K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30…

K.Narita

私は29歳の冬にやっちゃばの世界に足を踏み入れ、採用先には野菜博士が!未知の野菜に30年以上関わり、日本に新野菜を広めた野菜博士の一代記を綴ります。

記事一覧

やっちゃば一代記 思い出(15)

大木健二の洋菜ものがたり  除草剤で夢も消える オゼイユ 俗にいう「スカンポ」で、本物の野菜と言えるようになったのは1980年代、全国に自生しているスカンポを折あ…

K.Narita
16時間前
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やっちゃば一代記 思い出(14)

大木健二の洋菜ものがたり  にせものの横行にプッツン バターレタス  バターレタスを市場に登場させるまで三年かかりました。 並外れてデリケートな野菜で、収穫のタイミ…

K.Narita
1日前
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やっちゃば一代記 思い出(13)

大木健二の洋菜ものがたり   ロマン感じる香りと甘さ 食用ほうずき  【ほうずき】は世界に百種類余りを数えます。数少ない食用種の原産地は北米で、ここから南米のペル…

K.Narita
4日前
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やっちゃば一代記 思い出(12)

大木健二の洋菜ものがたり  セロリアック 1873年渡来と書物に記されている古い野菜です。 多分オランダから入ってきたものでしょう。 私が京橋の大根河岸に勤め始めた(昭…

K.Narita
5日前
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やっちゃば一代記 思い出(11)

大木健二の洋菜ものがたり  太めが大うけ リーキ 今ではその痕跡すらありませんが、昭和十年代の東京では、江東区の砂町や板橋区内でリーキが栽培されていました。当時は…

K.Narita
6日前
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やっちゃば一代記 思い出(10)

大木健二の洋菜ものがたり  胸わくわく、自慢の逸品 トレビッツ パリのランジス市場でランチを相伴したとき、スモークサーモンの下敷きにされていたのが〔トレビッツ〕で…

K.Narita
7日前
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やっちゃば一代記 思い出(9)

大木健二の洋菜ものがたり  絶滅の危機 アーティチョーク  私が市場に勤め始めた昭和八年にはもう顔を出していました。 古くから国内生産されていた野菜です。異様な姿形…

K.Narita
8日前
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やっちゃば一代記 思い出(8)

大木健二の洋菜ものがたり  びっくり がっかりの輸入解禁 パプリカ  一ドル三百六十円の固定為替になる以前に訪れたパリのランジス市場で, 一目ぼれして以来ずっと、「…

K.Narita
11日前
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やっちゃば一代記 思い出(7)

大木健二の洋菜ものがたり  誤解 誤用 嬉しい誤算 ベルギーエシャロット らっきょうの若いのと混同されやすいので、〔ベルギーエシャロット〕と名づけて販売しているの…

K.Narita
12日前
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やっちゃば一代記 思い出(6)

大木健二の洋菜ものがたり  貰いそびれた勲章 【アンディーブ】 ベルギーではブリュッセル、ルーベン、メルヘンが夢の三角地帯と呼ばれています。さしずめ日本なら最高級…

K.Narita
13日前
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やっちゃば一代記 思い出(5)

大木健二の洋菜ものがたり  危うく焼却処分 【ズッキー二】(ウリ科) 初輸入のあと、またたく間に普及したのが【ズッキーニ】です。 品種を登録しておけば一財産残せたの…

K.Narita
2週間前
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やっちゃば一代記 思い出(4)

大木健二の洋菜ものがたり  マコモ=茭白(ジャオパイ) 輸入野菜の第1号はマコモ(真菰)でした。戦時中、中国で「マコモ三昧」の生活を強いられてきたので思い入れが深く、…

K.Narita
2週間前
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やっちゃば一代記 思い出(3)

大木健二の洋菜ものがたり  ビーツ 個人的に「根菜類を絶やすな運動」をしていました。 戦前はよく出回っていたのに、いまでは姿を絶やしてしまうやもしれない サルシフィ…

K.Narita
2週間前
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やっちゃば一代記 思い出(2)

大木健二の洋菜ものがたり  洋菜事始め 日本原産の野菜はウド、セリ、フキ、ミツバ、ワサビ、アサツキ、アシタバ ジュンサイ、ハマボウフウなどにとどまり、現存する野菜…

K.Narita
3週間前
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やっちゃば一代記 思い出(1)

大木健二の洋菜ものがたり  野菜生産の変革期 終戦直後の進駐軍上陸は、日本の野菜つくりにも一大変革をもたらしました納入先の座間基地で、たまたま女性将校の食事に出さ…

K.Narita
3週間前
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やっちゃば一代記 実録(49)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記  マコモに抱いた夢 マコモの国内栽培。大木がマコモに抱いた夢である。マコモが中華料理で頻繁に使われるようになると、役所も重い腰…

K.Narita
3週間前
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やっちゃば一代記 思い出(15)

