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【歴史小説・中編】六丁の娘(7)


この小説について

 この小説は、室町時代の渡辺津、および京都を舞台にしています。
 渡辺津は、今でも大阪に「渡辺橋」という名前が残る、淀川河口の港です。
 もっとも、当時の渡辺津と、今の渡辺橋は、少しだけ場所が違うそうです。
 とは言え、大阪湾に向かって開けた、当時最大級の港だったことに変わりはありません。
 そこには渡辺党という、海賊のような武士団が縄張りを張っていました。
 源氏の出自を持ち、一文字名前を名乗る渡辺党の武士たちは、歴史の表舞台に少しずつ登場しては、すぐに消えていきます。
 その中で、少し変わった形で歴史に名を残している、渡辺すすむという男がいます。
 この小説は、彼がたどった数奇な運命を題材にしています。
 一人でも多くの方の目に触れれば、これ以上の幸せはありません。
 どうぞよろしくお願いします。

本編(7)

 徒歩かちで鳥羽を通りかかった時、例の崩れかけた廃寺を見かけたが、屋根や柱の焼け残りが目立つばかりで、猫の子一匹さえいなかった。
 城南宮寺じょうなんぐうじの跡から川沿いに南へ下り、草津湊くさつみなとで三十石の人船ひとぶねに乗った。しほは小さな市女笠いちめがさに虫の垂衣たれぎぬを掛け、人形のようにちょこなんと座っていた。
近江川おうみがわ下りか。山城国の外へ出るのは初めてだ」
 ウガヤは戯れめかし、片目をつぶってみせた。脛巾はばきを巻き、菅笠に手甲という旅姿だった。三人連れで、他に供はいない。
「ウガヤは、どこで生まれたんです」
「俺は生まれも育ちも洛中さ。京の他にも世界はあると思って、あちこちうろついてはいるが、まだまだ狭い世界だ」
「深草さんみたいな、お公家様の御曹司ですか」
「まあ、そのようなものだ」
「どの公卿のご子息なんです」
「いや、公卿ではないな」
 やっぱりか、という気もした。右大臣の隠しぶりからして、意外に位階が低く、公家たちを束ねるには物足りない家柄なのかもしれない。あるいは、もっとはるかに下賤の出なのか。だがそれでも、初めてウガヤの素性に触れる話ができて嬉しかった。
 日和は悪く、分厚い黒雲が空に渦巻いて、ぽつぽつと小雨を降らせてきた。
 しほは藁屋根の下で、板子いたごに尻をつけたまま寝入ってしまった。大山崎おおやまざきで川が合流し、楠葉くすは交野かたのという牧の眺めが、左右の岸辺をゆっくりと流れてゆく。それでも三刻ばかりで故郷の津へたどり着いた。
 帰ってみれば、何ともあっけなかった。目をこすりながら立ち上がったしほも、特別な反応を示さなかった。大小の過書船かしょぶね、廻船、人船がほばしらを並べ、除棚のけだなも触れ合わんばかりにひしめいている。諸肌脱ぎの水手かこが、日に焼けた肌をぐずぐずした雨の下に晒していた。
「すごいものだな」
 ウガヤはひとりあちこちを見回しながら、爛々と両目を輝かせていた。
「そうですかね」
「天地が丸ごと、魚臭い」
 渡辺橋のたもとに降り立ち、坐摩いかすり社の鳥居を横目に湊の松原を歩いていった。
「元の家はどこだ」
「すぐそこです」
 進が指さした先に、紅の唐傘が開いていた。
 長い柄が傾き、こちらを振り向くと、赤ん坊を抱いたメスギツネだった。進はこんな時なのに、我知らず全身の脈が昂ぶるのを感じた。
 女は初め上の空の様子だったが、三人からじっと見つめられているのに気づくと、訝しむように眉根を寄せた。やがて何かに思い当たった様子で口の端を歪め、吊り上がった両目でこちらを睨み返してきた。
「おっ、お前ら、今さら何しに」
 細い肩先が上下にぶるぶると震えた。器用に乳をやっていたものか、小袖の前合わせから豊満な胸乳がはみ出していた。子を産んで、以前よりもさらに大きくなったのではないか。
 白いおくるみに包まれた赤ん坊は、まだ生まれて間もないらしく、目も開かず生麩なまふのような顔をしている。それがふわふわと膨らみ、おもむろに赤い口を開いたかと思うと、やや遅れて甲高い泣き声が響き渡った。
 そのあまりの大きさに、しほは垂衣の下で耳をふさいでいた。進とウガヤも、背骨を打たれたように立ち尽くすしかなかった。
 すると、背後の土塀に開いた腕木門うでぎもんから、一人の小柄な男が姿を現してきた。肘までめくった袖、膝までからげた袴、禿げ上がった額には烏帽子さえかぶっていない。だが肌は真っ黒く潮焼けし、鋼のように硬く引き締まっている。
「何をまたややこ・・・を泣かしとんじゃ、おどれは」
 口先をねじり、つながった太眉を持ち上げ、食いちぎらんばかりの顔つきで歩み寄ってきた。
「親父」
 進はつぶやいたきり、四肢の先を強張らせたまま動けなくなった。
 難波の海の警固衆けいごしゅう渡辺党、その惣官家庶流の当主が父親だった。泣く子も黙る、とはまさにこのことで、この男の前に出たら、聞かん坊の童でもたちまち口をつぐむ。
 ところが、メスギツネの腕の中の赤子は、まるで泣き止もうとしない。むしろ煮えたぎる釜へ投げ込まれたように、もっと激しく泣き始めた。
 男の血走った両目が、ふいにこちらへ向けられた。進は蝮に見つかった鼠のような心地になった。
「あーん、何やお前。またシケたツラのガキが突っ立っとる思うたら、我がのせがれやないか」
 平ぐけ帯に両手を突っ込んだまま、引き絞るように首を傾け、顔の筋をひん曲げている。
「今さらどのツラ下げて帰ってきよった。ええ? このワシが、伯父貴らの前でどんだけ恥かかされた思うとるんじゃ。おおかた飛び出してはみたものの、結局は食い詰めて、もういっぺん養ってもらおうちゅう腹やろうが、お前の居場所なんぞ、この渡辺津にはとっくにないんじゃあっ」
 不揃いな髭の下で唇がめくれ上がり、つばきの粒がぴんぴんと飛び散っていた。
                           ~(8)へ続く

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