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お茶はどこから来て戦国武将のエナジードリンクになったのか

丸七製茶営業の斉藤です。お酒と音楽とサッカーが大好きです。
主に生協さんを担当しております。
生協さんは、私ども生産者と組合員さんとの交流が盛んで、しばしばお茶の学習会を開催し、お茶の淹れ方から歴史、さまざまな種類、含まれる各種成分と人間の体に及ぼす効果、保存方法等々のウンチクなどをご紹介しております。
会に参加いただかないとお話しできないことがほとんどですが、その中から少しだけご紹介。今回はお茶の歴史です。
何事も諸説ありますので、その一つとして聞いてくださいね。

ところで

お茶を「一服」とよく言います。タバコみたいですが、なんでかわかりますか?
お茶のルーツは大変古く、中国の神話の時代に遡るといわれます。その頃は薬、解毒剤として用いられていました。今から1200年ほど前に日本に伝えられた時も、お茶は飲み物としてではなく薬として輸入されていました。「お茶を一服」という言葉は、これに由来するそうです。
茶道ではお茶を一服、二服、さらに、お茶の濃さや練加減を表す「お服加減」という言葉も使われていますよ。

お茶の発見

はるか5000年前の紀元前2800年ころの中国で、今日の農業と漢方薬の基礎を築いたとされる神農炎帝(しんのうえんてい)が生まれました。
彼は自らの身体を使って身近な草木の薬効を調べていたため、1日に72もの毒に当たり、そのたびにお茶の葉を噛んで解毒したと伝えられています。

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神農さま、ちょっと怖そうな顔。

唐の時代の760年、陸羽によって著された世界最古のお茶の専門書『茶経』には、「茶の飲たるは神農氏に発す」(お茶を飲み始めたのは神農氏からである)という記述があり、お茶は神農によって発見されたと考えるのが定説となりました。
また、『茶経』にはお茶の歴史や製造方法、産地、茶道具、飲み方などが詳しく記され、このころ既に中国でお茶は広まり、定着していたことがうかがわれます。

中国から日本への伝来

日本のお茶の始まりは平安時代の805年、遣唐使の最澄(さいちょう)が唐より持ち帰った茶の実を、現在の滋賀県大津市の日吉大社に植えたことから始まります。
そして翌年、同じく遣唐使の空海が茶の種と石臼を将来しました。最澄宛てに弟子が書いた手紙には「お茶を10袋もいただき、ありがとうございます」と書かれ、また、空海は、「お茶を飲みながら中国の書物を見ることにしている」などの文章を残しています。
当初、お茶は大変な貴重品で、僧侶や貴族階級などの限られた人しか口にすることはできませんでした。

ちなみに私は会社の先輩から「日本の茶のさいちょは最澄(さいちょう)」と習いました。

図2
日本で最初の茶畑です。
図3
もはやゴワゴワな葉っぱ
図4
日本で一番最初の茶園の説明です
図5
この人たちのおかげで今の私がいます

お茶が庶民の味になるまで

普及したのは、鎌倉時代に入ってからです。臨済宗の開祖・栄西が宋に二度渡り、帰国の際にお茶を持ち帰ったのがきっかけです。
栄西はその種子を各地に蒔いて日本にお茶を広め、さらにその後、お茶が健康によいという内容の『喫茶養生記』を著しました。当時のお茶は抹茶に近く、茶せんで泡立てて飲んでいたようです。

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これは静岡の抹茶です

国内での生産量が増加するにつれて、茶は嗜好品として広まっていき、複数の人で楽しむ「茶寄合(ちゃよりあい)」や、茶の産地を喫みわける賭け事の「闘茶(とうちゃ)」が流行します。
やがて室町時代、8代将軍足利義政の時代に登場する村田珠光(じゅこう)によって、「草庵茶の湯」が考案され、四畳半茶室が創られるなど、精神的な茶の世界が生み出されるに至ります。
この精神を受け継いだのが武野紹鴎(たけのじょうおう)であり、さらに草庵茶の湯を「わび茶」として大成したのが千利休でした。
利休が天下人・信長、秀吉の茶頭(さどう)を務めたことはよく知られています。

