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ヴィパッサナー瞑想Day4.5.6の記録

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Day4からDay6にかけて集中した瞑想をし続けた。
そして、五日目のお昼から呼吸瞑想(アナパナ)から体全身の感覚を客観的に観察し続ける瞑想(ヴィパッサナー)に変わる日でもあった。
その技を乞うためにパーリ語で私を含む参加している生徒たちが、その技術を求めると唱えた。
その言葉を唱えている間に私の頭の中で変化し続ける門がまるで稲荷神社の数え切れないほど立ち並ぶ鳥居のように開いてはまた新しい門が現れてくる映像が飛び込んできた。
私の意識がどこかへ進んでいくような感覚である。まるで何かそれなりに画質の高いテレビゲームをしていて、次のステージへ行く時にワープしているような感じに捉えた。
そして音声録音されたゴエンカ氏の手解きの元、感覚を観察する瞑想に入った。
その頃には不思議と初めに感じていた太ももと腰回りの痛みはだいぶ弱まっており、集中して体のパーツごとの感覚を観察することができ始めたが、たまに大きな感情が湧き上がり、体がビクッと反応することもあったが、あまり心は乱されなくなった。
頭上から直径10cmくらいのサイズで体の部分部分を観察していく作業を始めていくこととなった。私は8年前に経験しているのでどのようにするかはすでにわかっていたが、この感覚を観察するツールに気づくのに初めは時間がかかることもわかっていた。

呼吸瞑想はこの感覚を研ぎ澄ませるのが一番の目的なので、始めの4日間は呼吸瞑想のみをするようにプログラムされているのである。

この観察瞑想を頭かわ足のつま先まで聴診器を当てるような感じで精神を動かしてゆき、つま先までいくとまた頭上まで上がっていく。
感覚が感じやすいところと何も感じないところ、違う感覚がするところなど、続けていくと常に新しい発見があることがわかる。
感覚を感じないところや、感覚の鈍いところでは精神をそこでとどめておよそ数分忍耐強く観察する。そこで運よく何か感覚が得られれば次に進めるし、感覚がなくてのにこやかとその部位を観察したのち、その場を離れる。


気持ちい感覚や、痛い感覚、痒い感覚、温かい、冷たい感覚、あっぱかうされるようなひっぱられているような、突っ張るような感覚など、言葉では表現し切れないほどの感覚を経験し続けることになるが、そこに感情的に反応せず、客観的に平静に観察し続けるのである。それがヴィパッサナー瞑想。



そして集中力と感覚を感じるセンスが鋭敏になってゆき、それに対応するかのように数え切れないほどの動と静のイメージが私の頭にに飛び込んできた。もう邪魔をするためにというよりも、この瞑想をより楽しいものにするためにあるBGMのような感じで現れ続けた。 
ふと、古い日本の着物をきた女の子や大人たち、各仕事で着る昔ながらの服装で奥から私の意識の左端へと一列になって歩いてくるイメージも見えた。いろいろと日本の祭りの風景や、なんとも懐かしい湿気を感じる緑の自然の風景など、雅楽の音、そして繊細でかつどこまでも慎重な人間性、一歩間違えると死を意味する緊張した人との関係性などが現れては消えを繰り返した。

ブッタの銅像や金の像や光っている像などのイメージも数え切れないほど私の目に飛び込んできて、昼の休憩の際にベットの中でお昼寝をして目を閉じた時に穴の空いた壁のイメージが見えて、そこの穴からひょっこりと目をまんまると開けた小さな黄色い仏がニョッキリ出てきて私を見続けた。
まるで私を笑かすような感じで出てきた。 仏さんもなかなか笑いのセンスがあるのかもしれない。私は危うくもう一度、寝ている時に笑いが漏れるところであった。とりあえず心の中で

「何やっとんねん!」
と、ツッ込んでおくことにした。

そしてDay6に入り、今まで収まっていた腰回りの痛みが場所を変えて現れた。左足の付け根に太い針で刺されたような強い痛みも感じるようになり、脂汗が滲み出るように痛みに耐えながらあまり動かず、感情を押し殺さず、できるだけその痛みも客観的に観察するように試みてみた。
40分くらい耐えて少し体勢を変えたり、左右の足の組む順番を変えたり、いろいろ工夫し、強い痛みが左から右へ、右から左へと変わり続けた。
そして昼過ぎになり、何をしても痛くてじっとできなくなってしまったのでどうしたものかと考えたのち、覚悟を決めて最も難しい痛みを伴う坐禅(結跏趺坐)をすることに決起した。


