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【歴史小説・中編】花、散りなばと(5)


この小説について

 この小説は、室町時代の奈良を舞台にしています。
 登場人物は、大乗院門跡の経覚きょうがく
 そしてそれを支える、衆徒の大名・古市胤仙ふるいちいんせん
 大乗院は、有名な興福寺の塔頭たっちゅうです。今でも奈良に庭園が残っているほど、大きな勢力を誇っていました。
 古市氏は、筒井順慶で有名な筒井氏の宿命のライバルです。
 しかし古市は、筒井と室町時代を通じて死闘を演じた挙げ句、ほぼ滅亡させられることになってしまいました。
 そのため、戦国時代の大和にもほとんど登場しません。
 しかし、胤仙とその息子の胤栄いんえい澄胤ちょういんはいずれも魅力的な人物です。
 本編の主人公の経覚と合わせて、もっと歴史好きに知られてもいい、知ってもらいたい、という気持ちでこの小説を書きました。
 一人でも多くの方の目に触れれば、これ以上の幸せはありません。
 どうぞよろしくお願いします。

本編(5)


医師くすしの話では、春藤丸殿はもはや長くはあるまいと」
「何を馬鹿な」
 経覚は、簀子縁にうずくまる畑経胤を怒鳴りつけ、手持ちの中啓ちゅうけいを力任せに投げつけた。扇根が敷居にぶつかって跳ね上がり、襖障子に張られた薄紙を突き破った。
「腹の所労不快、と初めに聞いてから、まだ二日も経っておらんぞ。こんなにも早く、病が篤くなってたまるものか」
 灯皿の小さな炎と、納戸構なんどがまえに投げかけられた大きな影が、呼び合うように揺れている。相手は何も答えず、黙ったままこうべを垂れていた。
 いくら声を荒らげようと、ただ言伝するだけの従者にはどうしようもない。そんなことはわかっている。それでも、せいぜい大声を発さないではいられなかった。
 予兆など、何もなかったと思える。ほんの三日前にもこの迎福寺で、連歌の手ほどきをしてやっていたのだ。館へ帰る前には、小豆の蜜漬けを振る舞ってやった。
 ただ蒸し暑い長雨の季節で、朝夕はやけに冷え込むこともあり、おこりでも患ってしまったのかもしれない。
 だが、事がそこまで差し迫っているのであれば、おのれにできることはもはや一つしかない。
 経覚は、秘蔵の白朮びゃくじゅつを従者の手に託すと、
「明朝まで、何人も入れてはならぬ」
 と固く言い置いた。
 金堂へ入って蔀戸しとみどを閉め切り、本尊の前に端座すると、香を焚き、一心不乱に仁王経にんのうきょうを唱えて修法した。
 春藤丸は、ようやっと十一の年である。その素質は群を抜き、大成すれば傑出した人物にもなれたであろう。だがそれは決して、胤仙のように奸雄めいた姿ではなかったはずだ。
 父が望む、歴史を転覆させるような野心をついぞ持たないとしたら、春藤丸は一体どのような道を歩んでいけたのだろうか。
 夜は永劫のように長く、静かな呼吸の一つ一つが、経文の一文字一文字を時へ刻みつけてゆく。
 縁側で咳払いがして、庭から鳥の鳴き声が聞こえた。瞼を上げると、灯明の芯がずいぶん短くなり、下ろした戸の隙間から明るみが覗いている。いつの間にか朝が来ていたらしい。
 縁側へ出ると、目の下に隈を拵えた畑経胤が控えていた。昨晩と同じ直垂姿である。
「容態はいかがじゃ」
「依然として厳しく。汗が一滴も出ず、激しく喘いでおられます。粉薬も、無理に唇の端から流し込むような有様で」
「さようか」
 経覚は鼻の孔を広げて嘆息した。
「馬場につないである月毛の馬を、神馬として惣社へ奉納せよ。祈祷のため折紙で二百ぴきを添えてな」
「しかしあれは、かつて若殿より献上された、ご愛蔵の一頭では」
「その春藤丸がいなくなってしまっては、何の甲斐もない。そなたは、人間の影を馬に追い求めよと言うのか」
 従者は首肯して袴の膝を伸ばし、音もなく立ち上がった。
「少し休む。そなたも折を見て下がれ」
 一礼して境内の敷石を踏み、平唐門の外へ出ていった。
 経覚は古具足の離れでうつらうつらしていたが、蒸し暑さで深く眠ることはできなかった。葬送の列のように蝉が鳴いていた。
 さる二つ時、胤仙が自ら来たというので、身なりを整えて書院で迎えた。
 惣領は鈍色どんじき袍裳ほうもに当帯を締めたばかりで、自慢の虎髭も乱れ放題に跳ね回っていた。大まなこが血走って黄色く濁っている。やはりほとんど眠れていないのであろう。
「春藤の所労火急とのことで、不憫限りない。依然として悪いか」
「は、難儀かと」
 心労の窮まった様子で頭を下げた。髪もきれいに剃られておらず、点々とまだらになっている。
「先年、今春と不幸が続いているのは、我が身に降りかかった仏罰ではないかと、骨身に沁みております」
「ふむ」
 経覚は低くうなり、片方の眉を持ち上げてみせた。
