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(note創作大賞ミステリー小説部門)『敵は、本能寺にあり!』 第一章『蝶鳴く城』

【あらすじ】

『敵は、本能寺にあり!』
丹波亀山城におどろきし叫号きょうごうから遡り、信長と光秀――そして彼らを取り巻く人々の二十六年を描く。

“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。

戦国最大のミステリー“本能寺の変”の『真実』と、信長の隠し子が辿る戦乱の世の悲しき運命……。
幾つ屍を越えようとも、歩む道の先には骸の山が立ちはだかる。
『天下静謐』のため、身命を賭して闘った先に見えたものとは――。
史実を基にしたフィクションで紡ぐ、渾身の歴史ミステリー。
ぜひ、“本能寺の変の黒幕”を予想しながらお楽しみ下さい。


 ◇◇◇

第一話『疎隔の子』


 ―1582年―
 しとねから起き上がり煙管キセルくゆらせる信長のぶながを、光秀みつひでは寝そべったまま見上げる。
シャープな顎先から流れる美しい輪郭を微睡まどろみの中で眺め、憧憬しょうけいの身を案じた。
ふと注がれた切れ長の視線に彼の心臓は跳ね、無垢な想いが口をく。

「この先何が起きようと、私を信じてくださりますか……」

「無論」
すぐさま返された言葉に、光秀の迷いは消え去る。

 日成らずして、丹波亀山城におどろきし叫号きょうごう――。

「敵は、本能寺にあり!」

 ◇

 さかのぼること二十六年――。

 ―1556年―
 長良川ながらがわ(岐阜)戦いにて信長は、援軍に出向いたものの本陣の合戦には間に合わなかった。
そして正室 帰蝶きちょうの父 斉藤 道三どうさんを失ったのである。
道三に牙を剥いたのは彼の長男であり、帰蝶の異母兄妹いぼきょうだい 義龍よしたつ
帰蝶は人知れず父をしのび、身重みおもの体で涙淵るいえんに沈む。

 戦渦から戻った信長は、いそめく足で帰蝶のもとへと向かった。奥御殿の縁側に座り、風に揺れる鈴蘭の花を見つめる彼女の、弱々しく寂しげな背中に心痛めながら、信長は小さく声を掛ける。

「帰蝶、力及ばず面目ない……」
深々と頭を下げる夫に、「いえ、父上の為に、かたじけのうございました」と赤い目ながらもグッと涙を堪え低頭。

「お父上にも吾子あこの顔を見て欲しかった――」
ぽつり呟く信長の温かな胸に抱きすくめられ、帰蝶の瞳はせきを切る。
二人は確かに、仁愛の心で繋がっていた。

 半年後、帰蝶は湖北こほく(滋賀北東)成菩提院じょうぼだいいんで、男児を極秘に出産。
尾張おわり(愛知西部)家督争いの只中で混迷を極めており、子を宿す帰蝶に危険が及ぶと感じた信長が、彼女を清洲きよすから(愛知北西)湖北の寺へと隠したのである。

 ◇

 信長が家督を継承してからというもの、弟 信勝のぶかつは『当主の居城である末森すえもり(名古屋)両親のもとに育ち、父上の城を継承した我こそ正当だ――』との主張を続け、数年に渡り争いが繰り広げられていた。
確かに信長は傅役もりやく平手ひらて那古野なごや城で育てられており、加えて“尾張おわりの大うつけ”と揶揄される程の奇行も不利に働く。

 平手にしてみれば信長は、小さい頃から頭の回転が速く、人とは違った発想と視点で鋭い質問を投げ掛けてくる利発な子――。
ただ身内を前にした途端、乱暴者となり悪目立ちしたがっているように映る姿は、繊細な信長の、『愛されたい』と願う心の裏返しと捉え、より深く限りない愛情を注ぎ育て上げた。

 “美濃みの(岐阜)マムシ” 道三との和睦を成立させ、帰蝶との婚姻を取り纏めたのも平手だ。
信長と帰蝶の幸せを願い、かたわらで優しく見守り続けた彼の人生は、毒念により、不意に終焉を迎える事となる――。

第二話『愛し子の岨道』


 事の発端は、三年前にさかのぼる――。

 ―1553年―
 父が他界し、一年後――。
冬枯れの山に小さな春が訪れる頃、鹿狩りを楽しんでいた信長の背に向け、突如矢が迫る。

「――!! 信長様――!」
平手は咄嗟に、矢の前に飛び出した。

 ――?!

「じいっ――! おいっ! しっかりしろ!!」
自身の背後で倒れた平手を慌てて抱きかかえる信長を、平手はうつろな目で見上げる。
そして身を挺して守った愛しき若君が救われた事に心底安堵し、腹に刺さった矢を力無く引き抜いた。

「信長様……。――どうして争いはなくならぬのかと、うっ……幼き頃から、言っておられましたね……」

何故なにゆえ今そんな話――」

「貴方様が、……グヴッ、――泰平の世へと導かれるのを……、じいは空から、ずっと……ゴボッ――見ており……ます……」

「おい!! じい――、わしを置いて死ぬなど許さぬ!」

 平手は信長の腕の中で静かに息絶え、しかし瞳孔どうこうが開いた目は、守り続けたい愛子まなごを真っ直ぐに見ていた。

「畜生っ――!!」

 信長は人目もはばからず延々泣き叫んだ。
平手との思い出が走馬灯の様に駆け巡り、堪えようのない涙が次から次へと溢れ出す。
まだ温かな身体を抱きしめたまま、争う心を憎み、自分の不甲斐無さを呪った。
幼き日から、唯一愛情を持って接してくれた“じい”を失った信長は、腕の中で冷たくなってゆく遺体に、鬼神と成り果てた声で告げる。

「……矢を射った奴を、此の手で、――殺してやる」

 ◇

 弓矢を放ったのは、信勝を家督継承者に推す重臣 通具みちともだった。

『鹿かと思いました――』
淡々と悪びれる様子もなく弁明したと、使者からの言葉。

 しかし信勝を取り巻く重臣らは、何度も信長の暗殺を企てており、故意である事は明白だった。
やじりにはしっかりと、鳥兜トリカブトの毒まで塗り込まれていたのだ。

「必ずや平手のかたきを討つ!!」

 ◇

 ―1555年―
 信長が尾張守護の本城 “清洲きよす城”を主家から奪い取り、新領主として入城した事で、信長を取り巻くしがらみの緊張はより高まった。
織田家は清洲きよす城の信長側と、末森すえもり城の信勝側に完全分裂し、翌年には合戦へと発展。
いかれる信長自らの手で、“平手のかたき通具みちともの首を討ち取った。