心に、この1時間だけはどんなに激痛が襲いかかってきても姿勢を崩さないと決めてかかると、一度だけ成功した。とんでもない激痛であったが、その時の私は意識が失いそうになったが、
これは必ず愛のため、平和のため、慈悲のため、苦を取り除くため、私の息子の幸せ、私の伴侶の幸せ、家族の、友達の、今まで記憶している限り覚えている人たちの幸せのためだと心の中で叫んでその姿勢を保ち続けた。

そして休憩のゴングがなると、ため息をして足をとき外出て歩くことにした。
思った以上に足や体のどの場所にもダメージは残っていなかった。
この時に私にとって瞑想とは格闘技のように決められた時間の中でいかに良いパフォーマンスができるか精神と肉体を試す競技だと定義した。

そして私は何にかはよくわからんが、勝った感じがした。

爽快な気分が私全体に流れてきて健やかな気分になった。
そしてちょっと余裕を感じたのと、いけ好かない感情もその後、意識に入ってきた。
「俺は結跏趺坐で1時間耐えたぜ!周りの人たちを見てみれば、皆よく動いている。痛みや不快感に耐えれないのだろう。椅子に座り続けてる人もいる。途中でホールから出ていく奴もいる。それに比べれ俺はマスターだ。このホールの全ての人たちよりもマスターだ。」

と傲慢な他の人を見下す感覚である。まあ、素直にその感情が芽生えたことも認めて観察することができたので、その感情も数時間私の意識にとどまっていたが、やがてどこかへ行ってしまった。

そしてまた瞑想の時間が来て座り始めると、今までになかった痛みが尾骶骨あたりからギンギンと強く現れ始めた。これは窮屈な姿勢からでもなく、慢性的な体の痛みでもなく、何か新しい痛みであった。
座ることで背骨から上の重みが全て尾骶骨あたりに乗っ架かかるからだろうか?
とりあえず背骨もくねくねと動かしながら痛みが和らぐポジションがないか探ってみた。そしてどう足掻いても痛みは消えないのでまた同じくできるだけ客観的に、平静な心でそれを観察することにした。

そして古い映画を見るように、和服をきた母親らしき女性が、自分の息子らしき2歳くらいの男の子を庇うように抱きしめながら、地面に蹲りながら見上げるように命乞いをしている姿である。
誰にしているのかははっきりとはわからなかったが、外であること、ものすごく一触即発で、今にもそのものたちの命が奪われそうな緊迫感を感じたので、ものすごく怒っている父か夫なのか、どこかの偉いお侍さんなのではないかと推測する。

そこでハッと、なぜ私は小さい時から誰かに守られた環境で何かをして達成することに根本的に不快感と嫌悪感を感じ続けていたのか直感で分かった。
何かで上手にこなし、褒められ、徐々にいろんな人からサポートされ、期待されてくると私はいつもそれをやめて立ち去り続けてきたのである。
今まで関西で生まれ育ってから日本中を移住し続けてきたが、合計10回以上してきたと記憶する。その理由としては特に何か嫌な事が怒ったわけではなく、この根本的に守られた環境ですくすくうまくやっていくことに理由もわからず耐えられなかったからである。

私の両親もなぜ私がすぐ辞めるのか、良好な人間関係が築かれるとすぐに断つのか理解に苦しんでいたことも思い出した。

私の得たそのビジョンからの少年の解釈は、

  • その少年の自分では自分が守れないか弱さ

  • 母も弱いながらに誰かに命乞いしてこの自分の命を長らえさせることができるという惨めさ

  • 強ければ命の決定権を握る事ができる

  • 自分の人生で惨めさを払拭させるためには守られる側にいてはいけない

  • 守られた中で成長し、満足していると、その外に出ることはできなく、その外には守り切れないほどの大きな力が存在することも確信している


そしてこのビジョンの背景は、そうやって生き長らえてきた私の祖先が命を繋げ続けて今の私の体があるのだろうということである。その強い生存保存の思いは受け継がれ続け、思い返してみれば私のお爺さんも頑なに一軒家で一人で生きることを続け、ほぼ誰とも関わらなかったり、私の母も常に周りの人との関係性は長く良好に保ことはなく孤独の中、ほぼ一人で一軒家に住んでいる状態である。私の兄も今は自分の家族と離れて一人で暮らしているようである。

