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木曜、PM26:00

 飲まないとやってらんない気分だった。大して飲むこともできないし、あまり好きでもないけれど、飲まないとやってられない夜だったのだ。木曜の夜に飲み歩くには丁度良い理由だった。一人でいる方が好きだけど、誰かといたい夜だった。生ビールとレモンサワーとグラスワインの赤。アルコールに弱い人間にとって最悪の組み合わせをお腹の中でどぷどぷと混ぜ合わせる。うまく回らない頭で言葉を探しながらブンブンと首を縦にふって相槌をひたすらうった。楽しかった記憶がある。誰かと話しながらお酒を飲むというのは自分という人間の浅さを知る良い機会だと思った。今晩、一人じゃなくてよかったなと思った。帰りに乗ったタクシーの運転手さんが親切だった。そこまでは順調だった。でも、ローソンに寄って飲むヨーグルトを買って家まであと数十メートルのところで、寂しさが一気に押し寄せてきた。だめだ、間に合わなかった。耐えられなかった。寂しさに追いつかれる前に家に帰ってシャワーを浴びて眠りにつきたかった。気づいた時には涙が溢れていた。上を向いたらオリオン座が光っていた。ああ、なんて夜だ。


 家に帰り着いてもまだ情けなく泣いていた。私レベルになるともう泣いている理由なんて関係がない。ただ泣いているだけ。意味なんてない。そのうち寒さとアルコールのせいで頭痛が始まった。痛みが激しくなる。シャワーを浴びてすぐに横になるけれど眠気はまったくやってこなくて、代わりに途方もない寂しさが胸を埋め尽くした。吐きそう。気持ち悪い。もう駄目。一人でいるのに、無性に一人になりたい。

 吐き気がやってきてトイレに駆け込んだけれど、吐くことができなかった。狭いトイレの個室にしゃがみこむ。つらい。つらい。理由もなくつらい。頭が痛い。つらい。ここ数ヶ月、こうやって便座の前でしゃがみこむことを何度もやっているけれど、この瞬間が人間が生きていて最も惨めさを感じる場面じゃないかと思う。助けてほしい、でも絶対に一人になりたい、苦しい、吐きたい、吐けない、楽になりたい、座り込んでしまいたい、情けない、どうしようもない、行き場のない苛立ち、終わりのない孤独。

 数分しゃがんでいたけれど結局吐くことができなくてベッドに戻る。頭痛と吐き気による生理的な涙がじわじわと枕に染みていく。しばらく横になっていたけれど、再び吐き気がやってくる。トイレに篭る、吐くことができなくてベッドに戻る、を、数回繰り返した。

 時刻は二時になっていた。頭痛はおさまらず、眠ることもできない。何度目かの吐き気がやってきた。どうせ吐くことはできないんだ、と半ば諦めの気持ちでのろのろとトイレに向かう。

 どうしてこんなに寂しいのだろうと便器に向かいながらその時ようやく考えた。もっとずっと一緒にいたかったと言うことができなかった。きっと私はこういう大事なことを大事な場面で言うことができずに大切にしたい気持ちを取りこぼしていくのだろう、そしてそういう心を徐々に忘れて無神経な人間になっていくのだろうと悲しく思った。気持ちというのは、難しい。パワーにもなれば、負担にもなる。迷惑にもなる。暴力にもなる。だから、自分だけの気持ちで収まりきらないものを扱う時には慎重になりすぎて怖くなる。伝えたいな、よりも、相手の心をくもらせないかな、が先にくる。そうして自分の気持ちはなかったことになる。形にしなかったものはなかったものと同じだ。

 寂しい。寂しい。死にそうなほど寂しい、死なないけど。寂しい、と、全身でそう思った。思った瞬間、吐いた。ちゃんと全部吐いた。勢いよく吐いた。際限なく吐いた。胃を裏返してすっからかんにするみたいに吐いた。あー、バカみたい。いい大人にもなってこんな。バカみたい。後からこんな風に情けなく吐くくらいなら、そうならないようにどうにかすればよかったのだ。でも、今日はこうするのが正解だったように思う。どうにもできないことが増えるよ、大人になるたびに。後から泣きながら吐くしか手立てがない夜がきっとこの先も増えるよ。安全な道を選べるくらいの余裕があるのなら、最初からこんな感情にならないんだ。


 今、会いたい。でも、今は絶対に一人になりたい。いまこの瞬間、世界で一番寂しがり屋な自信があるのに、世界で一番一人になりたい。


 マラソン一緒に走ろうねすら約束できなかった私が、この先一緒に歩こうねなんて誰とも約束できない。笑っちゃうよ。明日の約束も取り付けられない。たった一言で自分が誰かを縛るんだと考えてしまう時点で違うのだ。過去に、一緒にいた時間が無駄だったと言われたことがある。付き合った時間無駄にしたよ、って。その時に考えた。相手の時間を奪ってまで押し付ける気持ちって何なのだろう。相手の時間を奪ってまで好きだと言うことに何の意味があったのだろう。私はその後の責任までちゃんと取ろうとしていなかったし、そんなの考えることすらなかった。責任、とれない。他人のことは。そうしたら一気に怖くなった。寂しさを人で埋める理由が見つからなくなった。一人でやり過ごすことの無責任な自由を知ってしまった。
 言葉にしたら本物になっちゃうよ。
 形になったら現実になっちゃうよ。
 私はごめん、そんなに強くないかもしれん。

 こんなふうに一人で吐き尽くして空っぽになるだけの夜がこれからどんどん増えて、それを越える度に無駄な実績を増やして、大丈夫になっていく。自分は大して強くはないけれど、底の部分ではしたたかな女だと、自分で一番分かっている。寂しくない人生なんてきっとつまらない。寂しさこそが生きる魅力なのだ。


 すべて吐き終わってすっきりした体とやっと止まった涙、死んだ魚の目で熱心にトイレ掃除をする。何もかもが水に流れてぐるぐる回りながら消えてゆく。少し深めに息を吸う。もう一度会えたら何て言う?午前二時半、まだ少し痛む頭でたった一言だけしぼりだす。会いたい。散々考えて出てくるのがこんなのでバカみたい。









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