 わずか七百の手勢で攻め掛かる信長軍の気迫に、信勝は倍以上の兵を擁しながらも敗走。
其のまま、籠城を決め込み母に泣きつく始末……。母の仲裁により、信長は渋々赦免しゃめんした。

 ◇

 そして、現在――。

 信長は愛する妻と腹の子の生命を危険にさらすまいと、清洲きよすから(愛知北西)湖北へ帰蝶きちょうを隠し、周囲に悟られないよう二人が不仲であるとの噂を広めなければならない状況に未だある。
父が亡くなり数年経とうと、家督争いの渦中からは抜け出せずにいた。

 帰蝶は、先の長良川の戦いで浪人となり越前えちぜん(福井北部)逃げ延びていた従兄いとこ 光秀を頼り、静かな寺で安住あんじゅうしている。

 うして産まれたいとし子と帰蝶には、間も無く別れの運命が待つ――。

第三話『隠密の子』



帰蝶きちょう様、そのお加減はいかがですか」
家臣の伝五でんごと共に訪ねてきた光秀は、帰蝶の前に土産の干し柿や蒸かし芋を並べ、ふっくら丸々とした赤ん坊と彼女を交互に、優しい眼差しで見遣みやった。

「ええ、まずまずです」

「あれから信長様は――」

「それはもう大層お喜びで。『鼻はわしに似ておるの、目は帰蝶かの』と、いつまでも腕に抱いておいででした。『吾子あことはこれ程可愛いものか』と目を細められ。『名は鳳蝶あげはじゃ』と。私は『それではあまりに女子おなごの名では』と申しましたが、あの気性ですから」
帰蝶は満更でもない表情で軽口を叩く。

左様さようでしたか。信長様が木瓜紋もっこうもんではなく揚羽蝶紋をよくお使いになるのは、“戦場いくさばでも帰蝶様を近くに感じていたいとお思いだからだ”と噂する者もおります。これからはお二人をと、名付けられたのでしょう」

 咄嗟にも洒落た事を言う光秀に、帰蝶は懐疑的だ。
「そうでしょうか。結局その日もまた私は、つまらぬ事をこぼしてしまい……。『目に入れても痛くない』と仰られるので、つい。『ならば、信長様の目の中に入れ、鳳蝶あげはを私のそばにずっと置いてくださればよいのに』と」

「……」

 父 道三どうさんを討った帰蝶の兄 義龍よしたつは、生前父に認められた信長をうらやんでいた。
膨らみ続ける嫉妬と憎悪が執着へと変わり、信長の弟 信勝をそそのかしては収まりかけた叛意はんいを増幅させる――。
信勝と義龍が“信長の嫡男ちゃくなん誕生”を知れば、共謀し鳳蝶あげはを狙うだろう。

 って鳳蝶あげは甲賀こうか(滋賀南端)惣国そうこくへ、伝五でんごと共に預けられる事となっていた。
守る為とは言え、生まれて数ヶ月の赤子あかごを手離さなくてはならない母の心を、芯まで理解する事など出来はしない光秀と伝五は、何と返せば良いのか思案に暮れる。

「ふふ。弁が立つ光秀でも、何も申せませぬか……。信長も同じように押し黙っておりました」

「これは参ったな」と光秀が後頭部に手をやると、透かさず伝五が鳳蝶あげはを抱き上げる。

「帰蝶様、鳳蝶あげは様はの伝五が、大切にお守り致します」

「宜しく頼みますよ、伝五。光秀も何から何まで世話になり、有り難く存じます」
帰蝶は畳に頭を付け、泣き顔を見せぬよう唇を噛んだ。

「帰蝶様、そのような――。浪人となった私達が今こうしていられるのも、越前で暮らす手筈を整えて下さった貴女様のお力添えがあったからこそ。お父上の御命おいのちを護れなかったこんな石ころに……。
我々はただ、帰蝶様の御役に立ちたいのです」

 鳳蝶あげはが伝五の腕の中で泣き声を上げ、帰蝶はひっそりと着物の袖で涙をぬぐう。精一杯の笑顔を作ってから頭を上げ、最後にもう一度鳳蝶あげはを抱いた。

 そして彼は、世に知られる事の無い“隠秘の子”となったのである――。

第四話『氷塊の心胆』


 鳳蝶あげは伝五でんご甲賀こうか(滋賀南端)惣国そうこくって数日後――。
信長は帰蝶きちょうを迎えに、湖北こほくへと(滋賀北東)馬を走らせた。

 二人は成菩提院じょうぼだいいん境内けいだいで、赤や黄に染まる紅葉の下をしばし散策しては、静かに言葉を交わす。

鳳蝶あげはは息災に暮らしているでしょうか……」

「あぁ、健やかに過ごしておるはずじゃ」

 何の根拠もない慰めが、帰蝶の心をざわつかせる。
「……。鳳蝶あげはとの別れの日、どうして来てくださらなかったのですか」

「光秀に任せておけば大事ないと言ったのは、其方そなたであろう」と、信長はまやかしを口にした。
“決心が揺らぎそうで足が進まなかった”とは悟られたくない男の虚栄から、思いのほか心無い返答となってしまう。
しかし小さな胸間きょうかんさえ汲み取れない彼女の躰は、鬱屈うっくつとした空気を纏った。

「そうですが……」

「なんだ。はっきり申せ。それが帰蝶の良い所ではないか」

「……私が、人生で一番寂しかった日、ただ側に居て欲しかった……」

 余りに苦く悲痛な声に、自分の事ばかりで彼女の気持ちをないがしろにしたと気付き恥じる。
父 政秀が亡くなり、其の翌年には義父 道三も討たれ、意図せず二つの家督争いに於いて台風の目となった信長は、誰かを思い遣る余裕を無くしていた。

「帰蝶……。誠に、思い至らず悪かった。許してくれ――」と細い肩を抱き寄せた厚い胸元を、彼女は両手で押し退ける。
信長は自身を真っ直ぐに見つめる悲しみの色が、夜叉の瞳に変わる瞬間にひるんだ。

