せんべいとレモン

おせんべいとレモンと

「おせんべいも食べられない会社ですよ」

 誰かに自分の会社について説明するとき、わたしは決まってこのフレーズを使う。
 まあ別に、おせんべいを食べることが禁止されているわけではない。社則を確認してみたが、そんな禁止事項はなかった。一般的な社会通念からしても、おせんべいを食べたことで厳重注意とか減給とか解雇とか、そんな事には多分ならないはずだ。
 それでも、食べにくい事には違いない。

 うちの会社のお昼休みは、異様なほど静かなのだ。

 その時間に職場に残っている人たちは、基本的に誰も言葉を発しない。みんな黙ってパソコンの画面を眺めているか、スマホをいじっていたり、あるいは机に突っ伏して昼寝をしている。お昼に入った最初の十数分くらいは、お弁当やカップ麺を食べる人もいるから、さすがに物音くらいはする。それでもごく控え目なものでしかない。お互いに気を使っているみたいに、みんな静かにしている。

 もちろん世間話をする人なんていない。たまにどこかで話をしていると、その声がひどく際立つ。他の人はじっとそれを聞いている、というか自然と耳に入ってしまう。会話の内容は、否応なく全員に筒抜けだ。それで余計に誰もしゃべらなくなる。

 そんな環境で、たとえばおせんべいなんて食べたら、すごく目立つに決まってる。なのに、わたしは食べてしまった。食べ損ねたお昼の代わりに、ついかじりついてしまったのだ。

 パリッ……。

 わざわざランチを食べに外に出たり、コンビニへ買いに行くのも面倒だったし、最近は食欲自体あまりなかった。それでも、このおせんべいは美味しかった。パリッとした歯ごたえ。香ばしいお醤油の匂い。これは家から持ってきて正解だったと、その瞬間は思った。

 パリッ、パリッ。

 でもちょっと音が大きいなと、すぐに気がついた。でもいまさら食べるのを止めても不自然だ。せめて音を少しでも抑えるように、控え目にかじりつくことにした。

 パリ……パリ……。
 
 それだって音は鳴ってしまう。……まあ仕方ない。だって、おせんべいだもの。

 わざわざ地元から取り寄せた、老舗の手焼きおせんべい。こげ茶色で、パリッとよく焼き上がっている。大判なので一枚でも食べごたえがある。子供の頃からよく食べてきた、なつかしい味だ。

 パリパリ……。 

ふいに両親や祖父母の顔が思い出された。実家の居間に、みんなが並んでいる姿。——お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、まだ小さかった妹と弟。家族のイメージに紐付いてか、地元の風景も心をよぎる。——古びた駅舎、すこし寂れた商店街、田んぼのあぜ道、通学路、学校、制服姿の自分と同級生たち。

 ああ、そうか。
 スライドショーみたいな思い出をながめているうちに、気がつかされた。

 いまの自分はもうとっくに大人で社会人で、地元から遠く離れた街の職場で、毎日こうやって働いてる。つまり、いまわたしが思い出している場面はみんな過去に通り過ぎたもので、もう決して戻っては来ないものなのだ。

 ああ、そうか。って気づいてみたけど、そりゃ、そうなのだった。そもそも思い出って、そういうものだった。

「あの頃には戻れない」

 そんな当たり前の事実に改めて気がつかされたわけだけど、やっぱり寂しい気分になってしまう。何でだか感傷的、センチメンタルになっている自分がいる。お昼休みに故郷のおせんべいを、控え目にかじっていたら、なんでだかわたしはそうなってしまった。ちょっとおかしな話だけど。

 パリン……。

 なんにしたって最近の自分どうなんだろう。わけのわからない仕事を次から次に丸投げされて、ただもう忙しい。同僚はむっつりと陰気な人ばかりで、職場は基本的にシーンとしてる。でも定期的に営業と制作の責任者が揉めて、会議室から大きな声が漏れ聞こえてきたりはする。チームで動いている一部の部署では言い争いも起こる。さすがにそれは会社組織だから。でもそういう声って本当うるさい。聞いていて嫌な気分になる。へんに声を張り上げている人はみんな馬鹿みたいに思えて仕方ない。そんな人たちとは、なるべく最小限の関わりしか持ちたくない。自分のような一介の制作担当としては、我関せず目の前の仕事に打ち込むのが正解だろう。……なるほど、だからみんな黙りこむようになるのか。職場のこの空気は、ある意味で当然の帰結なのだと思い当たる。