千利休
牛たんのお店とは関係ないそうです

江戸時代に煎茶が出回ると、庶民の口にも入るようになりました。
煎茶の祖と呼ばれる永谷宗円が1738年に生み出した『永谷式煎茶』は、それまでの中国式製法のお茶にはなかった鮮やかな色と甘味、香りで江戸市民を驚嘆させたといいます。
この製法は別名「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。
ちなみに「お茶漬け海苔」でおなじみの「永谷園」は、実は宗円の子孫である永谷嘉男(ながたによしお)が創業した会社です。嘉男は永谷家の10代目にあたります。

浅蒸し茶
深蒸しではない普通煎茶。香りがよいです。
朝の富士山とお茶畑 静岡島田より

世界に進出する日本のお茶

1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、翌1859年、横浜、長崎、函館の開港を機に、日本茶181トンを輸出します。明治維新後も輸出量は増加し、日本茶は1887年まで輸出額の15~20%を占める花形でした。
輸出用の茶箱には木版多色刷りの華やかなラベルが貼られ、このラベルは中国の茶商の業界用語で『蘭字』と呼ばれました。蘭字の制作には浮世絵師や彫師、摺師らが携わり、そのデザインの斬新さと緻密な彫りの技術は外国人の注目を集めたそうです。

蘭字1
RANJI
蘭字2
FUJIYAMA!
蘭字3
いまだに日本の女性の髪形がこんなだと思われていたり、、

そして現在、和食人気と健康志向の高まりにより、日本茶が世界的なブームとなっています。輸出量はこの10年間で約3倍に増加し、令和元年には過去最高5,108トンもの日本茶が海を渡っていきました。
※以上、公益社団法人日本茶業中央会資料より抜粋

戦国武将とお茶の話


いかがでしたか。お茶が中国から伝わっておよそ1200年もの歴史があるわけですが、ちなみに日本でのお茶文化が栄える大きなきっかけが、武家社会における「茶の湯」の広がりにあります。
あの織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など戦国時代における名だたる戦国武将たちが、なぜここまで茶の湯を愛したのか。そこには3つの要素があると私は考えます。

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滋賀県長浜駅前の二人

1つ目は武家社会の中では茶の湯が共通の「一般教養」であり、「ステータスシンボル」だったということです。
茶の湯の作法に通じ、茶道具の目利きができることは、富と権力を持つ一流の武人である証でした。
茶室での語らいが、戦略や政策に直結することもあったでしょうか。

2つ目は、いつ自分の命が尽きるとも分からない毎日を過ごした彼らにとって、刀を持つことが厳禁とされた茶室は、唯一の心安らげる場所であったということです。
現代の私たちも、仕事中や気分転換したい時にお茶を頂くことがありますが、常に神経を張りつめ、極度の緊張状態で生きていた戦国武将たちが、どれほど切実に「気分転換」を必要としたか、おそらく現代人の比ではなかったでしょうね。茶室で静かに一服点てることが、自分自身の心と向き合う貴重なひとときだったことは容易に想像できます。

そして3つ目に、栄西が「茶は養生の仙薬なり」と記した通り、抹茶がカテキンや各種ビタミン等々さまざまな栄養素を含む、最高の健康食品であるということ。抹茶を喫することは、例えるならサプリメントと栄養ドリンクを一緒に摂取しているようなもの。戦いの前に一服飲み干せば、疲れが吹き飛び、戦いに向かう気力も湧いてきたのかも知れません。

武将たちが愛した一杯を思い描きながらゆっくりお茶を頂けば、いつもとは少し違った味わいに感じられるかもしれません。

お・わ・り

※最後までお読みいただきありがとうございます!
冒頭に申し上げた通り、何事も諸説ある中の一つということでご理解ください。
それでは!!


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