やっちゃば一代記 思い出(15)

大木健二の洋菜ものがたり
 除草剤で夢も消える
オゼイユ
俗にいう「スカンポ」で、本物の野菜と言えるようになったのは1980年代、全国に自生しているスカンポを折あるごとに齧って歩きましたが、日本ではヨーロッパ産に匹敵するような特有の酸味を持つものにお目にかかれません。国産は抽苔(ちゅうたい)した茎のところに酸味が付くだけですが、ヨーロッパ産は葉にも酸味が行き渡り、サラダにすると絶妙の味を出します。

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やっちゃば一代記 思い出(14)

やっちゃば一代記 思い出(14)

大木健二の洋菜ものがたり
 にせものの横行にプッツン
バターレタス
 バターレタスを市場に登場させるまで三年かかりました。
並外れてデリケートな野菜で、収穫のタイミングと輸送が大変難しかったからです。昭和五十七年、八年だったでしょうか、米国、イタリア、フランスの三国からそれぞれ種を取り寄せ、静岡県浜松で露地栽培に着手しました。
この時は出来が良すぎるほどでした。ところが、いざ収穫という段階ですべて

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やっちゃば一代記 思い出(13)

やっちゃば一代記 思い出(13)

大木健二の洋菜ものがたり 
 ロマン感じる香りと甘さ
食用ほうずき
 【ほうずき】は世界に百種類余りを数えます。数少ない食用種の原産地は北米で、ここから南米のペルー、チリに伝わったものがニュージーランドに持ち込まれ、商業生産されるようになりました。
 初輸入した昭和五十九年当時は食べられることを説明するのに大童。テレビに出たり講演会で紹介したりして、これ宣伝に努めたものの、珍しさと同時に、奇異な印

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やっちゃば一代記 思い出(12)

やっちゃば一代記 思い出(12)

大木健二の洋菜ものがたり
 セロリアック
1873年渡来と書物に記されている古い野菜です。
多分オランダから入ってきたものでしょう。
私が京橋の大根河岸に勤め始めた(昭和八年)頃は千葉県から入荷し、面長で葉が付いていました。香りと姿形に抵抗があったためか、需要は細々としていましたが、戦後は洋菜ブームにのって千葉県の勝山、岩井、保田、長野県の原村、宮川村で栽培が再開され、あちこちに自称『セロリの神様

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やっちゃば一代記 思い出(11)

やっちゃば一代記 思い出(11)

大木健二の洋菜ものがたり
 太めが大うけ
リーキ
今ではその痕跡すらありませんが、昭和十年代の東京では、江東区の砂町や板橋区内でリーキが栽培されていました。当時は利用者が一部のホテル、レストランに限られ、東京産でも十分間に合ったのです。その後、洋食の普及で消費が拡大し、生産も順調でしたが、夏場の供給だけがどうもうまくいきません。そこで浜松西農協(現JAトピア浜松)に夏用のリーキの栽培を依頼したので

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やっちゃば一代記 思い出(10)

やっちゃば一代記 思い出(10)

大木健二の洋菜ものがたり
 胸わくわく、自慢の逸品
トレビッツ
パリのランジス市場でランチを相伴したとき、スモークサーモンの下敷きにされていたのが〔トレビッツ〕です。オリーブオイルと香辛料がよく効いていたこともあってこれは【大人の味。日本で売れる野菜】と確信、さっそく同業者三人と畑や冷蔵庫を見学したり、輸送方法を研究してみたりしました
そして昭和五十六年十月三十一日、わずか七ケースとはいえ、日本初

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やっちゃば一代記 思い出(9)

やっちゃば一代記 思い出(9)

大木健二の洋菜ものがたり
 絶滅の危機
アーティチョーク
 私が市場に勤め始めた昭和八年にはもう顔を出していました。
古くから国内生産されていた野菜です。異様な姿形にくわえて出回る時期が二ヵ月くらいに限られていたため、人目に触れる機会も少なかったのです。
また、バカの一つ覚えみたいに、茹でたあとドレッシングかマヨネーズでしか食べられてこなかったので、いまだに普及していません。
 市場で初めて業務用

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やっちゃば一代記 思い出(8)

やっちゃば一代記 思い出(8)

大木健二の洋菜ものがたり
 びっくり がっかりの輸入解禁
パプリカ
 一ドル三百六十円の固定為替になる以前に訪れたパリのランジス市場で,
一目ぼれして以来ずっと、「いつか日本で作り、売ってみたい!。」と想いを募らせていたのが〔パプリカ〕です。
 そこで昭和五十七年三月十九日、黄と緑の種子をオランダから初輸入。
種代は黄が百グラム二十七万九千七百八十円、緑が七万九千七百二十九円と目茶苦茶に高い値段で

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やっちゃば一代記 思い出(7)