 パリ……パリ……。

 他人に干渉されなくてすむ環境は、人間関係が面倒な自分には楽なことは楽だけど、よく考えたら、ちょっと窮屈なところもある。お互い過剰に気を使い合っているようで、じつは全然そうでもないような。とりあえずみんな何を考えているのか分からない。わたしの頭の中だって誰にも分からないだろうけど。

 パリ、パリ、パリ……。

 いまのこの現実が、むかしの自分から連続しているものだってことが、なんだか不自然に思えてきた。たとえば地元にいた頃のような表情を、いまの自分はもうしない。あの頃は、なんとも気の抜けた、でも朗らかな顔をして生きていた気がする。そんな顔、いまさら「しろ」と言われても、もうできそうにない。表情筋からして変わってしまった気がする。そういえば去年から忙しくて、ずっと実家にも帰れていない。同窓会だってあったのに。

 それでも、とにかく当面は毎日ここで働かなきゃならない。とりあえず生活しなくちゃならないから。それが現在、もうとっくに社会人のわたしだ。ちょっとびっくりするね。でもそうやってみんな生きてるわけだし。

 ……ああ、もう。
 なんだか息が詰まるな。
 じゃあ、せめて、おせんべいくらい好きなように食べたっていいじゃん。
 いいよね? 
 いいに決まってる。

 パリッ、バリッ、パリンッ……。

 そういうわけで、わたしは思いっきり、遠慮なしにおせんべいをかじってやった。静まりかえった職場に、おせんべいの音が、大きく鳴り響いた。

 その乾いた音は、わたしをちょっとだけいい気分にさせた。どうせだったら、もう一枚、いやもう全部一気に食べてやろうかと、おせんべいの袋が入った引き出しに手をかけたところで、となりの席から声をかけられた。

「あの、おせんべい、好きなんですか」
「え?」
 
 話しかけてきたのは、五十歳くらい(たぶん)のおじさん。この人はうちの会社に来るまでずっとフリーでやっていたようで、業界ではベテランらしい。社長とも直接の知り合いだとか、そんな曖昧な噂だけは聞き知っていた。席はとなりだけど、仕事では直接関わらない。簡単な挨拶くらいで、ほとんど話もしたことがなかった。

「いやあ、すごくいい音だなあと思ってね」

 なのにいきなり話しかけられたから、ちょっと混乱した。でもすぐに、この人はつまり嫌味を言いたいのだと思い当たった。だから申し訳なさそうな、いかにも気まずくて恥ずかしそうな表情を作って、とりあえずわたしは謝ることにした。

「……やっぱり、おせんべいなんか食べて、うるさかったですか?」
「いやいや、そんなんじゃなくね……」
「ほんとごめんなさい。お昼食べ損ねちゃって、つい」

 わたしは面倒な人間関係が心底から苦痛だから、他人に対しては逆に丁重だ。それで一定以上こちらに踏み込ませない。いわば結界を張るのだ。この会社に入ってから、そういう振る舞いにも慣れてきた。まあでも、こうして直接話しかけられたら、さすがに受け答えせざるを得ない。それが面倒くさい。あーあ、おせんべいを思いっきりかじったばっかりになー。

「その、せんべいの米粉ね。きっと、しっかりした物を使ってるよね」
「……はい?」

 え、この人なに言ってるんだろう。……米粉?

「えーと、すいません。ちょっとよく分かんないです」
「そうか、分かんないか。ごめんごめん、気にしないで」

 おじさんはそう言って、すっと自分の席に引っ込んで見えなくなった。うちの職場は、仕事柄もあって個人スペースが広くとってある。衝立の向こう、ときどきチラッと見える彼のデスク周りには、よく分からない、なんとなく不気味で不吉そうなものがゴチャゴチャ積み重なっている。あれは全部、業務に関係あるものだろうか? そうとも思われない。まあきっと、ちょっと変わった人なのだろう。どちらにしろ、あまり興味はないのだけど。

 うちの会社では、すぐとなりの人がどんな仕事をしているのかよく分からない。そんなことは誰も気にしない。……はずだったのに、昼休みが終わってから、わたしは別の人からまた声を掛けられた。

