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父 

私の両親は上海人である。上海人は自らのことをプライドを持って「上海人」と言う。上海人は上海語を話す。標準語である北京語と文法は大体同じであるが発音が全く違う。同じローマ語圏のフランス語とイタリア語の違いに似ているかもしれないし、もっと違うかもしれない。例えば、上海語と広東語でのコミュニケーションは不可である。上海人は外国で上海語を耳にすると赤の他人でも話しかけずにはいられない、「ガーセーメン」(情報過多気味の世間話)をして即時に既知の旧友のようになる。逆に上海人でない者を一括りに「外地人(ンガーディーニン)」と呼び、多少なりとも意地の悪さを見せたりする。

私の両親は上海人であるが、根っからのというわけでもない。どこの大都市でもそうであるが、数代遡れば皆おのぼりさんなのである。母方の祖父は寧波人で、祖母は金山人。父方の祖父は上海人で、祖母は蘇州人。私の両親は上海人の割に社交的でない。母は地で行く商売人なので導入は友好的であるが、一歩踏み込んだところに高い壁をそびえたたせている。父は基本は内弁慶で理性的であるが、典型的な上海人男性にありがちな熱しやすく短気で気性の荒い側面もあり、仲良くなれば必要以上に関わり、怒らせると口が滑るどころではない罵詈雑言を吐く。

私の両親は日本に来る前の話を、子どもである私にあまりしない。「トラウマがあって子どもに話せない」というのではなく、私には関係のない事だから、話しても得るものがないのである。合理的な人たちなのだ。なので、今回家族について書いてみたいと思って書き出したのだけれど、その内容は両親の友人や親戚との会話で見聞きした事柄と、歴史的事実をネットで軽く調べて裏付けし、想像力も稼働して、切れ端を繋げて紡ぎ上げたものである。フィクションといえばフィクションだ。そして、父の方が母と比較して情報量が多いので、今回は父について書いてみる。では、いってみよう。


1948年父は生まれた。ねずみ年であるはずなのに、何かの弾みでとりあげた医者が間違えて出生証明に記入したため、うし年ということになり、生まれてからこのかたずっと、図らずして1歳サバをよみ続けている。父は6人兄妹の長男。5000g近いビッグベビーで、しょっぱなから大変な出産であったのは想像に難しくない。それでも小柄な祖母がこの後5人も子どもを産み続けたことは驚愕でしかない。両親世代の中国人なら皆共通で、顔を合わせればいつもこの話題になるのだけれど、当時はとにもかくにも、ひもじかったらしい。肉も野菜も穀物も手に入らず、豚の脂身を油で炒め、醤油で絡めたものをご飯に乗せたのがご馳走だったそうだ。父親が軍人で比較的優遇されていた母一家と違い、父の父親(私の祖父)は郵便局員であった。米すら手に入らず、成長期真っ只中の中学時代、学校に持っていく弁当には来る日も来る日も、家で植えて採れたそら豆がパンパンに入っており、空腹は誤魔化せたが毎日屁が止まらず困ったそうだ。そんな父は今でもそら豆が好きであるし、公共の場で屁をこくことにも抵抗がない。

そのように、ただでさえギリギリの生活をしていた、父の中学時代に祖父は亡くなった。死因は盲腸である。腹痛を訴えて病院に行ったら、大して調べもせずに食あたりだと家に返され、再び駆け込んだ時には手遅れであったそうだ。食べ盛りの子どもを6人抱え、食糧不足にあえぐなか、ある日突然シングルマザーになってしまった祖母の絶望は想像を絶する。父一家がそれからどうやって経済的に生き延びたのか、私は聞いたことがない。でも生活面では、長男だった父と年子の長女が、幼い兄妹達の面倒をみるようになったのだそうだ。勉強ができた父は、兄妹達に勉強を教えた。特に一番下の妹には手をかけたようで、彼女はその後ニューヨークに留学し定住したが、今でも頻繁にやりとりをしている。それだからか、父は兄妹達に対して時に君主のように振る舞うし、兄妹達は父に逆らえないところがある、と私には見受けられる。