「側室をお迎えになったと聞きました。父上が亡くなった途端、私をこの地へ追いやり、めかけ清洲城きよすじょうに――。所詮、私達は和睦わぼくの為の政略結婚……」

「――! それは、本心か……」
息を呑み悲愴な面持ちで尋ねるが、帰蝶は物ともせず無言のまま睨みつける。
「……帰ったら、引き合わせようと思うておった」と臆しながら彼女へ返された言葉も、「要りませぬ」と手酷く叩き斬られる。

「そう言うな。夫を亡くし弱っておるのを、励ましてやっただけ。幼い頃に遊んだ仲、……帰蝶にとって光秀のようなもの」

 帰蝶が留守の間に側室となった吉乃きつのは、信長の四つ上の幼馴染で、夫が戦死し実家に戻って来ていた所、心配した信長が訪ねた。
しかし其れが純粋な優しさで無かった事は、自身が一番理解している。精神の糸が限界まで張り詰めた肉体を預け、傷の舐め合いから始まった結び……。

「励まして差し上げたら、身籠みごもるのですね」
凍てつくような冷たい眼差しを向けられ、信長は目を伏せる。

「――いや、……」

「どうなさいました。あぁ。貴方様のお子かどうかは――」

「ん……! 吉乃きつのを愚弄するか」

 一気に張り詰めた夫の威勢に、苛立たしさは頂点に達す。
「もう結構。清洲へは帰りませぬ!」と強く吐き捨て、肩で風を切り、振り向きもせず寺へと入って行った。
そんな帰蝶の背中を、信長は打つ手無く茫然と見つめる。政略結婚という根底の上に積み重ねてきた愛を眼前で迷いなく否定され、追いかける勇気など持てるはずもなく、ただ立ち尽くすのだった。

 ◇

 二度目となる謀反むほんを企てた弟 信勝に対し、自身を病と偽り見舞いにおびき出し謀殺ぼうさつ
禍根かこんを絶てば、帰蝶とも雪解けの春と安易に捉えていた信長だが、毒巣どくそううにげ替わっている彼女が戻る訳もない。

 他方、信長と吉乃きつのは、信忠・信雄・徳姫と、毎年子宝に恵まれた。
陽気で社交的な吉乃は、すぐに清洲城の皆とも打ち解け、多くの人に囲まれながら幸せな日々を送る。
れど心の内では帰蝶の事が気掛かりで、寺へ挨拶に参ろうかと何度となく思いはしたが、結局は臆病に蓋をしたまま数年が経ってしまった。

 帰蝶が身を寄せる湖北の寺にも、二人の仲睦まじい風聞ふうぶんは届き、信長が幾ら訪ねて来ようとも、彼女は益々頑なに撥ね付けた。そして諦めて帰る姿を目に焼き付けては孤独に震え、感情の嵐はひょうをも吹きすさぶのだ。

 しかし熱心なふみだけでなく、刺客に襲われるかも知れぬ湖北までの道のりを、命の危険も顧みず何度も行き来しているという事実が、十分すぎる程の愛を物語っていた。政略結婚であるならば、和睦わぼく反故ほごにした美濃みの(岐阜)、帰蝶を追い返せば良いのだ。
財力と情報力に富んだ土豪の娘 吉乃を側室に迎え入れたのも、美濃を攻略する為の足固めである事は想像に難く無い。

 うと分かってはいても、帰蝶は吉乃がうとましかった。信長と子らと共に、城で温々ぬくぬくと過ごす彼女をふうに浮かべては心の内で罵倒した。

 困り果てた信長は、美濃攻めの拠点として築城した小牧山こまきやま(愛知北西)吉乃を移し、辛うじて帰蝶を清洲城へ連れ戻せたのである。

 くの如き騒動から幾許いくばくも無く、吉乃は短きせいを閉じる――。

第五話『墨染の君』


 吉乃きつのは産後の肥立ちが悪く、若くして帰らぬ人となった。
そして信長から発せられた願いに、帰蝶きちょうは耳を疑う。
「帰蝶、遺された三人の子の、母となってはくれぬか」……と。

何故なにゆえ私が――。何故なにゆえ私が吉乃の子の? 鳳蝶あげはをこの腕に抱けぬ私が……」

「すまぬが、もう……、 鳳蝶あげはは星になったと思っ――」

 ――!!
帰蝶の腕がくうを舞い、信長の左頬を強く平手打つ。
唖然とする夫を、燃やし尽くすほど血に焼けた目で見据え、彼女は庭で遊ぶ子供達のもとへと走った。

 迷い無く、鳳蝶あげはと同じ年頃の信忠を胸に抱き、珍しく声を上げ泣き喚く。
信雄と徳姫も帰蝶に寄り添い、子を失くした母と、母を亡くした子らの、いびつ母子おやこが輪を成した。

 人に弱みを見せられぬ信長の、胸中を知る者は誰もいない――。
桶狭間おけはざま(名古屋)戦いに於いて、今川軍 二万五千に対し五千という圧倒的兵力差でありながらも見事に勝利し、尾張おわり(愛知西部)平定した信長は、お陰で三河みかわ(愛知東部)取り戻す事に成功した家康いえやすと清洲同盟を結んだ。

 しかし、東からの侵攻を回避できるようになり勢力拡大に躍り出た事で、かえって敵は増えた実状。
彼の心は四面楚歌が響き渡る真中に置かれ、鳳蝶あげはを人質に取られる事を、今尚酷く恐れている……。

 初めて愛息を胸に抱いた時、“この子を脅しの道具にされれば、全てを投げ打ってしまうだろう”と感じたのだ。――だから手放した。
情けなく、帰蝶へ素直に打ち明ける事などできなかったが、左頬に震える手を当て、柱の陰でうずくまり嗚咽を漏らした。

 ◇

 奥御殿に戻った帰蝶は、縁側に座る信長の背中に違和感を覚える。れど繊細な者の心の機微に疎く、うっかり傷つける発言をしてしまう彼女は、果然構う事なく尻を叩いた。

「信長様、父上は貴方に惚れ込み、稲葉山いなばやま(岐阜)義龍よしたつではなく“信長に”と仰ったのです。それなのに……。どうか、私の生まれ育った城を、父と母との大切な思い出の城を取り返して下さい……! すれば子を育てる事に専心できましょう!」