「……おせんべい好きなんですか?」
「え、いや……すいません」

 コピー機のところで出くわした男性社員に、わたしはまたなんとなく謝って、すっとその横を通り抜けた。この人のことも、よく知らない。これまで話をしたこともない。それがいきなり話しかけられた。

 ……おせんべいの音、そこまで大きかった? 席だってずっと離れているのに、あんなとこまで音が響いたのだろうか。

 静かすぎる職場というのも、ちょっと問題というか、ここまでくると本当に面倒くさい。なんだか窮屈だ。こんな、おせんべいも自由にかじれない職場で自分は働いているのだ。

 みんな黙って聞き耳を立てている。おせんべいの音だけじゃなく、誰かの立てる小さな物音、ささやき声、漏れ聞こえてくる会話の端々に対して。そうやって考えると、かなり陰湿な環境にも思えてくる。

 じわじわ嫌になってくる。こんな場所にいなくてはいけない自分も含めて全部が嫌になりそうな。理想と現実と生活と仕事とか人生だとか、そういう諸々も、最近では考えるだけで面倒なのだ。なのに考えてしまうから余計に面倒。……結局わたしが一番面倒くさいと思っているのは他ならないわたし自身のことなのだろう。そんなこと分かっている。でもどうしようね。だって自分からは逃げられないから。何度転職したっていくら遠くへ引っ越したって、自分というものはいつまでもべっとりわたしにくっついてくる。それを面倒くさいと感じる自分が、やっぱり根本的に面倒くさいのだ。……なんだこの堂々巡り。あはは笑っちゃう。ほんと面倒くさい。

 ……さあ、もう仕事に集中しなくちゃ。無理やりにでも。おせんべいはもう食べられないし。

 ふと窓の外を見ると、曇って重たそうな鉛色。おせんべいだって湿気ってしまいそうな空模様だった。この街の空は、いつだってこんなふうな気がする。本当は晴れた日だってあるはずなのにね。


🍘   

    

 得体の知れない不吉で不穏な雰囲気が、この職場をすっかり覆っている。自分には、つよくそれが感じられた。

 これはちょっと、いけなかった。

 なにがいけないかというと、この不吉な雰囲気自体がいけないというわけではない。こうした不穏なオーラや蠢きというものは会社組織には常に漂っているもので、それをいちいち気にしても仕方がない。そもそも扱っている商材自体が実際に呪われているのだから、不吉で不穏なのも当たり前だともいえる。

 いけないのは、そういったものに対して過敏になっている、現在の自分自身なのだった。

「ほら、またミスしてる。コレじゃ前にいた人と同じになっちゃうからね。気をつけてよ〜」
「や、どうもすいません。以後気をつけます」
 
 こうした「呪い」の気配を感じ取ったとき肝要なのは、その不穏や不吉の塊あるいは曖昧な空気、それを自らがどう認識して、どんな解釈を与えるのか。つまりは定義と処理の問題になってくる。実際のところ、ただそれだけの事に過ぎない。ところが若い人などはエネルギーが余剰なものだから、暗い闇に心がひかれ、ともすると深い沼に溺れてしまう。それはかつての自分にも憶えがあることだった。

「ディダビニィ……」
「ああ、そうなんですね。ありがとうございます」

 たとえば、さっきから聞こえている会話。これは、うちの会社では珍しくチームで仕事を進める部署で交わされているものだ。この職場は基本的にいつも静かだから、彼らの会話は否応なく辺りに響きわたり、かなり離れたところにいる自分の耳にも忍び込んでくる。

「じゃあこれは今週末までに納品しなきゃね。向こうの都合もあるし、多少無理でも、そこは大人として対応しないと結局は前の人だったりあの部長と同じに……」
「ディダビニー……」
「はあ。そうですか。はい。そうなんですね」

 いかにも急ごしらえの体制だったのだが、最近になって新人も配属され、彼らはチームとしてそれなりに機能しているようにも見えた。しかし最初から、その不況和音は低音部でずっと鳴り響いていたのだ。ほんのすこし耳をすませていれば、それは誰にでも感じられるはずだ。

「もうなにしろ本当に前の人はヒドかったんだから。技術者とか社会人というより人類としてもどうなんだってレベルに、それはもう超絶ヒドくて。しっかりしないとあなただって同じ轍を踏むことになるし、そもそも元を辿れば、あのとき部長の判断……」

