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雑感記録(244)

【言葉で芸術を語る】


昨日、日本語で世界構築は可能か?と言ったような大仰なタイトルの元で散々書き散らしてしまった。これについては過去の記録を参照されたい。

有難いことに、友人がこれを読んでくれていたらしく、ちょこちょこやり取りをした。その中で彼が「絵について言葉で語るのは無理なような気がしている。そもそも言葉の前に絵があった訳で…。最近はそういうことを考えている…云々」という旨のことを言った。僕は「なるほどな」と思って、それについて考えてみることにした。


僕は前日に文字の成立ち的なことをのべつ幕無しに語りまくった。そこで書いたのは「文字」というのは「自然」を模して作られたものであると。それで言ってしまえば「文字」も1つの「自然」であると。これは鍵括弧付の「自然」であり、外界にある我々が生まれる前から存在している自然とは区別をしておく。それで「文字」および「言葉」によって「世界」(これも鍵括弧付の「世界」である訳だ)を創出できるということを書いた。

それで昨日の友人のやり取りで、僕がすっかり見落としていたなと思ったのが「絵画」という存在である。確かにこれも重要である。というよりも、「文字」よりも先行していたのは「絵」だったはずなのだ。例えば、ラスコー洞窟の絵画なんてそうでしょう。あれは後期旧石器時代に描かれた作品になる訳で、これがある種のコミュニケーションとして利用されていた訳でしょう。そう考えると「絵」も1つの「文字」として存在していたのではないだろうか。

ラスコー洞窟

しかし、こうして最後の1文を書いてみて思ったが、僕らが如何に「文字」によって支配されているかが分かる。これは「文字」が中心に据えられた上での思考である訳だ。「絵」が「文字」の一種ではなくて、「文字」が「絵」の一種として存在しているかもしれない。アプリオリにあったのは「文字」ではなく「絵」である。だが、これらの起源はお互いに自然を模写したものであり、根底的な部分では共通していることを考えるとこれは結びつけることが可能ではないかとも思える訳だ。

更に言えば、「文字」の発生は同時に「言葉」の発生でもあるのではないかとも思われる。昨日も記録で書いたが「文字」単体だけでは意味は成立しない(漢字の場合は少し事情が異なってくることについても触れた)。「音」の問題についても考えなければならなくなる。先に「音」が存在してそこに当て嵌めたのか、あるいは逆で「文字」が先に存在してそこに「音」を当て嵌めたのか。これは近々の課題として心に留めておくことにしようと思う。

さらに、言葉の交通という点で考える時、恐らくだがこれは柄谷行人が提唱するところの所謂「交換様式」という問題が関わってくるのではないかと思うのである。「音」の交換、「文字」の交換。これは言ってしまえば互酬性の所の話とも関わってくるような気がしている。贈与とも深いところで関わってくるのではないかとも考えてみるのだが、如何せん、僕は頭が良くない訳で、そこまで深く考えられていない。これも近々の課題として心に留めておくことにしようと思う。


さて、話が大分グルグル遠回っているが、これまた少し昨日の訂正というか、補足的なことを少し書かせてほしい。

まず以て、先程僕は「自然」→「文字」という流れで語ったが、そこに「絵」が含まれていないということについて書いた。それを踏まえた上で、少しばかし時系列順にというか、ある程度の流れを以て書ければなとも思う訳だ。これまた遠回りするし、実際自分自身でも「何言ってんだか」と半ば諦めながら書いている部分も当然にある訳なので、大目に見て欲しいということだけは先に断っておくことにしよう。

そこに自然があった。それは広大な自然で、自然と個人としての人間がそこに対峙する訳だ。そこでそのどうすることも出来ない力をまざまざと見せつける訳だ。自然vs人間(=個)が前提として存在している。

しかし、人間というのは不思議なもので1人では生きていけない。そもそも自分自身が存在するということは父や母や兄弟や、あるいは姉妹と言った「家族」というコミュニティが存在する。これも言ってしまえばある種の共同体な訳だ。お互いにコミュニケーションを取らなければ上手く生活することが困難になる。しかし、ここは若干の宗教っぽい考え方かもしれないが、何となく通じ合えるとでも言おうか。具体的な事物の名前を出さなくても指で刺したり、あるいは鳴き声のような鼻で息を吹き付けるような、「ん」という音で何となく伝えられてしまう。

そう考えると最初に存在しているのは「音」なのかもしれない。加えてジェスチャー、要は体の動きが原初には存在していたのかもしれない。しかし、これが自然を模すというには中々困難な訳だが、これは赤ちゃんの言葉の習得などを考えれば良いのかもしれない。外界の「音」を先に会得し、その後意味を知る。何も意味から知って「音」を発することは無い訳だ。つまり「音」というものも実は自然に存在している音があって、それを模したということも言えるだろうし、あるいは元来それは人間の自然として本能として備え付けていたものなのかもしれない。現状、僕にはこれについて考えていないので分からない所ではある。

