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息子がいじめられていた時に描いた絵


物置を改造した私専用の部屋がある。

改造してから2年ぐらい経つ。
そこには自分の好きな物しか置かないと決めて、コツコツ整理した。


当時、自分と向き合い自分を大切にし始めた私が、自分に叶えてあげたい事だった。

自分の部屋、一人の時間、好きな物に囲まれる暮らし、趣味に没頭できる空間…

家族といるリビングも好きだけど、ずっと自分の時間がない事が不満だった。


物置と化していた部屋を片付けて整理して大きな家具も移動して捨てて…途方に暮れる作業だったけど、

4ヵ月かけて完成した時は、正直泣きそうなぐらい嬉しかったし、達成感もすごかった。


そこにアンティーク調の椅子や本棚を置き、カゴやドイリーやビン等、お気に入りを配置していく時のワクワク感は至福の時だった。


あれから趣味をしたり日記を書いたり、願い通り自分時間に使ってきた。
最近は、たまに息子がやってきて何やら語っていく時もある。

思春期ならではの葛藤やアニメ談議など熱く語る息子を見ながら、私は密かに幸せを噛みしめているのだ。



これまでも定期的にやってきた私の断捨離熱。

昨年から再び火が付き、私は物と向き合っている。

リビングとか押入れなど家族みんなが使う場所の断捨離が一段落したので、私の部屋も見ておくかな…と整理してみた。


結果、捨てる物があった、あった、めっちゃありました。

\マジか/と、びっくり!
その部屋には “自分の好きな物” しか置かないと決めていたはずだった…けど、“捨てられない物” がたくさん出てきた。

ここにも執着が置いてあったのか…

何だか一つ一つが愛おしく感じた。


でも、お別れだ。

45Lのゴミ袋1つ分。
あ~スッキリ!

と言いたいとこだけど、実はまだ、そこに入れるか迷っている物がある。


それは、息子が小1の時、
いじめられていた時に描いた絵だ。

当時の息子の言葉にならない苦しい感情が絵に現れている。


そこに付箋が貼ってあった。
私の字だ。



○○(息子の名)の辛かった気持ちを
忘れてはいけない
私への戒め 誓いとして捨てない

胸が苦しくなった。

この絵をお気に入りの本棚に置いた事は覚えていたし、この存在は頭の片隅にずっとあった。


メモの通り、確かに私は忘れてはいない。

だから今回も断捨離で手に取った時には、何の迷いもなく『保管』の方に仕訳けしたのだけど…

ずっと気になっている。


私はどうして取って置きたいんだろう。


いじめの話は息子とも何度もしてきた。

息子はフラッシュバックで感情を爆発させた事もあったし、最近では当時を振り返って自分はもちろん、相手の気持ちや立場さえも想像したりしている。


これは息子の問題なのだ。

乗り越えるのも手放すのも息子が自分でやる事だし、抜け出せないとか囚われているのも息子の事なんだよなぁ。


でも私は捨てられない。
楽しい思い出でもないし、成長の記録でもない。

『私への戒め、誓い、』
そう書いてある。

これまで自分と向き合ってきて何となく思い当たる事が2つある。

でも気付きたくないような感覚だけど…


1つは、私がどうにかしてあげたいっていう役に立ちたい感。

もう1つは、捨てる事で起こる恐怖を回避しようとしている気持ち。


これらは私の望みでもある。

裏を返せば、私自身の存在への不安や見放される怖さから生まれる望みだ。


そんな事しなくても私はここにいていいし、私は私を見放す事はない。

もうわかっているのだ。

でもたまに顔を出す。


息子の事、それがいじめという辛い記憶であっても私にはどうする事もできない。

残念だけど私が役に立てる事はない。
というか出る幕ではない。

あと根本的な事だけど、その絵を取っておく事で良い母になれるわけじゃない。

もうわかっているんだけど、そこに怖さがある。


ああ、ほら、書いていてザワザワがすごいからドンピシャだ。


『忘れてはならない』とメモには書いたけど、私はきっと忘れるのが怖いのではなく、反省している自分の証拠が欲しいのだろう。

まだ『良い母』になりたいのだな。


息子のために取って置きたいっていうのはカモフラージュで、ただ自分のために捨てられないだけ。

言い換えると、良い母でいられる(ような気がする)事を握りしめている…ちゃんと向き合えばいいのに それも怖くて出来ない。

つまり執着だ。


これが自分への問い『どうして取って置きたいのか?』の答え。


私は良い母にはなれない。
私は私でいる事しかできないし、過去にやった事を今の私が挽回する事はもうできない。

事実が書き代わることはない。
後悔するしかないのだ。


いやいやいや、後悔?悔しい?
それでごまかしてはダメでしょ、やつ子さん。

本当は感じているはずでしょ。


私は、

いじめられている息子に優しい言葉をかける事ができない親だった。

息子の良いところを信じる事ができず、周りと比べて劣っているところばかりを見てダメ出しする親だった。

自分の問題を隠すために、私を正当化するために、いじめてきた子や先生達を悪者にした。

私は親として大人として足りないところが多すぎた。


でも、今はその事をどうする事もできないのだ。


認めるしかない。

戒めなんて都合が良すぎる。
誓いなんて綺麗すぎる。

絵に貼ってあるメモに『私の執着』と書くなら取っておいてもいいかもしれないな…(笑)



息子が先日、『(強迫性障害の行動療法で)この半年けっこう大変だったし、それに付き合ってくれたって事で、これまでのお母さんがやらかした子育てチャラにしてやるわ~』

と、冗談っぽく言ってきた。


私も『マジで!?イェーイ!ラッキー♡』と返した。

チャラになんてならないとわかっていたから。


でもその冗談にちょっと救われてしまった。

この期に及んで救ってくれるんかい!
スゲーな息子よ!


その絵は乗り越えた証、
そう捉える事もできる。

いやどうだろう…

苦しみや辛さを耐えてきた、乗り越えた、その証は絵ではなく息子そのものじゃないだろうか。

だからこそ息子の未来には希望があるのだ。


やはりこれは息子自身の事だ。

私のために取っておきたい物を、息子のためにとすり替えるのは違和感しかない。


私は何もできない。
だから息子の絵も手放す。


ここまで書いてきて、少し思った事がある。

私は当時の息子を抱きしめたいのだ。
いじめられていて辛かった あの頃の息子を…

それをしなかった後悔もあるけど、もし戻れるなら、あの頃の息子を抱きしめたい。


絵に息子を重ねているのかな…
そのために取って置きたかったのかもしれない。

捨てる前に、その絵を抱きしめてみようと思う。


それではまた。





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