 いやに高音域の、いかにも若く華やいだ声を出しているが、実際のところそれを発しているのは黒いローブを身にまとった老婆である。
 彼女は新人のミスを細かく指摘、また同時に自分の前任者、さらには部署の管理体制についての批判を言下に忍ばせ、これを機会に周囲に拡散しようとしている。その魂胆は明白であった。

「ディダビニー、ディダビニー……ディダビニー」

 壊れかかった機械の立てる軋みのような声の持ち主は、くすんだメタルボディに薄緑の古いローブをまとわせた老人。
 おそらく音声システムに欠陥があり、ひどく聞き取り辛い不安定な音程なのだが、彼はずっと「ちなみに」と言っている。その「ちなみに」に続けて、壊れた機械のように豆知識をひたすら垂れ流す。実際に老人は自らを半分機械化して、行動原理や思考もすべて自己プログラミングされている。彼の専門は本来は魔導科学らしい。しかし現状で彼の所属するチームが行っているのは、ごくつまらないわりに恐ろしく煩雑な作業であり、それが本人としても不本意なようだ。その不満を晴らすように「ディダビニー」からの専門的な豆知識を、まるで豆鉄砲のように乱射する。

「……ああそうんですね、すいません。うわあ、そうなんだ知らなかった」

 そして老婆にミスを謝罪して、機械化老人の繰り出す豆鉄砲知識をいちいち喰らってみせている新人の青年。もともと老婆と老人の相性は決していいとは言えなかった。しかし何も知らずに入ってきた彼が、緩衝材や落とし所、あるいは捌け口となることで、老婆と老人は直接に意見が対立して揉めるような機会も減り、チームはようやく機能していた。

「ああそうなんですねそうなんだそうなんだすいませんがもうどうでもいいんですけどすいませんそうなんですねえすいませんうるせえなあ……」

 ところが新人の彼は、そうしなければならない自分の状況に心底で辟易しており、それが近頃やや露骨に漏れ出すようになっていた。もともと緩衝材や潤滑油といったポジションに適した性質ではないらしかった。結果的にチームの不況和音は、また急速に高まっていた。離れた席にいる自分にも、断片的に聞こえてくる会話の端々から、またそれによって震える空気の揺らぎから、その不穏で不吉な気配は伝わる。「呪い」の気配を、いわば肌で感じているのだ。

 つまり、それがいけなかった。彼らを中心として巻き起こる「呪い」の渦に、気がつけば自分も巻き込まれてしまった。

「……ほんと、うるせえんだよ」
「え、なに?」「ヴォ?」

 自分は長年「呪い」に関する仕事をしてきた。
 呪いといっても、それは大げさな儀式や呪具だけがそうなのではない。私に言わせれば、言葉や意味というものはすべて呪いである。だから、すべての書物は「魔道書」に他ならない。あらゆる記述行為、言葉というものは、そもそもが呪いに端を発し、呪いに帰結する。

 そして「音」である。
 むかしから自分は音に敏感だった。音は不思議なものだ。音は音でしかない。しかし人の耳に入り込んだとき、それは呪い、あるいは祝福(この二つも自分にとっては同じものではある)といったものに変換される。たとえば音楽が人にもたらす効用。これは言うまでもなく一つの力であろう。人の気持ちを昂ぶらせ、または癒やしを与えもする。これは多くの人が認めるところであろう。

「あんたたちの声、本気で不快なんだよ。自覚とかないんですかね?」
「え、ちょっとなにいってるの、あなた?」
「……ヴォ? ヴァブヴォヴォヴォ?」
「だから、それ、その感じ。そういう相乗効果とか、コラボ? ……ああ、本当うるせえ。やっぱ呪いなんだろうな、これも」

 だから「声」なのだといえる。
 人のつむぎ出す言葉、そこに込められる意味、それを何倍にも高めてしまう音。すべての力が合わさったもの、それが「声」である。だから声による呪いは、非常に強力なものとなる。それが呪文、呪詛として認識されていようといまいと、もしくは本人にその意図があろうとなかろうと、いずれにせよ人の発する声は、大きな力を持つ。必然的にそうなってしまうのだ。

「だから呪いだとか声とか、まだよく分かんないけど、とにかくその不快なコラボだかセッションをさ、とにかく一身におれが受けてるわけ。これマジで辛いからな。もう耐えられんねーんだよ」
「……」
「……」