 彼女が焚き付ける熱で、押し寄せる葛藤の波と闘っている事ぐらい、信長には易々と理解できた。とは言え既に幾度も撤退を余儀なくされているのだ。
それでも「待っておれ。必ずや其方そなたの為、己の為、斉藤に打ち勝つ!」と、頭とは裏腹に心が力強く宣言した。

 何とか願いを叶えてやりたいと尽力を続け、家臣 秀吉ひでよしの功労もあり稲葉山いなばやま城はついに落城――。
とうとう斎藤家は滅亡し、信長は美濃みのを掌握した。

 帰蝶きちょうは“岐阜城”と名を改め贈られた古巣で、様々な思いは交錯すれど、吉乃きつのが残した子供達を大切に養い育てるのだった。

 ◇

 ところが、帰蝶が母親代わりとなり過ごす日々も、僅か数年で変化のときを迎える――。
まだ幼い徳姫が、同盟を結んだ家康の嫡男ちゃくなんのもとへ嫁ぎ、信雄も伊勢いせとの(三重)和睦わぼくの為に北畠きたばたけ家の養嗣子ようししとなったのだ。

「女、子供はいつも、男のまつりごとの道具……」

 北近江きたおうみ 浅井家への(滋賀北部)輿入こしいれが(嫁入り)控えている信長の妹 おいちと、仲良く池の鯉を眺めながら帰蝶がぽろりと嘆く。
二人のどちらも、声を掛けそびれた信長が立ち去っていく事に気付かなかった――。

 信長との結婚前、帰蝶には政略結婚の末、死別した夫がいた。彼の死は明らかに不自然で、帰蝶と父 道三どうさんの間に遺恨が残った。彼女はそんな過去を思い浮かべこぼしたのだが、信長は責められていると感じ自戒に徹する。妹や子の事だけではない――自分との結婚自体、彼女は悔やんでいるのだろうと、落胆する程に……。

 ◇

 一方、花菖蒲が彩り優雅な紫に染まる京では。
政治手腕と武勇に優れた誉れ高き将軍 足利 義輝あしかが よしてるが、殺害される事件が起きていた――。

第六話『機を見るに敏』


 ―1565年―
 傀儡かいらいには下らず直接統治にこだわる将軍 足利 義輝あしかが よしてる桎梏しっこくと感じる三好みよし氏は、清水寺参詣さんけいを名目に集めた一万の軍勢を率い、突如として完成間近の二条城に押し寄せる暴挙に出た。

 義輝よしてるが暗殺されたのを機に、其の弟 義昭よしあきは興福寺(奈良)幽閉される。
そんな義昭を“次期将軍に”と推す義輝の旧臣  藤孝ふじたからは彼を奪還し、越前えちぜん(福井北部)大名家へと亡命。
其れは偶然にも、浪人となった光秀が保護を許された“朝倉家”のもとであった――。

 光秀は越前の地で十余年、妻 熈子ひろこが髪を売ってまで金を用立てる程、裕福とはとても言えない境遇で、浪人となって尚随従ずいじゅうしてくれる従弟いとこ左馬助さまのすけと共に暮らしている。

 そして名も無き光秀と、名を成し始めた信長は、互いの運命に引き寄せられるのだった――。

 ◇

足利あしかが家では、家督相続者以外の子息は仏門に入る。私も慣例に従い三歳で出家。仏道に帰依きえし、三十年――。還俗げんぞくし将軍を志すなど夢にも思わなんだ道じゃ」
亡命当初は将軍職に対し消極だった義昭も、兄の旧臣 藤孝ふじたか晴門はるかどらと語り合う内に、沸々と野心めいた物も湧き上がる。

「どうにかして京に戻らねば、何もはじまりませぬ」
亡命先の朝倉家当主 義景よしかげに、藤孝と晴門はるかどは何度も懇願。
将軍を暗殺した三好みよし氏が京で盛勢し、義昭が上洛じょうらく(京入り)きる状況に無い為、妨害する三好氏とのいくさを朝倉家に求め続けているのだ。
対する義景よしかげはいつも、のらりくらりとかわすのみだった。
困っている人を放っておけず手を差し伸べては、悪意に捕まり優しさを利用されがちな彼だが、几帳面さが禍いして日和見な態度を取る事も多い。

 ◇

 思い通りにいかない藤孝は、越前での長引く亡命生活に嫌気が差していた。そんな彼が喜楽を感じられるのは、寺で光秀と話すひと時だけ。
歌道の奥義“古今伝授”を受ける程の才ある藤孝にとって、和歌や連歌・茶の湯にも教養深い光秀は、都から遠く離れた地で唯一気の合う話し相手――、そして次第に良き友となっていった。

 信長の正室 帰蝶きちょうが光秀の従妹いとこだと知った藤孝は、友を利用するようで心苦しさはあるも、窮余の策として光秀に泣きつく。

「帰蝶様を通じて、信長様に上洛戦を頼めぬか。美濃みのを治め勢いに乗る信長様なら、きっと叶えてくださる!」

 友の辛労を見てきた光秀は、常々力になりたいと思っていた。しかし帰蝶をまつりごとの道具にしたくはない。苦慮し返答に困る光秀に、藤孝は畳みかけるように甘言。

「上洛し幕府再興の暁には、光秀殿を幕臣ばくしんに迎えいれたい」

 ふと、妻 熈子ひろこの顔が脳裏に浮かぶ――。
共に流浪を余儀なくさせた煕子には、朝夕の食事にも事欠く程の苦労を掛けた。文句も言わず支え続けてくれた妻に、願わくば楽をさせてやりたい。
共に浪人となり越前へ連れて来た左馬助さまのすけの為にも、寺子屋の師匠や薬師くすしではなく、武士に返り咲きたい想いはある。ましてや将軍を直接の主君として仕える武士――“幕臣”になれるなど、思いがけない幸甚の至り。
無論、帰蝶を思いながらも、綺麗事だけでは食い扶持を繋げない光秀は、悩んだ挙げ句首肯した。