 体調を崩しがちだった胤仙の妻、春藤丸の母は、昨年の夏に亡くなっていた。さらには今年の二月に、筒井方との合戦で胤仙の弟が討ち死にしていた。古市にとっては、苦しい季節が続いているのだ。
「ずいぶん殊勝なことだが、本心よりの言葉か」
「無論」
「ならば、今すぐ願を立てることだ。金輪際、奈良へ手出しはせぬ。馬借をけしかけて討ち入らせるなどもっての外じゃ。村々を焼くこともなければ、段銭たんせんを掛けることもしない。息子の命が救われれば、必ずそれを果たすと神仏へ誓うのだ」
「ご門跡は、それでよろしいのですか」
「なに」
「我らが筒井を打ち倒せなくなっても、それで構わぬと」
 試すような言いぶりで、咄嗟に頭へ血が上りかけた。だが死にかけている幼子のためにも、今は言い争っている場合ではないと思い直し、どうにか腹へ収めた。
「衆徒同士の諍いから全て手を引き、膝を屈せというわけではない。合戦ならば、筒井の本貫へ仕掛ければよかろう。南都と寺門を戦火に巻き込むな、と言っているのだ」
「ご都合の良い話です。ただ筒井の田舎にばかり攻め込んだとて、一体何になりましょう。相手が官符棟梁を称している以上は、時に奈良が戦場になることもやむを得ますまい」
「ならば、願は立てぬか。春藤丸が死んでもよいのか」
「願は立て申す。すぐに起請文きしょうもんを返すつもりでおります。ただ万が一でもご門跡のお心に反してはならぬと、前もってお伺いに参った次第」
「わしを見くびるなよ」
 経覚は一喝した。胤仙は目を伏せて小さくかぶりを振ると、思い切りよくがばりと立ち上がった。
「どちらにしても、ここらで我が夢の終わりですな」
 見上げると、太鼓梁を背にした寂しい笑みがあった。思えば長いつきあいではあるが、初めて目にするような面差しだと思った。
 その夜も、経覚は一睡もせず金堂で修法を行った。暁闇の時分になって、蔀の外から、
「門主様」
 と呼ぶ声がした。畑経胤である。
 ふらふらと立ってゆき、妻戸を開けてやった。相手は疲れ切った様子ではあるものの、妙に晴れがましい顔つきでこちらを見上げていた。
「いかがした」
「春藤丸殿が、持ち直されました。峠は越えたとの見立てです」
「まことか」
 経覚は腰が抜け、その場にへたり込んでしまった。膝が柔らかくなって力が入らない。直綴の内側が変に生温かい心地がして、腿の裏で触ってみると、しとどに失禁していた。
 本当に父の立願が、たちどころの効験こうけんを顕したのだろうか。南都を護持する神仏の怒りが、もはや解けたと見てもよいのだろうか。
「いや、まだまだ油断はできん。春藤が明らかに回復するまで、わしは毎晩でも修法を続けるぞ」
「はっ。ですが、どうぞご自愛ください」
 従者は緩んだ笑いを含むと、頭の重さに負けたように平伏した。
 十日もすると、春藤丸は自分で起き上がり、朝餉あさげを口にすることもできるようになった。
 季節は移り、すっかり体調の戻った春藤丸は、快癒の礼参りも兼ねて、伊勢神宮へ参詣することになった。道連れは祖母と妹である。
 朝露が日の光を受けめる時分に、出立の挨拶とて、ひとりで迎福寺を訪れてきた。経覚は離れの濡縁ぬれえんまで出て迎えた。雲の切れ間から鋭く注ぐ朝日が瞼に染みる。
 春藤丸は髪を唐輪に結い、緋色の小袖に脛巾を巻いて、綾藺笠あやいがさを手に持っていた。二日ばかり精進屋へ入っていたためもあろうか、文字通り憑物の落ちたような、透き通り過ぎるほどの目つきをしていた。
「しばらくの間、お暇をいただきに上がりました」 
「やはり痩せたの」
 すっかり頬の膨らみが削げ、細面になっている。立ち姿も梢のように薄い。経覚は胸を衝かれるような思いで見下ろしていた。
「が、そなたの命は救われた。今後は、神仏に選ばれた者であると深く自覚しながら、生きてゆかねばならん」
 その言葉を受け、春藤丸は体を折らんばかりに大きくうなずいてみせた。
「いつ帰る」
「今月の末には」
「さようか。足が疲れぬようにしばしば休めよ。夕暮れ時の峠にはよう気をつけ、息災での」
 傍らの畑経胤を促して、道中の虫よけのため、飾り紐を総角あげまきに結んだ垂れ衣を三匹手渡した。
「まことにありがとうございます」
 今度はぎこちなく頭を下げてみせる。そのまま立ち去りかけたが、敷石を数歩進んでからまた振り返った。
「門跡様。わたくしの病の平癒のため、日夜ご祈祷を行っていただいたこと、心からお礼を申し上げます」
「構わん。わしは、そなたのためなら何だってする。例の月毛は、惣社へくれてやることになったがの」
 年の離れた二人は、よく似た笑い声を揃えた。
 それを囃し立てる横笛のように、黄鶲きびたきの声が舞っていた。

                           ~(6)へ続く


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