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多面性を持っているのは異常なのか?

私は多重人格なのだろうか?

その日の体調や気分によって態度が変わることがある。調子の良い時にバスやトラムに乗っていて、年配の方が乗り込んでくるとサッと席を譲るが、調子が悪かったり疲れている時は知らん顔をすることもある。

集中できない時や心配事がある時などは、人の話をそれほど真剣に聞かなかったりもするし、気もそぞろな様子が態度に出てしまうこともある。

親切は、しようと思ってしているのではなく、自然とカラダが動く時にするだけなので、不親切な時だって多々あるのだ。

ある人には、不親切で嫌な人だ、と思われているかもしれない。またある人には、親切で優しい人だ、と思われているかもしれない。

どちらも私で間違いない。

私という人間は真っ平の平面的な存在ではなく、あちこちにデコボコのある歪な多面体で不安定な存在なのだ。


極端な話、例えば人を殺してしまった人は犯罪者だが、その人は終始極悪人だったのだろうか?生まれてから犯罪を犯して捕まるまでの間、誰からも感謝されたり、誰かに親切にしたりしたことがないのだろうか?

糾弾されなくてはならないのは罪であり、罪を犯した時の当事者の心理である。それがたとえ死刑に値する極悪非道な犯罪であったとしても、犯罪者本人の生きてきた全ての時間を裁いているのではなく、犯罪を犯した経緯とその瞬間を裁いているのだ。

犯罪を犯すのは良くない。決して良くない。犯罪は裁かれるべきだし罪を犯した者は法に準じて罰を受けなければならない。その点に異論はない。

だが、犯罪を犯した人間は、犯罪を犯したことについては糾弾されるべきだけれども、犯罪を犯していない期間の言動や行為、更に言うと、産まれて生きた存在全てを否定されるべきではないと、私は思う。

被害者にとっては殺しても殺し足りないくらいに憎い存在だろうが、他の人にとっては親切で優しい人なのであり、偉大な才能の持ち主であるかもしれないのだ。

ニュースやメディアが犯罪者の狂気たる一面ばかりを報道し続けることで、被害者の心情を察して、犯罪を犯した人がかつては良い人であったことを証言する人が誰もいなくなるのは心苦しい。


私は良い人だが、悪い人でもある。いろんな要素がごちゃ混ぜになって私の中にある。そしてその日その時の気分と相手によって、ちょっとづつ違う要素が見え隠れする。

人間って、見る角度や対峙する相手によって見え方や感じ方が変わって当然。そんなもんだと思って今まで生きてきた。

だから私が苦手だと思う相手でも、別の場所へ行けば誰かの最愛の人になりうるのだと。


自分に多面性があると感じている私は異常なのか?人は皆、常に真っ直ぐ一本筋を通していなければならないのか?気持ちや態度がコロコロと変わってはいけないのか?

A=B、B=C、ゆえにAはCであらねばならぬのだろうか?


一貫して自分の信念を貫き、どこの誰がどんな角度から見ても正真正銘変わらぬ自分でいられる人がいることが信じられない。


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