 自分が「呪力」について思索しているうちに、あのチームで大きな動きがあったらしい。周囲の空気も、いつになくざわめいている。

「そういうわけなんで、ちょっと外出てきます。もう仕事になんないし」
「……え。でも一応まだ業務中だし、それって会社的に、社会通念的にどうなの? いや個人としては別にいいと思うんだけど、わたし別に管理職でも何でもないし色々と押し付けられてるだけで、なんの責任も……」
「ディダ、ビ……?」
「うるせえな、ちょっと黙っとけ! バーカ!」

 バタン、と職場の入り口の重い扉が閉まる音がした。

 いよいよ限界を迎えたらしい新人が、すっかり逆上して出て行ってしまったようだ。

 突然の爆発にも思える彼の行動だが、自分からすれば、十二分に前兆はあったように思う。
 
 新人の彼とは個人的な付き合いもある。よく二人で飲みにも行っていた。年齢はかなり離れているが、彼とは不思議にウマが合った。仕事とは直接関係しない音楽や魔道書、つまり芸術と呪いにまつわる話をよくした。彼は私にとって、貴重な話相手だった。そして会社組織とは関係のない付き合いとはいえ、彼が苦しい状況にいるのは自分にもよく分かっていた。

「前任者の呪いがこびりついてる」
 しばらく前から、彼はそう主張していた。

  彼は前任者のマシンをそのまま引き継いで使っていた。彼らの業務には特殊な設定やチューニングが必要で、それが一番都合よかったらしい。

 前任者というのは、この業務を元々一人で請け負っていた人物で、なにか大きな問題を起こしたらしく、追われるように会社を去っていった。その後釜として急遽編成されたチーム、そこに新人の彼が配属されたというわけであった。

 前任者は、自分に言わせれば「豚とナメクジをかけ合わせたような男」だった。それを彼に伝えてしばらくして、彼は自分のパソコンが呪われていると言い出したのだ。

 なんでも、あるソフトを立ち上げるとそこに豚とナメクジをかけ合わせたようなキャラクターがポップアップしてしゃべり出すらしい。
「おれの恨みを晴らしてくれ」
 そうやって、遅くまで会社に残っている彼に語りかけてくるのだという。

 それが慣れない業務と無理のある日程に追い詰められた彼の妄想だと、自分には切り捨てることはできなかった。自分も長年、呪いに関する仕事をしてきた人間だ。人によって「呪い」の発現は様々だし、そもそも妄想や幻覚、幻聴というものは精神的な病理であると同時に「呪い」の顕在化のひとつでもあると理解している。つまりは解釈と定義、その処理の問題となる。

 昼休みになっても彼は戻ってこなかった。そのまま帰ってしまったのかもしれない。さすがに心配になり、彼のスマホにメッセージを入れていた。しかし一向に返事もなく、既読もついていない。

 ところで、この職場の昼休みは不自然なほどに静かだ。社長や役員に営業は、大体は外に出て不在だ。この時間に職場に残っているのは主に制作部の人間で、こうした業務に携わる者の基本的な性質として、そもそもあまり積極的に他人と関わろうとはしない。それらの集合結果として、ある種独特の空気が漂っていた。

「……でもカンソンさんね、それは社会人として」
「ディダイバスヨ、ヤミオカザン言ッデルコト矛盾ジデ」
「いや矛盾て、そんなこと言われたら、わたしだってあなたに」
「ダバラー、矛盾トイブヨリ論理的破綻デ」

 静まりかえった昼休み。新人の彼が去ったチームで、ボソボソと交わされている会話。それが次第に口論のような様相を呈していき、ボリュームと不協和音が大きく、むき出しに強調されていった。これは音楽的に、つまり呪術的な効果あるいは純粋に生理的に、ちょっと私にも耐えられそうにない。つねに間近でこれを聞かされ続けた彼に改めて同情する。

「……うっさいなあ」

 小さなつぶやき声が、自分の隣のデスクから聞こえた。声の主は、まだ若い女性だ。隣の席の彼女は自分とほぼ同時に中途採用された、いわば同期ともいえるが、ほとんど言葉を交わしたことがない。