 ◇

 帰蝶の取り計らいにより、信長のもとへと義昭の動座が決まる。義景よしかげが慌てて止めようとするも、願いをかわし続けた三年の溝は余りに深い……。

 風にそよぐ万緑の稲穂の間を抜け、“将軍候補”義昭が越前から遠のいてゆく姿を、苦々しく見送るしかなかった。

第七話『戦巧者の将たる器』


 ―1568年―
 極めて迅速な動きをみせる信長は、動座わずか二ヶ月で、将軍候補 義昭よしあきを奉じ上洛じょうらく戦を開始する――。

 岐阜城を出立し関ケ原を越え、湖東、湖南(琵琶湖の東と南)山科やましなを抜ければ京だ。
しかし湖東ことうには、信長の上洛を妨害したい六角ろっかく氏が陣取る。
信長軍は同盟国 三河みかわ(愛知東部)家康と、妹 お市が嫁いだ北近江きたおうみ(滋賀北部)浅井を援軍に付け、総勢六万の軍勢で攻戦に入った。

 出陣前の軍評定いくさひょうじょうで信長は、六角氏が持つ安土(湖東)山城の内、本城と其れを守る支城に隊を分ける事を提案する。

稲葉いなば率いる第一隊は和田山城、可成よしなり勝家かついえ率いる第二隊は本城の観音寺城、わしと秀吉率いる第三隊は箕作みつくり城に其々布陣――。
戦端で箕作みつくり城を落とせば、六角は観音寺城を捨て、逃げるであろう!
城を捨て甲賀こうかへと(滋賀南端)逃げ込み、小部隊で遊撃戦を仕掛けるは六角定番の策!
だが此度こたびは上洛戦。討ち滅ぼすのが目的ではない。道さえ開けば進むのみじゃ!」

 ◇

 開戦一夜にして秀吉隊が箕作みつくり城をあっさり陥落させると、落城を知った和田山城の城兵は戦わずして逃亡。
信長の思惑通り、六角氏は易々やすやすと観音寺城を捨て、甲賀こうかへ敗走した。
信長も予想していなかった副産物は、六角氏が城を捨て逃げるのを見た地侍達が、次々と信長に寝返った事だ。

「秀吉ばかりに手柄をあげさせてはおれん!」
信長が秀吉と隊を組んだという事は、絶大なる信頼の証――。此の戦いに於いて、敵が逃げると予想されていた本城に陣取った自身よりも、落とさねばならない支城についた秀吉の方が期待されていると、勝家は焦燥感に駆られた。そして可成よしなりえるも、当の徒輩とはいはどこ吹く風と受け流す。

 勢いに乗る信長は、可成よしなり・勝家率いる第二隊に、次の先陣を命じた。勝家の苛立ちを、良い方向に導かねばならないと感じたからだ。
可成よしなりと勝家に任せたい! 三好みよしが守る勝龍寺しょうりゅうじを攻撃(京都長岡京)せよ!」

 六角氏が一日足らずで落城するとは思ってもいなかった三好氏は、慌てふためく中で可成よしなりと勝家に攻め込まれ、不承不承ながら降伏した。
うして信長は難なく上洛を達成し、叛逆者の三好氏は阿波あわ(徳島)と追放されたのだった――。

 ◇

 義昭は朝廷から将軍宣下を受け、『室町幕府第十五代将軍』に就任。赤や白の山茶花さざんかが綻び始めた本圀寺ほんこくじに駐屯(下京六条)した。
前将軍 義輝よしてるの旧臣らも、幕臣に返り咲く。義輝のもとでも政所執事まんどころのしつじを務めた晴門はるかどは、京の要人との人脈を認められ再任に至った。

 将軍就任行事が落ち着くまで、京で過ごす事となった信長一行だが、正親町おうぎまち天皇より、京での濫妨狼藉らんぼうろうぜきは控えるよう申し付けられる。

 世に横行する“乱妨取りらんぼうどり”――戦に乗じて物・金・村人などを掠奪りょうだつする行為を、信長軍では元より禁じていた。

 家臣も盟友も少なかった頃から、敵との大きな兵力差を埋めるため、信長は「褒美はしかとやる。倒れた兵の刀を盗む暇があれば、一つでも多くの首を取れ!」と飛檄。
過去、桶狭間の戦いにおいても、戦の合間に乱妨取りらんぼうどりに没頭し油断する今川軍の隙を突き、少兵ながら大将首を取る事ができた。

 信長は常日頃から、戦陣での規律を保つ為、「破格の俸禄を与える代わり、一銭でも盗めば死刑に処する」と厳罰を予告している。
尾張おわりの大うつけ”との異名轟く信長の、正しく導く統率力と礼節を重んじる姿勢に、朝廷も京の人々も意外性を感じるのだった。

 慎ましやかに上洛戦勝利を祝う信長軍だったが、其の酒宴の席において、ただ一人不穏な空気を漂わせる者がいた――。

第八話『月の掩蔽』


 上洛戦の労を慰撫する宴が、東寺とうじ(下京)催された。
丹念に手入れされた庭園を眺むれば、真朱のよそおいを凝らす楓が彩り、月の光に照らされた瓢箪池の水鏡みずかがみには、五重塔ごじゅうのとうが揺れる――。
そんな美しく心和む雰囲気に皆、赤く染まった頬を緩める中、家臣 勝家かついえだけは不服顔を崩さない。

「将軍 義昭様からの『副将軍に任命したい』との申し出を、信長様は何故なにゆえ断られたのですか!」
酒の力を借りて詰め寄る勝家を、信長は冷静に諭す。
「権威を失った幕府の要職など、頂戴したところで何の得にもならん……。副将軍になってしまえば、“正式に将軍の臣下になった”と、天下に知らしむ事になるのじゃぞ」

 ――元々は信長の弟 信勝の重臣だった勝家は、信勝に家督を継がせようと積極的に信長討ちを働き、惨敗に喫した過去を持つ。
母に嘆願され、信勝や勝家らの命を取らなかった信長に、信勝は性懲りも無く再び謀反を企てたのだが……。其れを知った勝家は信勝を見限り、信長に密告。どうにか信長への忠誠を示す為、信長の眼前で信勝を毒殺したのだった――。

 うして信長の家臣となった勝家だが、信長にも信勝にも刃向かった血腥ちなまぐさい奇縁が透ける……。当然ながら、家臣の中で長らく浮いた存在となっていた。
だがようやく此度こたびの上洛戦において指揮官の地位を与えられ、可成よしなりと共に隊を率い武功を挙げた彼が、舞い上がってしまうのは致し方ない。