父は勉強ができ、プライドが高く、そして家系的にも実は良家であったらしい。私が中学2年生になる頃、文革から逃れるようにして香港に亡命していたという、父の叔父から連絡があった。

「これから話すことをあまり人に言ってはいけないよ」

その日父は私を座らせ、今までになく真面目な顔をして切り出した。香港の大叔父が家族の系譜を調査し、伝えた話によると、曾祖父は弁護士だったのだが、それから遡ること数代前の先祖は科挙を通過し、官職をのぼり、なんと皇帝の家庭教師をしていたとのことである。「なんだ、家庭教師〜?」週一でやってくる大学生アルバイトの家庭教師の顔を思い出しながら、私が不遜な反応を示すと父は、バカ娘の言葉を遮り、『中華皇帝の家庭教師』というものが如何なる影響力を持つものかをトクトクと語った。我らは貴族のだったのだと。確かに一族の武勇伝というか、賢しい対応として伝わる話に、軍が領主や地主から財産領土を没収する際、皆逆らったがゆえに暴行を受けたり、全てを失い、命からがらの中、曾祖父は相手が来るより先に自主的に財産を整理し、領地を明け渡し、暴力から一族を護ったいうのである。真偽の程は定かでないが、明け渡した領地は広大であったそうだ。自意識ばかりで、何者でもない、自信も取り柄もないバカ娘は、数週間ほど自分が没落貴族の末裔であるみたいな少女漫画的ストーリーラインにうっとりしていたが、そのうち自分の生活に直接関係がある話でもなし、どうでも良くなっていった。

さて学業に秀でた父であるが、1968年、交通大学に入学したタイミングで、都市での就職難と学生運動激化への対応として『上山下郷運動』が発令された。それは都市部の教養ある若者達を、再教育するという名目で強制的に貧しい農村へ派遣する政策である。細かい説明は省くけれど、リンクで貼ったWikipediaに詳しい記事があるので興味があったら読んでみてくださいね。大学の門戸は閉じられ、父は上海から2,300キロ離れた雲南省へと派遣され、そこに10年留まり、20代の全てを過ごした。今でこそ「10年で終わった」とわかるが、渦中にいた頃は永住が前提であり、いつ終わりが来るともわからない、死ぬまでそこにいるかもしれないのである。未来を奪われて、どんな心理状況だったのかと聞いてみると、どんなもそんなもないから、現地の農民に入り混じってタバコをふかし、農業従事のかたわら若者達とバスケのチームを作って遊び、勉強が得意だったから、先生として中学校で数学を教えたそうだ。都会での困窮極まる生活を経ての農村送りだったせいか、あまり悲惨な印象は受けない。今だから言えるのかもしれないが、どんな経験からも学ぶことはあるし、万事表裏一体、人生どんなことがあってもなんとかなるもんだと、達観していたような口ぶりである。

文字通り失われた10年を父が本当はどのように思って過ごしたかは、私には計り知れないが、それでもこの失策はやっと終わりを迎え、若者達は帰郷を許された。30歳になった父は通うはずだった交通大学に再入学し、自分より10も若い学生達に混じって授業を受けた。おととし、私は30半ばになってようやく決意し、数ヶ月に渡って教習所に通い、大学生たちに混じって交通講習を受け、免許を取得したのだが、そこで若者の友人なぞできるはずもなく、ただ自分の加齢を意識しただけだった。そんな私と違い、父は大学で出逢った歳若き友人たちと、幼い頃私が親戚の叔父さんだと勘違いするほどの密接な繋がりを育み、彼らの兄弟を差し置いて、息子や娘の後見人まで買って出たりしている。特に数年でも農村送りにあった仲間達とは深いブラザーフッドが築かれた。そうやって幼い頃からずうっとどこへ行っても、年長者である癖がついたからか、父は自分は人に何かを教える立場にある者だと捉えている。そしてそう捉えた人たちに対してどこまでも偉そうだ。そうやって踏ん反り返っている割に、与えたものを拒否されたり、自分から何も欲しがらない、服従しない人たちに対してはどう接していいかわからず、時にうそぶいてへり下ったり、プリプリ怒ったりしている。







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