「ああ、ほんと面倒くさい」

 そういえばすこし前、彼女が昼休みせんべいを食べていたことがあった。パリン、パリンと、乾いた音でせんべいが割れる音。あの音は、なかなかよかった。いい米粉を使っているせんべいに特有の音がした。その米粉は、ある地方の老舗店だけで使われる特別なものに違いない。だから自分は親しみの念を抱いて声をかけてみたのだが、どうやらそれも逆効果だったようだ。

「ちっ……」

 彼女は舌打ちをして、机にチェック柄のローブを頭からかぶって机に突っ伏した。最近の彼女は職場の空気にすっかりやられてしまったのか、すっかり心を閉ざし、病み疲れているようだった。全身から「話しかけてくれるな」というオーラを強烈に放つようになった。最初は、ここまで拒絶的ではなかったのだ。やはり若い人は生体エネルギーが余剰で、だから逆に暗く寂しい領域にひかれ、はまり込んでしまう。

 ピッという認証音が、入り口の方から聞こえた。

 重い扉が開き、新人の彼が戻ってきた。両手に大きな紙袋を抱えている。自分だけでなく、職場中の注目を集めながら、彼は無言で、そして妙に青ざめた表情で職場を歩き回る。

 自分の席のすぐ側までやってきたとき、彼は一瞬こちらを見て、すぐに目をそらした。そして紙袋から、あざやかに黄色い、一個のレモンを取り出し、すぐ横にあった棚の上に置いた。それからまた違う一角に向かって足早に歩き去り、そこで同じことをした。彼は一言も言葉を発せず、また誰も彼に声をかけられなかった。職場の要所要所にレモンを置き終わると、彼はまた重い扉を開けて、会社の外に出ていった。

 その一個のレモン、いや檸檬を、自分はただじっと見つめた。

 自分には、彼の考えが彼の行動の意味が分かった。いや分かってしまった。彼や彼女、自分よりも若く、エネルギーが余剰な人に理解と同情を寄せた。かつての自分を懐かしむようにして。つまりそうやって彼らの呪いに組み込まれ、それを補強して、この空間に実存させる役目を、この私が負ってしまったのだ。

 まったく自分らしからぬ失敗であった。

 しかし、もう遅いのだ。せめて被害を最小限に抑えるために、自分は声を張り上げて叫んだ。

「丸善だッ!」


 自分のその言葉に、はたして何人が反応しただろうか。

 檸檬は、次の瞬間に爆発した。そこに置かれた檸檬は、つまり爆弾なのだ。これは不文律の約束、ある共通認識のもとに伝播する強力な呪いであった。

 パリン、パリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリンパリン!

 至るところに置かれたレモンが、次々に連鎖して爆発していく。

 ディスプレイに映し出された表計算ソフトが粉々に割れて砕けた。言い争っていた老人と老婆のメガネも同時に仲良く割れる。呪われていた新人のマシンは盛大に火を吹き、この大惨事に加担した。この職場に窓ガラスは大体全部で60枚くらいあったが、すさまじい爆風がそれを突き破り、すべて見事に割れて砕けた。自分は咄嗟に机の下にしゃがみ込んで、やかましいその音を聞いていた。耳を塞いでいる手を通り抜け、しつこいくらいに鼓膜で鳴り響く音。

 パリン、パリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリンパリン パリン、パリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリンパリン、パリンパリンパリンパリンパリンパリン!


 自分の机に置いてあった、お気に入りの呪具たちも容赦なく割れて砕けているだろう。バルザックの頭蓋骨も、お気に入りの湯飲み(梶井基次郎が自分の結核菌をため込んでいたもの)だって被害をまぬがれないだろう。とても残念だ。しかしそれらが形代になってくれるおかげで、きっと自分は生き残れるだろう。この連鎖爆破のなか、あとは誰が生き残れるだろうか。

 なにせ檸檬製の爆弾は大量に置かれていた。それは堆積していた呪いの発露であり、分かりやすいカタルシスであった。「すべて割れてしまえ」と思っていた人間は、きっと彼や彼女だけではないのだ。


🍋   🍋   


「あそこで『丸善だッ!』て、ヤマネさんが叫んだから、みんな死んじゃったわけだよね」
「え、私のせいなの?」
「そうだよ。普通は分かりやすく『爆弾だッ!』て叫ぶ」
「そうかな」
「それだったら、みんなちゃんと回避行動とれたかもしれないし」
「……いや待ってくれ。そもそも君が考えた話じゃないか、これ」