 一方、柔和な性格の可成よしなりは、「和泉いずみ(大阪南部)“堺”と、湖南の(琵琶湖南)“草津”、それに京と近江おうみ(滋賀)国境くにざかいである“大津”をも直轄地に求められたと聞きました」と嬉しそうに顔を綻ばせる。

 可成よしなりは信長と帰蝶が結婚した頃から召し抱えられている。信長が酔う度『主君を失い仕官する浪人が、父や弟のいる末森城ではなく、“尾張の大うつけ”だと疎まれるわしの那古野城に来るなんてなぁ。可成よしなりはこんな信長に付いてくる変わり者じゃ』と揶揄からかう程、一際ひときわ可愛がっている近臣だ。

 笑顔の可成よしなりの対角で、信長と勝家に満ちる空気を察した秀吉は、いつもの如く間を取り持つ。
「それは素晴らしい! そのどれも人や物の流れの中心地ですな。特に堺といえば天下一の兵器しょうであり、最も栄える港! 鉄砲や舶来品に溢れているとか。
近江の大津は畿内から北国への交易港。草津は東国への陸路の要衝。信長様は畿内全ての交易路を手中に収められた。ああ、誠にめでたい、めでたい!!」と手を叩きながら、軽やかな足取りで飛び跳ね、場の笑いを誘った。

 此れには信長も満悦の笑みを見せ、大いに褒める。
「流石は秀吉! 見事な洞察じゃ。
有り余る富と鉄砲弾薬を独占し、西国から東国への交易路を押さえれば、敵対勢力の物資の流通を完全封鎖できるとみた。いくさなくして武田の弱体化を図る事さえできるやも知れぬ」

「うむ。虚名より実利……」
酒宴の末席で光秀が小さく呟く。彼は幕府奉公衆となりながら、信長の配下で政務にも当たる両属状態にあった。

 ◇

 信長は義昭の将軍就任わずか十日で、帰蝶きちょうの待つ、美濃みの 岐阜城に帰還した。
阿波あわ(徳島)飛ばされた三好氏が、虎視眈々と報復の機を狙っているとも知らずに――。

第九話『我欲の棲む城』


 信長の求めにより直轄地となったばかりの堺(大阪南部)、従来の独立不羈ふきを守る為、矢銭やせん要求を(軍費の為の税)拒否していた。

 阿波あわ(徳島)飛ばされた三好みよし氏は、そんな堺の不協和に目を付け助勢を依頼。
義昭よしあきの将軍就任後、わずか十日で信長が美濃みの(岐阜)帰還したと聞きつけ、吹雪の京へ乗り込んだ。

「信長様、光秀より報せが! 将軍 義昭よしあき様の居られる本圀寺ほんこくじを、三好が包囲し襲撃との事!」

「何っ――! クソッ、しぶといわ三好!!」

「光秀は、摂津せっつ河内かわちへも報せ(兵庫南部・大阪北中部)を走らせたようです!」

「承知した! すぐ京へ向かう準備じゃ!」

 京の本圀寺ほんこくじでは幕臣の藤孝ふじたかや光秀が応戦。光秀の近臣 左馬助さまのすけと、斉藤家滅亡により光秀の家臣に加わった 縁戚の利三としみつで報せの馬を走らせる。報せを受け駆け付けた摂津・河内の信長家臣が奮戦する中、大将 信長も大雪に見舞われた美濃みのから、直ちに八万の軍勢を携え京に急いだ。

 そして現れた巨軍を前に、三好の兵は震えおののき敗退――。
負け戦に加担した堺は、『矢銭やせん要求を拒否すれば、尼崎あまがさきと同じく街を焼き討ちにする』との脅迫に折れた。

 ◇

 就任後早速の襲撃に参る義昭は、恐怖に身を縮めて信長に擦り寄り、「帰らないでくれ。ずっと京にいてくれ……」と泣きすがった。あまりの狼狽ぶりに、政所執事まんどころのしつじ 晴門はるかどは、新将軍を叱責する。

 当の信長は、京に縛られるのだけは避けたかった。彼の主力軍勢は、尾張おわり美濃みのの武士が大半。皆を束ねる為にも、美濃を空ける訳にはいかないのだ。
勢力争いの最中さなか、在京して将軍の近くに控えるなど以てのほか
とは言えうして軍を率い、幾度も美濃みのと京を往復するにも、手間と大金が掛かる。兵を京に集めている隙に、領地へ攻め入られぬとも限らない……。

 おもんぱかった末に信長は、前将軍 義輝よしてる弑逆により、長らく建設が中断していた二条城を完成させる事にした。

「兄上が殺された城など縁起が悪いではないか」

 贈られる立場ながら文句を言う義昭を余所よそに、一から築き上げるつもりは毛頭ない。
しかしながら二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど、しっかりとした防御を格段に充実させ、天守がそびえる立派な城を完成させた。

 いたく感動した義昭は、信長が京を去る日、大粒の涙を流して感謝し、門外まで連れ添うばかりか、春の木漏れ日に照らされ輝き放つ背中が彼方に消えるまで、袖を振り見送ったのだった。

 しかし、義昭の持つ強い依頼心は、とどまる所を知らない――。

第十話『怯者の裏切り』


 ―1570年―
 将軍 義昭の亡命を手助けしたにもかかわらず、己の緩慢により見限られてしまった越前えちぜん(福井北部)朝倉家は、着々と名を揚げる信長に焦っていた。
そして隣国 若狭わかさ(福井南部)属国化を狙い、若狭大名 元明もとあきを拉致。傀儡かいらいとして間接支配を遂げる――。

 だが、元明は“将軍の甥”……。幽閉された過去が重なる義昭は、甥の境遇を不憫に思い、又も信長を頼るのだった。

 結局、元明救出を引き受けてしまう信長に、家臣 可成よしなりは不安に駆られ進言。
「信長様、越前へ救出に向かえば、北近江きたおうみ 浅井と交わした“朝倉への不戦の約束”を破る事になりますぞ」
緊迫感漂う可成よしなりに対し、信長は余裕の表情で答える。