やっちゃば一代記 思い出(7)

大木健二の洋菜ものがたり
 誤解 誤用 嬉しい誤算
ベルギーエシャロット
らっきょうの若いのと混同されやすいので、〔ベルギーエシャロット〕と名づけて販売しているのがフランス生まれのシャロットです。
一般の小売店や一杯飲み屋の付け合わせに出されるエシャレットとは全く違います。ただし、こちらは卸売市場のセリ人が勝手に命名したもので、ずっと古株なんですよ。
私がベルギーエシャロットを初めて輸入した時期は

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やっちゃば一代記 思い出(6)

やっちゃば一代記 思い出(6)

大木健二の洋菜ものがたり
 貰いそびれた勲章
【アンディーブ】
ベルギーではブリュッセル、ルーベン、メルヘンが夢の三角地帯と呼ばれています。さしずめ日本なら最高級の松茸が採れる京都かな!?
野菜栽培に打ってつけの地方です。ここで栽培されるアンディーブは水洗いしなくても、叩くだけで砂を落とせます。
昭和四十九年十月、十ケース(四十五キロ)を初めて日本に持ち込みました。最初は売れなくて、売れなくて、店

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やっちゃば一代記 思い出(5)

やっちゃば一代記 思い出(5)

大木健二の洋菜ものがたり
 危うく焼却処分
【ズッキー二】(ウリ科)
初輸入のあと、またたく間に普及したのが【ズッキーニ】です。
品種を登録しておけば一財産残せたのではと、今となってはちょっと悔いが残ります。
昭和五十二年九月、米国産野菜の第一号として他の十二種といっしょに十五ケース(百五十キロ)を輸入しました。けれど、当時はこの【ズッキーニ】がどういう野菜なのか、ホントのところ分かってなかったの

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やっちゃば一代記 思い出(4)

やっちゃば一代記 思い出(4)

大木健二の洋菜ものがたり
 マコモ=茭白(ジャオパイ)
輸入野菜の第1号はマコモ(真菰)でした。戦時中、中国で「マコモ三昧」の生活を強いられてきたので思い入れが深く、日中貿易がスタートした昭和三十年代後半にすぐに取り組んだのです。
上海の人民公社が送ってきたのは青みの部分が切り落とされたものばかりで「大木は悩みもの(売りにくい商品の意味)を買ってきた!」と周辺からは避難轟々。二度目も青いところを切

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やっちゃば一代記 思い出(3)

やっちゃば一代記 思い出(3)

大木健二の洋菜ものがたり
 ビーツ
個人的に「根菜類を絶やすな運動」をしていました。
戦前はよく出回っていたのに、いまでは姿を絶やしてしまうやもしれない
サルシフィー、パースニップ、ルタバガ、トッピーナンポ、ビーツの五種類を特に選び、自前の情報誌を送って、得意先の二百五十軒に消費拡大を訴えていました。この五種類は進駐軍上陸よりずっと前の明治時代から栽培されている洋菜ですが、戦後は需要がなくなり、生

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やっちゃば一代記 思い出(2)

やっちゃば一代記 思い出(2)

大木健二の洋菜ものがたり
 洋菜事始め
日本原産の野菜はウド、セリ、フキ、ミツバ、ワサビ、アサツキ、アシタバ
ジュンサイ、ハマボウフウなどにとどまり、現存する野菜の大半は外国種です。外国産が渡来した時期は、1に奈良・平安時代以前。2に室町時代から江戸時代初期。3に幕末以降明治初年と3期とされていますね。
まず中国大陸からミョウガ、ショウガ、ナス、キュウリ、サトイモ、ネギ、ダイコンが渡来。南蛮船によ

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やっちゃば一代記 思い出(1)

やっちゃば一代記 思い出(1)

大木健二の洋菜ものがたり
 野菜生産の変革期
終戦直後の進駐軍上陸は、日本の野菜つくりにも一大変革をもたらしました納入先の座間基地で、たまたま女性将校の食事に出されたレタスからミミズが這い出し、机を叩いて怒った将校から「出入り禁止」の最後通牒をもらったことがあります。当時の日本は有機栽培が普通で、畑に虫はつきものでした。運悪く、獲り入れ前に降った雨を避けようとしたミミズがレタスの中に逃げ込んだらし

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やっちゃば一代記 実録(49)大木健二伝

やっちゃば一代記 実録(49)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 マコモに抱いた夢
マコモの国内栽培。大木がマコモに抱いた夢である。マコモが中華料理で頻繁に使われるようになると、役所も重い腰を上げた。農林省(現農水省)がマコモの栽培を推奨したのである。大木もこれに便乗、静岡県での試験栽培に加わった。マコモを植えたのは浜松付近の鰻の養殖地。温暖な気候、豊富な水と栽培条件はよさそうに見えた実際、マコモの生育は素晴らしかった。
 

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