 呪われし残業を回避して、久しぶりにヤマネ師といつもの店でビールを飲んでいた。

「ま、そうなんだけど。でもヤマネさんはいかにも『丸善!』って叫びそうじゃない。そういう教養スノッブみたいなところあるから」
「ううん、まあ否定はしない」

 ヤマネ師は職場の先輩だが、年齢の離れた友達のように気安く付き合わせてもらっていた。ずっとフリーでやっていたヤマネ師はこの業界の大ベテランでもあるのだが、すこしも偉ぶったりしない。それで逆に僕は彼を尊敬しており、密かに師と呼んでいた。

 お互い業務的に関わりはないのだが、やっぱりどうしても仕事の愚痴は言いたくなる。しかしそんな当たり前の話題はいかにもつまらないので、なるべくバカな与太話を仕立て上げたりする。まあバカな与太話とは言え、実際かなりストレスをためているから、とにかく最後は「みんな死ぬ」という結末になってしまった。

「でもマジで一回、全部爆破しちゃえばいいのに」
「それでスッキリするところもあるかもね」

 梶井基次郎リスペクトの檸檬爆弾によって、職場は木っ端みじん。やあ、ざまあみろ。文学的な素養のないやつは、みんな死んでもいい、とまでは思わないが。……まあちょっとは思ってもいるか。職種的に、みんなもうちょっと教養があってもいいと思う。まあ実際は秘めたところでそれぞれマニアックだったり変態的な気もする(たとえばヤマネ師のように)けど、あんまりそれを公にしないというか、全体的になんとも自閉的? べつに教養的でなくていいけど、もうちょっとユーモアにあふれた世間話でもして、適度に気を抜いた方がいい。じゃなきゃやってらんねえと思うんだけど。おせんべいも食べられない職場環境というのはある意味で本当、じつはノンフィクションですよ。すくなくとも自分はかなりしんどい。やってらんねえ。

「すいません、ビール追加。大ビンの方で」

 ヤマネ師がいつも通り、のん気な表情で追加注文する。ちなみに瓶ビールは我々の間では「最初の一杯は注ぎ合って、あとは手酌」というルールになっている。これは何でも映画監督の小津安二郎が提唱していたものらしい。

「……でもヤマネさんの隣の女の子は可哀想かな、ちょっと」

 オニオンスライスをつまんでまたビールを飲み、ちょっと気分がよくなった僕は思い直してみる。まあ実際かなりツンケンしているわけだけど、なんとなく悪い子ではないような気もする。

「いやー、大丈夫だよ。あの子はホラ、おせんべいが」
 ヤマネ師が言った。

「おせんべい?」
「そうそう、老舗店のおせんべい。いい米粉を使ってるやつ」
「うん」
「それが形代になって『パリンパリン』と割れるよね。呪術的には。それで本人は助かるよ、きっと」
「あー、なるほど。それはいいね」

 なつかしい故郷の思い出、むかしながらのおせんべいが彼女を救う。なるほど、それはよい話だ。ちょっと救いがあるような。まあ、そもそも職場に爆弾を置くテロリストは僕なわけだけど。きっと彼女は梶井基次郎なんて知らないんじゃないか。今度聞いてみようか。でもツンケンしてるから、ちょっと怖い。

「ところでさ、こんなものがあるんだ」
「なんだ、また魔道書ですか」

 ヤマネ師は古い作家の全集だとか、どこで売っているのかもよく分からないマニアックな本をどこからか仕入れてくる。そしてそれを「魔道書」と呼んで重宝する。かなり変わった人である。

「いや本じゃないよ。今回は」
「え、なにこれ」

 ヤマネ師は、紙袋からそれを取り出して、テーブルの上に置いた。目にも鮮やかな橙色の果実、オレンジだった。

🍊

 じっと見つめたその果実に、どこか違和感があった。僕はそれを手に取って、耳を近づけてみる。オレンジの中からコチコチと、なにか機械的な仕掛けが動いている音が聞こえた。

「映画が有名だけど、原作の方も面白いらしいね」
 ヤマネ師がうれしそうに言ってくる。

「時計仕掛けだッ!」
 思わず僕は叫んだ。

 

お読みいただき、ありがとうございます。他にも色々書いてます。スキやフォローにコメント、サポート、拡散、すべて歓迎。よろしく哀愁お願いします。