長政ながまさは承知しておるゆえ、大事無い。無論、援軍に駆け付けると申しておった」

 妹 お市の夫 浅井 長政と信長は義兄弟の間柄。
これにて家臣は皆、浅井家の理解に安堵の色を滲ませるのであった。

 ◇

 “将軍の甥”奪還の大義名分を掲げ、信長は直ちに兵を挙げる。
数日で越前 敦賀つるがの攻略を果たし、元明が幽閉される越前 一乗谷いちじょうだにへ侵攻。
田植えを終えたばかりの早苗田さなえだ水面みなもに、陽の光が眩しく照り返し、颯爽と駆け抜ける勇姿を映す。
万事うまく行く、かのように思えた――。

「浅井の援軍が来ませんね」

 三河みかわから(愛知東部)駆け付けた家康は、越前・若狭に面する北近江の浅井軍が、何故自身より遅いのかと不審がる。
太陽が地平線に沈む頃、家臣の間にも動揺が広がり始め、普段は前向きに人を励ます家康も、一言漏らしたきり口をつぐんだ。

 沈黙し思案する信長の元へ、光秀が書状を持ち現れる。
「お市様付の間者かんじゃより(スパイ)預かり受けました」

 ――!?
信長はさっと受け取ると、落ち着きなく書状を開く。

「……! 浅井が離反――、長政が父の反対に屈したと……。そんな。よもや信じられぬ……」

 書状を持つ手を震わせながら、力無く呟いたきり絶句する信長を見かねた光秀が、「裏の印をご覧下さい」と促す。

「――!! この揚羽蝶紋は……」

 光秀は信長と目を合わせ頷くと、抑えのきいた声音で申し出た。
「このままでは挟み撃ちに遭います。未熟者ではございますが私奴わたくしめが、殿軍でんぐん(最後衛)大将を務めさせて頂きたく存じます」

 すると光秀に敵対心を持つ秀吉も、負けじと名乗りを上げる。
「否――、新参者かつ両属の光秀殿では心許ない。此の秀吉も、立派に殿しんがりの役目を果たす所存にございます!」

 殿軍でんぐんの大役を光秀・秀吉が引き受けると、信長は厚い信頼を置く可成よしなりを筆頭に、わずか十名余りを援護に付け、命辛々いのちからがら岐阜城へと逃げおおせるのであった……。

 ◇

 滅亡の危機に瀕したいくさに於いて、見事な活躍を見せた光秀・秀吉・可成よしなりは、信長より賛辞を贈られる。
その一方で、勝家をはじめ佐久間さくま丹羽にわ譜代ふだい家臣の烈々たる嫉妬が、“新入り”光秀と“人たらし”秀吉に向かった。

「流石は源の血が流るる武将 可成よしなり! 此度こたびのお主の働き、誠に大儀であった。京と湖南こなんの街道を守る為、大津に宇佐山うさやま城を築城し、その城主を可成よしなりに任せようぞ! 槍の名手と誉高きお主なら必ずや、大きな戦力となってくれるはずじゃ」

「恐悦至極にござりまする。譜代ふだい外様とざま問わず(代々・中途)、家臣を大切に想って下さる信長様には、深く痛み入ります。此の可成よしなり、信長様が天下人となられる日まで尽力する所存。謹んで城主の大役をお受け致します」

 戦上手且つ政務にも長けている可成よしなりへの評価は高く、見返りを求めない彼の、心からの優しさに皆救われている。
慈悲深く親切で誰からも愛される可成よしなりの城主就任に、不満を口にする者は一人も居なかった。

 しかし幾ら大津の守りを固めようと、義弟 長政の裏切りにより“関ケ原と湖東ことうを繋ぐ道”は、最早“敵地”。
美濃みのと京を断絶された信長は、命の恩人である妹が嫁いだ家への反撃を余儀なくされるのであった――。

第十一話『寛闊の代償』


 京への道を取り戻すため、浅井家へ反撃の狼煙を上げた信長は、義弟 長政が六角ろっかく氏防衛の拠点として築いた湖北こほくの横山城を包囲した。
そして威勢よく士気を鼓舞する――。

「横山城を取れば、京への道は繋がる!
長政の居城 小谷おだに城と横山城は、姉川あねがわを隔てた南北向かい山に位置。横山城を占拠し、長政の喉元に刃を突きつけるのじゃ! 
天下静謐せいひつ障碍しょうげとなるならば、たとえ眷顧けんこした義弟であっても取り除かねばならぬ――!!」

 信長の叫びに呼応し、勇む兵がときを作る。
すると物々しい喧囂けんごうに取り囲まれた横山城では、城兵の総身を諦観の戦慄が走るのだった。

 信長軍による横山城包囲の報せを受けた浅井軍は、青々と葦が生い茂る姉川北岸へ急行。
信長・家康軍は南岸へ布陣した。
しかしなぜか浅井軍は、睨み合ったまま動こうとしない。

「朝倉からの援軍はまだか――!」
長政は援軍の到着を待っているのだ。

「来ましたぞ!!」
だが待ち焦がれた援軍に、 “日和見ひよりみ主義”義景よしかげの姿は無かった……。

 大将不在の為かなり士気が低い朝倉軍は、家康軍の攻撃が始まるや否や敗走を始める。
慌てた浅井軍も其れに続き、呆気なく小谷城へ全軍撤退――。
信長軍が追撃を掛けると、横山城は呆気なく降伏した。

 ◇

「何故、浅井を討ち滅ぼさぬのですか!!」
いくさの興奮冷めやらぬ勝家が悪鬼あっきの形相でえる。しかし信長は静穏に告げた。
「横山城が手に入り、京への道は繋がった。家まで取り潰す必要はない」

「信長様は、裏切りに甘過ぎます……」
泣き出しそうな勝家に信長は、「お前が言えた義理か」と優しく笑った。

 気負けする勝家を下がらせ、信長が高声を上げる。
「浅井・朝倉の南進を防ぐべく、琵琶湖の南一帯に四名の勇将を城番として配置する――。
此度こたびの戦で勝ち取った、浅井との最接線 湖北こほく“横山城”。その城番として守備に付けるは秀吉! 
六角より奪った湖東ことう 観音寺城とその支城に中川!
東近江ひがしおうみ長光寺ちょうこうじ城に勝家!湖南こなん 永原ながはら城には佐久間! 以上だ。異論はないな?
そして大津 宇佐山うさやま城 城主 可成よしなり、湖東 佐和山さわやま城 城主 丹羽にわと力を合わせ、皆精進に励んでくれ」