ジェスチャーについてもそうで、あれも自然を真似ていると言えば真似ている訳でしょう。多分ね。指で刺すっていう行為も言ってしまえば、自然に存在している木々の枝葉にも似ているような、似ていないような…。まあ、これは唯の僕のこじつけに過ぎない。参考にはぜひしないで頂きたいものだ。だが、いずれにしろ僕らのコミュニケーションには少なくとも自然が根底にはあるような気がしている。

どうでもいいけど、これ気になってるんだよね…。

だが、「家族」というコミュニティは1つしかない訳ではない。他の場所には他の「家族」が居る訳だ。当然に。それで、今度は「家族」という単位同士でコミュニケーションを取らなければならない場合がある。それが柄谷指摘するところの「交換様式A」の世界であり、贈与の世界でもある訳だ。まあ、これもこじつけだから宛にしないで欲しいんだけれども…。互酬性とでも言えば良いのか。「家族」が何か困ったことがあって他の「家族」に相談する。例えば何でもいい。食料が足りない、衣服が足りない、居住する場所がない…。

これをもし「家族」内だけで共有するならば、最悪「音」とジェスチャーだけで伝わるだろう。完全には伝わらなくとも意図ぐらいは読めるだろう。ところが、この事情を「家族」外の別の「家族」に伝える際にどう伝えるかが問題となる。同じように「音」とジェスチャーで伝えても良いが、もしかしたら「家族」によって「音」の出し方が異なる、ジェスチャーが異なる。あるいは偶然にも同じ「音」あるいはジェスチャーでの表現だってある訳だ。だが、相手に正確に伝えられるかというのは難しいだろう。今までは何となくでも良かったものが、今度は何となくでは済まされなくなっていく。

別のコミュニケーションの方法を検討せねばならない。ポイントは「お互いの共通項を探すこと」。住んでいる場所が違っても、お互いの生活様式が違っても、どこか類似性はある訳だ。それを考えた時に「既に在るものにはさして差異が無い」訳である。例えば木だったら、気は大体緑色の葉を付け、花を咲かせる。また1本の地上から天に向かって伸びている。その形式は似通っているのである。他のことについてもそんなようなことが言えそうな気がする訳だ。そしたら「絵」で表現した方が伝わりやすいし早い。

ただ「絵」と言っても自然の模写である。そこに在るものの模写。それを使えば例え下手くそな絵でも伝わることには伝わる。もしそれでも伝わらないなら、それこそ「音」やジェスチャーを駆使して伝えることが可能ではないのか。そう考えると「絵」の発生は必然的であり、本来的な「絵」というのはもしかしたらコミュニケーションが根底にある訳で、「自然をパッケージ化したい」というのは現代人のただの願望に過ぎないのかもしれない。

その「家族」同士の繋がりが広がることにより、それが村として成立していく訳で、それがラスコー洞窟のような絵画へとなっていくのではないかと僕は勝手に考えている。あくまで個人の見解なので間違っていること沢山だと思うけれども…。


「絵」がその村落のコミュニケーションのツールになるのは良いとして、そうするとこの「家族」というコミュニティが増加すれば、当然に人間という存在自体が増加する訳だ。そうすると今まで「絵」で何とかなっていた、少数の「家族」同士のコミュニティについては限定的なものになる。つまり、全体に伝えたいことが行き渡らないという事態が発生してしまう。

加えて、先にも触れたが「交換様式A」、つまり贈与の関係性。これをする際にも1つのハードルになる訳だ。例えば村落で困りごとがあった。この村落という共同体での困りごとを解決するために、別の「家族」が手伝ったり、あるいは食料とかそういった所で支援をする訳だ。だが、これは贈与の魔術というか何というか。要するに「贈与をされるとお返しに何かしてあげなければならない」という心理が働く。これを…柄谷は確かフロイトから語っていた気が…読み直さないと。モースは「ハウ」っていう言葉で…忘れてしまった。だが、いずれにしろそこには「お返しをする」という強制力が働く。

その際に「絵」でコミュニケーションを図るのは時間が掛かる訳で、一々お互いに「絵」でその内容についてお互いに伝え合うかと言うと骨が折れる作業でもある訳だ。人が増加すると単純にだが、コミュニケーションの円滑化が求められる。例えばだけれども、誰かと他愛のない会話をする時に一々「絵」でやっていたら時間の無駄だし、「音」でと言っても人間によって、「家族」によってそこは異なってくるだろう。そう考えた時に、これまた「共通項」を作った方が良いんじゃないかということになる訳だ。

