようなことを記憶している。僕が所有している本で行くと『言葉と無意識』『言葉とエロス』『言葉・狂気・エロス』『ソシュールの思想』だったかな。全部が全部、読めている訳ではないのだけれども結構面白かったんだよな。

まあ、そんな接続もあって、「面白そうだな。読んでみるか。」と購入したのが『新記号論』である。読んでいくと言語学と脳科学の接続が凄い面白かった。僕が個人的に面白いなと思ったのは、自然を見るその認識の仕方と言葉(これはどの国のあらゆる言語全てを指す)を認識するその仕方がほぼ同じであるという所だ。グラフなんかも引用されていて実際に数値で見ることが出来ると何だか変な感じがする。

この本は対談集の体裁なので非常に読みやすく、面白いものである。対談集やエッセーについてのススメと題して過去に記録を残してある。

ちなみにだが、先に挙げた『批評のトリアーデ』も対談集である。というよりも座談会みたいな感じだ。渡部直己、絓秀実、江中直紀が聞き手となり、蓮實重彦、柄谷行人、中上健次3名との座談会みたいなものが収録されている。正直に言って、蓮實重彦はもう何が何だかよく分からないが、柄谷行人と中上健次の対談は個人的に面白かった。特に中上健次の対談はいつ読んでも面白いものがある。

僕は中上健次の作品については中公文庫か文春文庫…のどっちかから出ている『岬』と河出文庫から出ている『枯木灘』ぐらいしか読んだことがない。最近、『紀州』を買ったが未だ読めていない。だから僕が知る中上健次は対談集にしかいないのである。

だから僕はまともに中上健次について書く資格など実際は全く以てない。だから案内に留めておくが、柄谷行人との対談集は面白いのでぜひ読んで欲しい。ちなみにだが、じんぶん堂のサイトに柄谷行人のインタビューが掲載されている。そこに中上健次との出会いなど貴重な話が書かれているので、それを読んで貰うと人柄は何となく分かるかもしれない。

こうして書いてみると小説を殆ど読んでいないことが分かる。何だか小説に興味関心が薄れてしまったのだろうか…。


こんな感じで読書をしている訳だが、しかしどうしてもこういう文章を読み続けると休憩が欲しい。何というか活字から遠く離れて…みたいな…?何だか蓮實重彦の『小説から遠く離れて』っていうタイトル丸パクリみたいな感じがするけど…。

まあ、そんなことはこれまたどうでもいい。

僕は活字の間にいつも画集や写真集を挟むことが多い。何というか、活字で考えるのとビジュアルで考えるのでは考えるということに於いて脳の使う部分が異なるような気がする。仮に同じ部分で思考しているのだとしても、言葉を介さないで直接ビジュアルで眼前に現れているのだから楽なのかなと思ってみたりもする。まあ、これは僕の気の持ちような訳だけれども、何となくそんな気がするというだけの話である。

それで最近、僕は奮発して『定本 木村伊兵衛』を購入した。

これがまた凄く良い写真集で、昨日ずっとこればかり眺めていた。木村伊兵衛の写真はいつ見ても最高である。何が最高かと言われると言語化するのに苦しい訳だが、これは中平卓馬の写真展に行った時と同じことが言えるのではないかと思う。詰まるところ、そこに物語があるということだ。とりわけ、木村伊兵衛の写真は人物でそれを表現しているのだからまた凄い。美しさだけでなくその先にも何かが向うからやってくる。

この写真集の中に『坂』っていう作品があったんだけれども、それが凄く個人的によくて身震いした。坂から2人の親子かあるいは姉と弟なのか、それは定かではないが立っている。言葉で表現すればただそれだけなのだが、何というかその佇まいが凄く寂しいのだけれども、でもその寂しさに美しさを僕は感じてしまった。谷崎潤一郎のように「影がある方が美しいんじゃ!」みたいなことを言いたい訳じゃないけど、でも、その佇まいに僕は何故か心を奪われてしまった。

僕は元々、絵画にしてもそうなのだが、人物画や人物写真というものがあまり好きではない。何故と言われると、実際難しくて。ただ確実に言えることは「近い」ということなんだと思う。凄く元も子もないことを言ってしまうが、自分が知らない人の顔を見て何が美しいのかよく分からない。これが僕の正直なところである。だから人物画や人物写真を見る際に身構えて見てしまうことが多いのである。

ところがだ。木村伊兵衛の人物写真はどうもそういうものが無い。何というか「うわ、ちょっとこれキツイわ」という不純物が無い。それは技法によるものなのか僕には知る由もない訳だが、しかし確実にそうであるだろう。あの一瞬のふいな表情を撮れるというのもまた1つの技術であり、技法である。先の繰り返しになるが、そこから何かが始まりそうな予感がそこにはある。結局ここなのかもしれないなと思ってみたりもする。

向うからやってくる何か。これは小説もだし、絵画もだし、写真もだし、哲学もだし…。あらゆるもの。僕等は皆あらゆる方向に諸力を発している。それを看取する能力が今こそ必要になってくる訳で。向うからやってくる何かを取り込む度量の広さと寛容さが欲しいなあと思いながら木村伊兵衛の写真集を眺める。

しかし、こんなことばかり考えながら見ているとそれもそれで疲れる。純粋に味わうこともするが、写真だけだと何だかなということで岡上淑子のフォトコラージュも間に入れて見たりもしている。

岡上淑子については過去に記録を残してある。詳細はそれを参照してもらえればいい訳だが、まあいつ見ても面白いコラージュだ。

まあ、最近はこんな感じで読書をしているという話である。


さてさて、何だか体力も尽きてくる頃合いなので終わりにしようか。そうそう、ちなみに中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』も読んでいたんだった。忘れていた。中平卓馬の展示、もう1回行きたいな…。

よしなに。

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