 ◇

 ―二ヶ月後―
 向日葵が俯き始めた杪夏びょうか、又も三好氏が摂津せっつを取り戻す(兵庫南部・大阪北部)べく阿波あわから挙兵した。
信長は四万の軍勢を率い応戦。対する三好氏は阿波・讃岐さぬき・淡路(四国東部)の援軍が到着しても八千程度――。
さらに信長軍に二万兵が合流すると、威勢も虚しく自ら和平を申し込んできた。

 しかし度重なる紛擾ふんじょうに憤慨する信長は頑なに拒否。
「和平などと白々しい。三好にはいい加減うんざりしておる。徹底攻撃も辞さない」と強く主張した。

「最早勝利は確実です。一部の隊は戦線離脱を選択しても良いかと」
秀吉が手柄を独占しようと画策するほど、圧倒的勝利を確信した夜半――。
鐘のと共に襲いくる悪夢に、信長の兵はうなされる。
そして譫言うわごとのように呟いた。
「あの大軍……本願寺の僧兵……!」

 ◇

 本願寺法主 顕如けんにょの羽翼により、三好みよし氏は息を吹き返した。
軍の縮小も視野に入れ始めていた信長軍だが、結果摂津せっつに足止めとなる。

 斯して軍の主力が摂津へ投入されている裏、可成よしなりが守る宇佐山うさやま城に危険が迫っていた――。

「お市様付の間者かんじゃより報せです!」
可成よしなりに差し出された書状には、“あの日”信長が顔色を変えた“揚羽蝶紋”が印されている。
其れに気付いた可成よしなりは、ほとばしる寒慄を覚えた。

「これはまずい……。
浅井・朝倉が信長様の背を突くべく行動を開始との事! 直ちに勝家殿に報せを!
そして坂本の街を封鎖せよ――!!」

第十二話『天魔が来たりて……』


 勝家を信長のもとへ走らせるよう手筈を整えた可成よしなりは、交通の要所である坂本の街道を封鎖。浅井・朝倉の進軍を妨害する策に出た。
しかし、続々と届く悲報に愕然とする――。

「坂本に進軍して来た浅井・朝倉の兵は、およそ三万かと」

「止まらぬか……。このまま奴等が摂津せっつへ向かえば、信長様が挟み撃ちに遭う。…………。
否、――しかし、『戦に勝るかどうかと、兵力は必ずしも比例せぬ』……これは信長様のお言葉じゃ――!
皆、山を下りて戦おうではないか!!」

 可成よしなりわずか千兵の手勢で宇佐山うさやま城を下り、敵軍と相見あいまみえる決意をした。
そんな無謀とも思える圧倒的な兵力差さえも埋めてしまえる程、彼は戦術に優れている。
此度こたびも見事に勝利をおさめたと、皆が胸を撫で下ろしたのも束の間――。
比叡山から迫り来る消魂けたたましい足音と咆哮に、坂本の街は揺れる。

比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじの僧兵か――!」
近江おうみにも本願寺 顕如けんにょの魔の手が伸びていたのだ。

 延暦寺の僧兵が敵方に加わると、防いだはずの侵攻が進む。
「ここで行かせれば、信長様の御背中! 我らが任せられた城を、生命に代えても守り通す――!」
可成よしなりの檄が飛び、城兵は大軍を押し返した。
「行かせてなるものか――!!」

 果敢に挑む可成よしなりだったが、僧兵のやいばに掛かる。

「――ウグッ!! まだだ……。わしはまだ、死ぬわけにはいかぬ……!」

 可成よしなりは斬られても斬られても尚、十文字槍を精妙に振り回し戦い続けた。おびただしい血にまみれた魑魅ちみの気迫に、対峙した敵は怯む。

 歩けているのが不思議な程の深手を負いながらも満身の残力を奮い、刺突を繰り返しては幾人もの兵を倒していく“非凡なる槍の名手”――。

「ガハッ、――グッ、ゴボッ……」
命を燃やし阿修羅の如く猛然と立ち向かうも、ついには大量に吐血。血溜まりの上に膝を突き倒れた。

 猛将 可成よしなりの討死――。

 勢いづいた敵軍は宇佐山城の攻城に取り掛かるが、“城主の死を無駄にはしない”といきり立つ城兵は、わずかに残った戦力で以て抵抗を続けた。

可成よしなり様の城を、我らの命果てるまで守り抜くぞ――!」

「必ず援軍は来る! 勝家様を信じるのじゃ!」
主君の死に涙を滲ませながらも、互いに鼓舞し合い一歩も譲らない。
はやり怒れる敵軍は大津に放火し、山科やましなまでをも焼き払うのだった。

 ◇

 勝家の報せが摂津に届き、大津の事変を知った信長は、すぐに摂津から全軍撤退させ、宇佐山城へと向かう。

「外道の所業じゃ!! 三好も浅井・朝倉も、本願寺と通じておったか――! ――待っておれ可成よしなり! 今、行く!!」

 信長が救援に現れるまで城兵は踏ん張り、ついには落城を免れた。
信長軍到着に追いつめられた浅井・朝倉は、僧兵と共に比叡山へ逃げ込む。彼らは延暦寺支援のもと、比叡山にて籠城を始めた。

 城兵が守り切った“可成よしなりの城”で、信長は無言の城主と対面――。

可成よしなり! 何故死んだ――。わしはまだ天下人にはなっておらぬぞ……! 此の“尾張の大うつけ”が、天下人になるまで、付いてくるんじゃなかったか……? うぅっ……、畜生――! わしが甘かった所為せいじゃ!! あの時裏切り者の長政を、許さなければ……。畜生! 畜生、畜生、畜生、畜生――――!!」

 信長は可成よしなりが横たわる城の床に、何度も何度も頭を打ち付ける。

「信長様、おやめください!」
止めに入る家臣を振り解き、額から血が噴き散ろうとも狂ったように叩き付け、恥も外聞も捨て泣き喚き続けた。

「畜生、畜生、畜生、畜生! 畜生――!!
くぅぅ゛……、畜生ぉ…………。
わしは……もう二度と、甘い顔はせぬ――。
地獄の果てまでも、奴等の首を刈りに行く……」

第二章『桔梗咲く道』


第三章『天翔ける魔王』

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