それで恐らくだけど、僕は「文字」が誕生したんじゃないかなって思う。だからベースに在るのは「絵」なんだと思う。「自然」→「文字」ではなくて、「自然」→「絵」→「文字」という流れの中で誕生したのではないかなと考えてしまった。それで「文字」について色々と見てみたんだけれどもね。1番有名どころで行けばヒエログリフなんかがそうだと思うんだ。

ヒエログリフ

僕も小手先の知識しかないものだから、ヒエログリフについては語れることは無いのだけれども、1つの「絵」に対して1文字が与えられている訳でしょう。それを組み合わせていって自然を表現しようとした訳でしょう。この組み合わせでこれを表現しているといったような感じなのだろうか。また、これに「音」を併せることで「文字」という伝達手段として発展していったのではないだろうかと考える。

ここからの説明については省こう。僕よりも詳しい人が居ることは確実なのだから、その人たちにお任せしよう。


それで、ようやく冒頭の話に戻ってくる。

「絵について言葉で語るのは困難」ということについては、僕も分からないではない。もしも、今僕らが使用している言葉、そして「文字」がより「絵」に近い如きものであるならば…とも考えてしまう。それこそ象形文字とか指示文字なんていうのは殆ど原型を留めていない訳だ。あるいはヒエログリフのような「絵」的な「文字」での表現であったならば出来ないことは無いんじゃないかなとも思う訳だ。

しかし、前提として僕らが生きている上で言葉、それを構成している「文字」とはどうしても切っても切り離せない関係性になってしまった訳だ。言葉すなわち「文字」は使うハードルが低く、汎用性が高いがその分かなり難しい。「絵」や「音」(これは「音楽」と置き換えてもいい)などで表現することは非常に難しいが、その抽象的な部分、要は言語化(「文字化」)出来ない部分を補えるという点においては優位性がある。

つまり、これは既に友人に僕なりの考えを送っている訳だが、自分が持ちうる手段全て使えるもの使えば良いんじゃない。ということである。何も僕らの表現手段は言葉だけではない。

敢えてお互いが好きな作家での話に接続するのなら、保坂和志はこう言っているでしょう。

あるいはまた、宇宙なり、自然なり、世界なりは、言語に先立つ。それらは言語に先立つのだから、言語によってすべてが記述可能であるという根拠は、言語の側にはいない。人間もまた言語に先立つ。人間の思考は言語によって人間らしく完成されるけど、人間は絶えず言語化しきれないものを知覚している。雲の形も風に揺れる木の形も厳密にはどれ一つとして同じものはなく、それらの一つ一つを人間は言語によって再現することはできない。しかし知覚することはできている。すべてを知覚しているのではないにしても、少なくとも言語によって再現できる範囲以上には知覚できている。(中略)私はただ「言語によって再現できる以上に知覚できないと信じているあなたは貧しい人だ。あなたはあなた自身が持っている言語観を神経症的に守るために、自分が知覚しているものに対して知らないふりをしている」としか言うことができないけれど、そんな人と関わっている時間があったら、私には雲の形を見ている方がなにがしか利益があるだろう。少なくともその時間だけ私は、言語がすべてを記述できるという思い込みが誤りであることを確認することができるからだ。
「リアリティ」とはそのような言語と世界との関係を知る人間の内面のプロセスに起源をもつはずだ。

保坂和志「「リアリティ」とそれに先立つもの」
『世界を肯定する哲学』

(ちくま学芸新書2001年)P.98~99

言語で表現できないってことも往々にしてあるのだから、逆に言語(「文字」)に拘る必要もないような気がしている。よくさ、詩人の詩と「絵」がセットになっている作品があると思うんだが、正しくああいうスタイルでも良いと思うんだ。言葉(「文字」)だけでは足りないと思えば、「絵」で表現したって良い。あるいは「音」(音楽)で表現したって構わない。それに僕よりもそういった素養と気概があるのだから、やってみれば良いんじゃないかなとは思う訳だ。

僕等が文学が好きだからって、言葉(「文字」)に拘る必要はないんじゃないかなって最近は思う。これも前に僕は小説が書けないってことを書いた時に、阿部和重が「小説とかそういったことを真面に勉強してきた奴らより、門外漢の方がいいこと書いたりするよな」みたいな指摘をしていたと思うんだ。

何というか、ベースが文学って言うこともあるし、1番取り扱いが簡単で1番難しいものを扱って来たからその面白さとかが分かるし、実際に真摯に向き合って来た所産なんだと思う。だけれども、一遍それを分かった上で投げ捨ててみるっていう気概も必要なのかもしれない。

僕には出来そうもない話だが…。

以上、昨日の記録の補足の記録。もしかしたらこの記録の補足もあるかもね。もうこんな長文、書けるか分からないけども。

よしなに。



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