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【自己開示】本当の私と私の過去、ぜんぶ晒します

こんにちは!MARIです。

はじめましての人も、以前から知っていただいている方も、改めて私のことを知って欲しくてぜんぶ包み隠さず公開します。

インスタグラムで見る私はやりたいことをしていて、自由で行動力もあって。もしかしたら"とても強い女性"として映っているかもしれません。

でも本当の私は、家族にも言えない悩みをずっと抱えて生きていたし、ひとりぼっちでボロボロのメンタルで、助けを求める力もなくて、弱さを吐き出す場所もなくて、ずっとずっと死にたくてたまらなかった。生きる意味がわからないまま大人になりました。

そんな私が大きな愛と安心感に包まれながら今年で30歳をむかえようとしているのは、自分ととことん向き合って、自分を理解して、自分を癒すことを覚えられたからです。

長くなりますが、私のヒストリーを見て『もう少しだけ生きてみようかな』って思ってくれる人がひとりでもいたら嬉しいです。



■0歳〜幼少期/親の機嫌をとる幼少期

父はサラリーマン、母は専業主婦の家庭に三姉妹の真ん中として生まれました。
家族構成は【父、母、姉、妹、父側の祖父、祖母】愛知県の田舎に住んでいました。

祖母が亡くなったぐらいから父母の喧嘩が増えました。それをみて、子どもながらに親の機嫌を取る行動を無意識にするように。この頃の私の願いは『ただ両親に仲良くいてほしかった』『喧嘩をする姿を見たくなかった』です。

■小学生/性同一性障害と悪夢

一匹狼タイプで群れるのは苦手。自分はコミュ障だと自覚しました。

女の子として扱われることや、男女の区別にも疑問を持つように。スカートを履くことにもなんだか抵抗があって、小学校低学年の頃は特にボーイッシュな服装を好んでいました。性同一性障害なのではと一人で悩み、当時はこのジャンルについてかなり検索していました。おかげでLGBTQのお友達も多く、理解はある方だと思います。

そして、父親への苦手意識がとても強く、"父親を殺す夢"を何度も見るようになりました。『私は変かも?』と思いながらも誰にも言えず、悩みを自分で抱え込む癖がついていきました。

■中学生/反抗期と自殺願望

優等生の部類ではなかったです。大人になった今ならわかることだけれど反抗とは親の愛情を確認するための行動だから、当時の私は愛に飢えていたんだと思います。『自分は理解されないんだ』と心を閉ざして家族を全面的に拒絶するようになりました。

学校であったこと友達のことなど、家の外で起きたことは一切家族には話さないと決めました。家にいる時はできるだけ自分の部屋で一人で過ごすようにしていました。

未来に希望もなくて、大人に憧れることができず、親を信じることもできず、大人になる前に死にたいと思うようになりました。

■高校時代/自己破産・親の自殺未遂

バイトを始めて『自分でお金を稼ぐ』を体験。
当時はEXILEにハマって追っかけをしていました。友達と学校をサボってライブや出待ちをしたことも。ライブチケットやレアグッズをオークションで売って副収入もつくっていました。行動力はここで身につけました。全国どこでも自分達で行き、ファンの人たちと繋がりを作り、大人とも遊ぶようになりました。追っかけが生き甲斐でした。

そして高一の時にはすでに高校卒業と同時に家を出ると自分の中で決めていて、親から自立したい気持ちが強かったのでこの頃から携帯代も自分で払うように。『親に頼らず生きる』を1日でも早く実現させたかったのです。

なぜそうしてたかというと、自分の家庭にお金がないことに気づいていたから。高3の頃には親の借金は膨らみ、限界を感じた父親は自殺を試みました。結局、未遂だったけれど、この時に確実に心に深い深い傷を負いました。高校を中退するべきかも悩んだし、無力で子どもな自分を嫌になったし、親のことも責めました。その後、自己破産の手続きをして実家は売却。私は家族をさらに拒絶するようになって、家族から距離を取れる方法はないかと、ひとりで地元を離れて大阪の専門学校へ行くことを決めました。

人生は不平等で、諦めモード。18歳ですでに生きることに疲れていたし、その時みえていた未来は真っ暗でした。

■専門学生時代/自力で生きることを覚えた

地元の愛知県をでて、大阪で初めての一人暮らし。奨学金を満額借りて専門学校に進みました。専攻は特殊メイク学科。かなり珍しい学科だと思います。この頃から"人と違うことがしたい"と心のどこかで考えていました。

