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私が躁うつとわかるまで

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私が躁うつとわかるまで⑦(終)〜療養への道〜

私が躁うつとわかるまで⑦(終)〜療養への道〜

前回はこちら↓

正しい診断がされ、正しい投薬が始まったとはいえ、状態は劇的には回復しませんでした。

母の献身的な助けによって会社に通うことができていたものの、家では何をする気も起こらず、ただただ絶望感を感じながら過ごしていました。

夜になると次の日も出勤しなければならないことに大きな恐怖を感じ、朝も絶望感を抱きながら出勤していました。

しかし会社に出勤してしまうと、私はちゃんとできていまし

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私が躁うつとわかるまで⑥ 〜診断編(後編)〜

私が躁うつとわかるまで⑥ 〜診断編(後編)〜

前回はこちら↓

初診から1ヶ月ほど経ち、私はSSRIを飲みながら、母と暮らし、なんとか毎日仕事へ行っていました。

処方前に比べたら、絶望感は小さくなったような気がしていました。

平日は普通に会社に行き、帰ってきて普通に母と会話しながら食事をとりました。

休日は外出する気は起きないけれど、海外ドラマを母と一緒に見て笑えていました。

ただ、漠然とした不安感を常に感じ、未来や将来に対して希望は

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私が躁うつとわかるまで⑤ 〜診断編(前編)〜

私が躁うつとわかるまで⑤ 〜診断編(前編)〜

前回までは↓

いくら心療内科の受診を決意したからとはいえ、実際に行動したのは全て母でした。

滋賀の田舎に住んでいたため、私の家から近い場所にはなく、車で1時間のところが一番最寄りの病院でした。

予約方法は1ヶ月先のある期間の予約を毎週火曜日に電話で受け付けるという方法でした。

電話予約開始の朝9時に、両親総出の端末でかけてみるも、どれかが繋がった頃には予約はすべて埋まってしまっていました。

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私が躁うつとわかるまで④ 〜最後のブレイクダウン編〜

私が躁うつとわかるまで④ 〜最後のブレイクダウン編〜

前回までは↓

「これは心療内科に行かないとまずいかもしれない」と2回思ったうちの2回目の話です。これが私の最後のブレイクダウンです(最後であって欲しい)。

転職先ではまずは会社の大黒柱であるカフェの営業を任されました。

自ら店頭に立ち接客しながらまずは業態を知り、同時に営業オペレーションの見直しやスタッフ管理、育成を行ないました。

一つ一つマニュアルを作りながら基盤を作っていくような途方も

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私が躁うつとわかるまで③〜躁状態完全フルパワー編〜

私が躁うつとわかるまで③〜躁状態完全フルパワー編〜

前回までは↓

ある朝起きると私は、突然希望に満ち溢れていました。

それは2020年5月、GW休暇の2日目か3日目でした。

目覚めが良く、起きた直後であるのに頭が冴えていて、体はとても軽かったです。

前日までのうつ症状と慢性的なだるさは見事に消え去っていました。

私は朝起きるなり部屋の掃除を始めて、前日までの過食で出た大量のゴミをまとめ、食べ残していたお菓子やコンビニフードを全て捨てました

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私が躁うつとわかるまで② 〜コロナ直撃編〜

私が躁うつとわかるまで② 〜コロナ直撃編〜

前回は↓

私は社会人2年目になり仕事が充実し始めていました。

精密機器のメーカーでの海外営業の仕事は名前ほど華やかではないですが、海外出張も行かせてくれて、私はそこそこのやりがいを感じていました。

体調の方も、急な憂鬱に襲われてどうしても朝出勤できないことはありましたが、有給休暇を使用して半日から1日休めば問題ない程度でした。

その年の1月、中国でコロナウイルスが発見されたという報道が日本

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私が躁うつとわかるまで①〜はじめてのブレイクダウン〜

私が躁うつとわかるまで①〜はじめてのブレイクダウン〜

「これは心療内科に行かないとまずいかもしれない」と思ったタイミングは2 回あります。

結果を言えば2回目にときに実際にクリニックへ診療し、初診から約2ヶ月後に躁うつの診断が出ました。

今回は1回目の時のことを書きます。

それは2018年10月、兄の結婚式が終わったその日の夜でした。

その前日、私は当時住んでいた京都から実家がある千葉まで帰らなければならなかったのですが、私の体はベッドに横た

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