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定例会という日常がプロジェクトをつくる

メンバーの聖子です。学びのシェア会では、2018年1月から2〜3ヵ月に一度、定例のシェア会をひらいています。(詳しくはこちらの記事をどうぞ)

先日に第9回をひらき、さっそく発表者の3名がブログに記事を書きました。
「体験を最終的に"書く"に落とす」ことに意欲が高い面々^^


開催して1週間以内に、これらの記事があがってきたのを見て、わたしが思ったことが2つあります。


1つめは、
この学びのシェア会では、「こうしたほうがいいな」と思うことを各自の判断で、いい意味で「勝手にやり出す」というコンビネーションの心地良さや小気味良さがあります。
「やるなぁ!」「このメンバー最高!」と思わずニヤリとしてしまうことが多々。
もちろん、「これは相談したほうがいいかな」と思うことは、率直に出し合い、意見を求めます。
そこで起こっていることは、空気を読むとか人付き合いのリテラシーというよりも、信頼や、能力の発揮をお互いに愛していること、という表現が近い。


2つめは、
出版プロジェクトのように、もう一段階上のことがやれるのは、その場(ここではコミュニティ)の日常があるからなのだな、ということ。

この仲間と一緒なら、もっとできそう、もっと願えそう、もっと動けそう。
価値を共有し、挑戦を応援しあい、学びと気づきを喜び合い、想定外の事態への対応をみんなで受け止め、一人ひとりの参加と貢献を必要としてきた関係。

どんなに仲がよくても、「プロジェクト」という場を立ち上げ、営むためには、このつながりと信頼の手応えのある「日常」があってこそだったのだなぁと、当日の場にいて、後日ブログを読んで今、考えています。

あるいは、プロジェクトが立ち上がったことによって、今まで非日常だった「定例会」が日常化した、ということも起こっているかもしれない。日常化するというのは、ケアが不要になるということではなく、これまでとはまた違ったケアやメンテナンスが必要になってきた、より大切な存在になってきた、ということでもあります。


もう一段階上のことをやろうとして、揺るぎないと確信していた「日常」の場が、実はそうではなかったと判明することもあります。それに挑戦するために必要な、時間、思い、関心の深さや温度や範囲が、共有できていなかったことが露呈する。隠していた気持ちが出てきたりもする。

そのときに、今あるわたしたちの関係の中でできる新しい何かを模索しながらつくっていくのか、日常の場を耕し直すのか。
あるいは、勇気を持って「袂を分かつ」という決断もあるかもしれません。


ここまで書いて気づきましたが、この「学びのシェア会」の営み自体が、わたしにとっては「手渡したい智慧」なのだな。

わたしだけでなく、きっとメンバーみんなにとってもそうだろうと、確信しています。また気づいたことを綴っていきたいと思います。(舟之川聖子



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