一人暮らしで、学費もかかれば、専門学校では材料費が別で必要にもなるんですよね。しかも特殊メイク学科なので海外から特殊な材料を取り寄せたりもします。だからお金を稼げる効率のいいバイトを求めてラウンジやキャバクラで働きながら学校に通っていました。

その時に夜の世界で出会った大人は自由で楽しそうに遊んでいる人も多くて、『自分がイメージしていた大人とは違う』と思うように。自分の力で道を切り開くことを覚えたし、たくさんの大人や経営者とも出会って自分の中の常識がどんどん書き変わっていきました。自分が知らなかった世界を教えてもらいました。

この頃、出会った人がが副業で投資をしていて、チャートの見方や、為替取引のやり方を遊び半分で教えてもらいました。このとき初めて投資の世界に触れました。

■20歳/フリーランスとして生きる

専門学生の2年生になりいよいよ就活という時に転機が訪れました。東京のとある会社の見学中に『働きたい会社がぶっちゃけ見つからない』とそこの社長に直接言いました。今思えば会社の見学中にとんでもなく失礼だったと思います。

そんな私に社長は『わかるよ、だから俺は自分でやるって決めたの。行きたい会社がないなら自分で作ればいい』と笑いながら言ってくれたこの言葉を聞いて大阪の学校に戻り『就活やめた!私フリーランスになる!』って学校に宣言しました。この時の社長さんは私のことなんて覚えていないだろうけれど、私にとっては人生の方向性を大きく変えてくれたキーマンです。

フリーランスになると決めてから、とにかくたくさんの大人に会うようにしました。ただの専門学生だったので、もちろん人脈なんて皆無。とにかく仕事をくれる人と繋がるためにFacebookやTwitterでSNS発信を始めました。学校でやっていること、自分ができること、これからやりたいことをとにかくアピールしまくった。『無料でもいいからやらせてください』でとにかく実績を作り、経験を詰んだ。フリーランスとしての仕事を少しづつ獲得できるようになりました。

■21〜22歳/父親の死

大腸癌で入退院を繰り返していた父は余命宣告を受け、亡くなりました。『父は、後悔の多い人生だったのではないか?』と生き方について真剣に考えるように。『死に様=生き様』とよくいうけれど父の葬儀に参列する人を見て、それを肌感で理解した。

この頃ネットワークビジネスに出会い、世の中の仕組み、マーケティング、お金について学ぶことになりました。否定的な意見をもつ人も多いけれど、私は知識として得たものがかなり多かった。今でも数社からお気に入りの製品は愛用してます。

そして21歳の頃、初めて海外に行くことになり、カルチャーショックを受けました。日本の常識が通じない場所にはもっと自由でクリエイティブな世界があると知った。その後はヒッチハイクをしてみたり、バックパッカーに憧れてリュック一つで旅をしてみたり。とにかく自分がまだ知らない世界を見ることにワクワクしていいました。

この頃、引き寄せの法則についても学び始めました。友達から『ザ・シークレット』を教えてもらったりしてスピリチュアルにも興味を持った。自分でもシンクロニシティやデジャブ、引き寄せを次々と体験。もともと感じる力は強く、勘があたる方ではあったけれどその正体がなんなのかをすこしだけ理解できるようになっていきました。

■23歳/心の限界値を知る

キャバクラをしながら昼間はフリーランスとしても活動。仕事のしすぎ、人間関係のストレスなど、体力的にも精神的にもキャパを超えていた。顔面神経麻痺になり、『もし、明日体が動かなくなったら…』と自分の人生をどう生きるかをもう一度考えるきっかけに。心には限界値があることを知った。

そして、母親は脳出血でICUに救急搬送。夜中の病院で『最悪の場合は延命処置の判断もしてもらいます』と言われた。その後回復したけれど、この瞬間は父親に続いて母親も死ぬのかと思いました。

人生とは?生きるとは?について深く考えさせられた時期でした。

🔻このとき学んだことについてはこちら

■24~25歳/上京・ミスコン業界へ

上京することを決意。上京の動機は『東京にはチャンスがありそう』『今行かなかったら一生上京しなさそう』でした。

六本木のキャバクラに所属し、港区のデザイナーズマンションを借りました。家賃は14万円の1K。東京の物価に震えたけれど、六本木のお金の動きにはもっと震えた。お金を手にしてわかったのは、いいマンションに住むこと、高級ブランドを纏うこと、物やお金をたくさん所有する物質的な豊かさは自分の幸せには直結しないということ。そして、キャバクラで働く意味と自分が社会の役に立っている証拠を見出したくて、寄付をするようになりました。

