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午前零時の餃子店 (香港九龍/街かど屋台)

あのおばちゃんはまだ元気にしているのだろうか。
香港の昔ながらのローカル街の小さな餃子店で毎晩のしのしと働くあのおばちゃん。彼女の名前はコニーさんという。

ただただ海外で仕事をして暮らしてみたかった私は、就労ビザが比較的に簡単に取得できるだろうという予想と、唯一の趣味だった旅行関連の仕事という理由だけで客室乗務員になった。
香港に暮らすことが決まったとき、香港人のありのままの生活圏で暮らしたくて、オフィス街でも歓楽街でも郊外の住宅地でもない、下町のような雰囲気の地域に部屋を借りた。九龍の歴史ある繁華街、旺角からほど近いそこは、埋め立て住宅地になる前は波止場街だったという。
華やかなイメージの客室乗務員、ましてや日本人の若い女性が住むような部屋ではないと大家が一度は入居を断ったその部屋は、古いがとても寝心地のよい大きなベッドと、大道路沿いではあるが日光の入る壁1面の窓があり、想像していたよりも遥かに居心地のよいものだった。

なによりも気に入ったのは、近所にちっとも洒落ていないけれど感じのいいバーが数軒と、今はあまり見かけないタイパイドンと呼ばれる屋台や、小さな飲食店がいくつもあったこと。まるで香港映画「恋する惑星」に出てきそうな下町のB級グルメ街は、まさに私の香港のイメージにぴったりだった。英語は大して通じなくても、洗濯屋があり、ごく普通の香港人の生活圏で住めるということが私にはとても重要だった。人生1度きりの香港生活と決めていたから。

イギリス統治時代に幼少期を過ごしたからだろう、コニーさんは街のおばさんにしては片言というよりも、ある程度ちゃんと英語でコミュニケーションがとれた。
広東語が全く話せないのに、お店のメニューを指差して、ニラの餃子だの手羽先だの全く洒落っ気のない料理を注文する私に、ぎょろっとしたすでに大きい目を好奇心でまん丸にしながら平静を装って応じてくれた。

日系の鉄板焼き屋に勤める丸々太ったうりふたつの息子と近所に二人で暮らししていて、休日には、すでに結婚して離島に住む息子夫婦と孫を訪ねるのを楽しみにしている。夕方から深夜3時までの週6日出勤。生活は決して楽とは言えないであろう、ごくごく普通の街のおばさん。
場所に不似合いな割にはよく店に来る、自分の息子と同じ年頃の日本人の私と、片言の広東語を話す褐色の肌の外国人である私の友人を気に入ってくれていたのだろう。誕生日に家族で食事に行った写真を嬉しそうに見せてくれたり、休憩中に食べるつもりだったであろう自分のおやつのフルーツだの惣菜だのをよく分けてくれた。毎回、注文がてら私のちっとも上達しない広東語を採点してもらい、3人で少しシニカルな冗談を飛ばし合うのが日々の小さな楽しみだった。

近しい親戚の家の食卓のように楽しい思い出がたくさんあるそのお店。私にとって戦いの街であった香港で数少ない、実家のような感覚のほっとする場所。大好きだったからその近くを選んで住んでいたのだが、いつも手を繋いで一緒に通っていたきょうだいのように近しい人物が突然消えて、足が遠のいてしまった。客室乗務員時代は深夜フライトの後、夕ご飯後の飲み直し、小腹が空いた夜のおやつ、と、このまま家に帰ってしまうには少しさみしい、出掛けた日の余韻を楽しみながら二人でお店に寄り道したたくさんの思い出。あんなによく通っていたのに、いつしか思い出だけがお店でひとり、それはそれは楽しそうに幸せそうにしているのが見ていられなくなって、通勤路なのに店の前を避けて通るようにまでなってしまった。

コニーさんに最後にちゃんと声を掛けたのは、私が香港を去る前のクリスマスだったと思う。

よくそこの店に一緒に通っていた近しい人物が突然消え、1年以上足が向かなくなっていたあるクリスマスシーズンに、なぜか同僚から大きなケーキをもらった。持って帰る家族も友達も近くにいない。処分するくらいならと、帰り道にふらっとお店に立ち寄って、みんなで食べてね、と言って餃子も買わずに彼女に押し付けた。息子さんは元気?と聞くと、仕事で海外に行って忙しくしているみたい、と寂しそうにつぶやいた。いつものしのしと無心に働いているのに、不意にすくめた、まるまるとしたたくましい肩がいじらしい。お互い同じような時期に大切なライフラインを無くしてしまったのだ。いきなり消えた私の友人のことはあまり聞かなかった。気休めの冗談も社交辞令の挨拶もうまく見つけられず、仕方なく笑うことしかできなかった。厨房の汚れでぐしょぐしょになったコニーさんのトレードマークのエプロンを気にもしないでハグをして、また来るよと言ったきり、あれから一度も足を運ばずに帰国してしまった。

次に香港に行く時は、会いに行こうと思う。

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