これは生きていく知恵として我々は受け継いできたのだろう。私のお爺さんはすでに亡くなったが96歳という長寿をまっとうした。その私の家族もその決断の結果、特に健康を害しているわけでもなく、成人しているところを観察すると、先祖からの贈り物だと解釈することもできるだろう。

だが、精神世界の深さを知ってしまうと、その預かり物を抱えて喜んで生きるだけでは満足できなくなるのである。人は欲深い生き物だからである。特に私は世界中でもTOPをはれるほど欲の深さには自信がある。

そして、その尾骶骨の痛みをその理解とともに観察し続けると、自然と感覚の形を変え、その後、すっかりなくなってしまった。

これから私は孤独へと導く磁石を外し、この人生で培った野望に近づくための道標と磁石を新たに創り出すこととする。



そう振り切ってその少年をまた見てみると、その意思によって生まれる自己嫌悪も摘出する事ができた。つまり、いつまで経っても今の自分では満足できないという思考もともについてくるという事である。

  • 何か特別な力がなくてはならない

  • 特別な技術がなくてはならない

  • まだ準備が必要だ

  • もっと他のことを知ってからでなければ行動すべきではない

  • 私は注目される存在になってはいけない

  • 何か人のためになることをして感謝され、近づいてこられ、自分の助けになろうとしてきたらそれも守られることになるので引き離さなければならない

  • 誰かが自分の業績や能力に憧れ、真似をしようとしたら止めさせなければならない。なぜなら、真似をするために私に近づき続け、一人が近づくとまた一人と増えてゆき、大きなグループになるとそれが私を守る役割になるからである。

そしてなぜ私が今まで移住を繰り返してきたのか心の奥底で納得した。刺青が性に合っていたのも、格闘技という方法で人と関わるのが安心するのも、一人が好きなのも、瞑想を一人ですることに向いているのも、周りの人々が私のことをどう思っていようが気にならないのも全てに合点がいった。

そして40歳をすぎて今になってその道を脱し、自分の行きたい方向に歩き始めることがやっとできたのである。

高校生の時の学校で旧友に助けを求められた時、多くのギャングに絡まれてなんとか交渉しなければならないとのことで誰か一緒に来て欲しいとのことだったのだが、私がいくことになんの問題はなかったが、他の友達など多くの人たちが聞いてる中でのことだったので、もし私が一緒に行くことを決めて問題を解決すると他の人から憧れられると感じ、引き受けないことにした。

重度の障害者を抱えるセンターで働いていた時に、私が企画して障害を持つほぼ全ての参加者みんなが絵を描けるような仕組みを編み出し、実行し、みんなが喜んでいるのを確認した後、その仕事場から離れたくなる強い願望に押されて数週間後にオーナーと揉めてからそこを離れた。

田舎に移住した際にも土砂災害で地元民が助けを必要としている時、救援隊を結成して流木などを片付けるプロジェクトを指導したが、ボランティアが増えてゆき、注目され始めると、その役割を他のものに移させて私はその場から退いた。

フランスで困難を乗り越え、ようやくスタジオでtattooを彫れる環境を手に一れて、仕事がふえ、大きな仕事もできるようになり、人々が私のことを知るようになってきた。一度、フランス警察官が店を訪れて大きな花を脇腹に入れて欲しいと頼まれ、懇親の思いでそれを仕上げてから翌日、五人くらいの同僚の警察官を引き連れて私に会いに来た。私は捕まるのかと内心思ったが、そうではなく彼らも胸一面や背中一面、腕一本など大きなサイズのtattooを私に彫って欲しいと依頼しに来た。そしていつもの感覚がよび戻され、何かと全てに強くあたるようになり、職場の同僚たちと争う事が多くなり、長いバケーションの後、仕事場に戻らず日本に帰ることにした。

沖縄の不平等な関係性に不正義を感じ、それを変えるために活動をすることに決めたが、沖縄人でオランダに来た女性に感動され、平和活動している人たちからサポートされ、ようやく米軍関係者と直接話をして、その人たちからのある程度の敬意や尊敬を感じると、注目されたくないような働きが私の内側から疼き出した。

そして功夫を修行し始めて数年が経ち、二度目の試合で私より大きな対戦相手をノックダウンして注目を浴びると、もう試合をしたくない感覚に陥った。

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