インスタで『ミスコンに出ませんか?』とDMで誘われたことをきっかけに、とにかくチャンスを求めていた私は、海外に行ける可能性があるならとミスコン業界に飛び込みました。自分と向き合うこと、自己分析することを学んだ。自分が想像していたものよりも、ミスコンはずっとずっと奥深い業界だった。そして自分の体験、経験が時に他の誰かの心を支えられるということを知りました。

■26歳/東京で掴んだチャンス・HSP

いくつかの店舗を経てキャバクラでno.1を達成して夜の世界を引退。その後は再びSNSを駆使してヘアメイク業界へ。○万人規模の大きなイベント会場、TV局、撮影スタジオに出入りする日々。自分の担当した映像や写真がメディアに流れる不思議な感覚。やっぱり東京にはチャンスがあったなと感じました。

この頃『繊細さん』の本に出会い、自分がHSPであることを自覚。生きづらいと感じている人は自分の他にもいるんだとわかり大きな安心感に包まれました。この時から"心"について積極的に学ぶようになりました。

🔻キャバクラ時代の話はこちら

■27〜28歳/結婚

同棲していた彼に喧嘩の末『結婚するか別れるか』と迫って結婚することに。今思えばここがこじらせの大元だった。自分の気持ちよりも、世間の"そろそろ結婚する年代”みたいなものに流されて焦っていたんだと思います。

■29歳/離婚して人生激変

勢いで結婚した私たちは”大事にしたいもの”が段々とずれていきました。旦那との信頼関係は崩壊し、離婚を決意。これを機に『人に合わせる生き方はやめたい』と強く思うようになりました。

HSPが故に、人の感情を取り込みやすく、自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先する生き方をしていたことに気付かされました。そして、その生き方は誰も幸せにしないことも知った。

すべてを変えたくて、ヘアメイクの仕事を手放し、結婚生活も手放し、関東での生活も手放して福岡へ一人で引っ越し。もともと興味のあった心理学・脳科学・量子力学の分野から自分との向き合い方を論理的に習得してライフコンサルを確立。世界の仕組みを学び、思い通りの人生を生きる人を増やすためのサポートを始めました。


■現在

長い長い自己紹介をここまで読んでいただきほんとうにありがとうございました。

今は受動的な労働から卒業し『収入のあるニート』をしながら、人生丸ごとアップデートをコンセプトに日々の気づきや学びをnoteやインスタグラムで発信しています。

というのも、どこまでも社会不適合で、いわゆる普通の生き方はできなくて、普通になろうとすればするほど邪魔が入って。普通に生きられない私でもいいじゃん!って自分を否定することをやめてみたら全てがうまく進むようになりました。

宇宙は『あなたの進む方向はこっちじゃないよ』ってずっとサインを送っていてくれていたんだなぁと、過去の出来事にも今は愛を感じています。学びの多い人生だなぁと抱きしめています。

もう私は働かない。とセミリタイアを決めてから、引越し先の家の契約も過去いちばんスムーズに進んだし、不思議なことにお金にも困らなくなって。死にたい!見たくない!と不安でたまらなかったはずの未来は楽しみで仕方ないものに変わった。安心感に包まれて『豊かだなぁ』と思いながら眠りにつく毎日が最高に幸せです!

別れた旦那とはいまも仲良しで【離婚=不幸】ではないし【離婚=絶縁】でもない。愛の形も、家族の形もそれぞれでいいんだということも知りました。

私を癒すことができるのは、お父さんでもお母さんでも恋人でもなく、私自身だけだったと気づくのに29年かかりました。本当の意味で自分を幸せにできるのは自分だけ。

それを理解して、自分と向き合い続けた結果、ずっと膝を抱えて俯いていた私のインナーチャイルドさんは、だらだらと寝そべり、くつろいでくれるようになりました。時には手を繋いでスキップをして一緒に旅に出かけますし、自分と一番の親友になれたんです。

外側に、愛や安心感を求めても満たされることはなく、むしろ心はすり減っていくだけなんですよね。

私の体験が誰かの光になれば嬉しいです。
”生きやすい”と思うひとが増えますよに。


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