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五蘊~現実と呼んでいるもの~

仏教メモ。具体例から書きます。

売場でテディベアが落ちている。うちの商品ではない。誰かお子様の落とし物に違いないと思った私は、それを拾ってインフォメーションの窓口へ届けた。

↑ある日の出来事です。厳然たる事実。と、私は思っています。しかし仏教的に見ると「いろんな要素が集まって、そういうシーンに見えてるだけ」。いろんな要素が集まって、現実っぽい何かを、私たちは感じているそうです。

現実、人生、自分、が仮にあるとして、それらを構成する要素を、仏教では5つに分けて考えます。「言葉で分ける」というのも実は仮のことで、私たちが日常に即して理解しやすいよう、敢えてそうしている。
※要素たちは、本来は分けられるものではない

5つの要素・・・「五蘊」ごうんと読む。蘊は集積という意味。

蘊・・・物質的要素。肉体を含む。五感を通して感じる対象。
蘊・・・感受作用。苦、楽、快、不快、どちらでもないなど。
蘊・・・表象作用。イメージ。感じたものを言葉や、自分の枠組みに当てはめる。脳的機能。どんな文化で育ったかによる。
蘊・・・意志的作用。対象に〇〇したいなどの衝動。行動に繋がる。
蘊・・・感覚器官をよりどころにして起こる認識。「音だ」「匂いだ」「閃きだ」など。主観。五感+意識。

日常はこれらの要素が、お互いがお互いを成立させる形で、組み合わさってできているとされます。冒頭の出来事でいうと、何かふわふわしたもの()を見つけて「何かある」と思って()、快でも不快でもなく()テディベアだとわかって()、届けなきゃ()と走った。組み合わさった時に「私」という概念が生まれるけれど、組み合わせは刻一刻と変わる。仏教では、変化するものに実体はないと考えます。なのでこのシーンに「私」と呼べるものはありません。いやいや私が走ったし!と思うけれど、仏教的には「走りが起こった」と捉える。

般若心経に「五蘊皆空」という言葉があります。私たちをつくる色、受、想、行、識は、どれも独立しておらず、関わり合いながら現れたり消えたりしている。それを空(くう)、固定的で持続的なものは何一つないよ、と伝えているのがこの箇所だと言えます。




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