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女が下駄を脱ぐ時〜勝手に震えてプールに金魚を放つ私たち〜

こんばんは。服飾大学で出会った「みっぽ」と「キキ」がサブカル的な態度でコンテンツについて対談形式で語る「サブカル女子って呼ばないで」です。

今回は、先月末にTwitterでお見かけしたTweetから「女が履いている下駄」について、サブカル的な態度でお話しできればと思います。

■女子高生という下駄

キキ このnoteはあくまでも「サブカル的な態度で」対談したいので「この世界では〜」と言う部分ではなく、「下駄が脱げる瞬間がよくわからない」という部分を話したいんだけど、どうかな。

みっぽ 私も気になったのはその部分。下駄が脱げる瞬間って、本当に分からないのかっていう。

キキ 個人的には分かる人も一定数いると思っている、というか、経験したことがあるっていう人も実は割といるんじゃないかと思うのよね。

みっぽ 一番多くの人が経験しているのって、「女子高生という下駄が脱げる瞬間」じゃない?

キキ そうだね。だからこそ「LJK」という、他の高校生からは切り離して特別視するような単語もあるんだと思う。

みっぽ 「LJK」はLJK本人たちも使う言葉っていうところがミソだよね。

キキ みっぽは特に大学入学のタイミングで上京して来ているから、周りが全部新しいコミュニティだったわけじゃん。そうなるとLJKの頃までとは同じ下駄を履き続けられない環境だったんじゃない?でも裸足になった訳ではないよね?

みっぽ 高校卒業で下駄を脱がなきゃいけない自覚は間違いなくあって、だからこそあの時期はまだ女子高生でいたい、もう一度女子高生ができるならもっと有意義にコンテンツを利用できるって思ってたし、実際高校の先生にもそんな話してた。笑

キキ もう一度女子高生ができるならもっと有意義にコンテンツを利用できるって思ってた〜〜〜〜〜。笑分かるよ、分かる。もっと上手に下駄履けたなぁって。

みっぽ 大学に入学してみて、そこで出来たコミュニティで自分が履くべき下駄を見つけたけど、環境に順応しきれなくて結局中退。靴擦れ??笑
そこから結局今の職場に落ち着いてるけど、この職場にいる5年間でも2回くらいは下駄履き替えた感…。

■下駄は一足だけじゃない

キキ みっぽが靴擦れしちゃったように、下駄を上手に履き替えるのって実はみんながみんな出来ることじゃないんだよね。というか、一見上手に履いているように見える子でも、自分を騙し騙し履いていたりっていうパターンも多いと思う。
下駄を上手に履き替えるために必要なことってなんなんだろう。

みっぽ ん〜。この上のTweetに当てはめるとすれば「どこのマーケットに行くべきかという見定め」がまず必要だよね。それに加えてそのマーケットでの立ち振る舞いを決めるために「自分がどう見られているか、役割の理解」も必要。
こう考えると「主観的な自己分析」と、「客観的な自己分析」のどっちも求められているの難解過ぎない?生き抜くのって難しい。。人生サバイバルだわ。。。

キキ 下駄もしくは裸足でサバイバルってハードモードすぎる。笑

■『そうして私たちはプールに金魚を』『LOVE&POP』

キキ 私たちの大好きな映画『そうして私たちはプールに金魚を』や『LOVE&POP』に出てくる少女たちは、この文脈に当てはめるとすれば「もうすぐ今履いている下駄が脱げることに薄々気が付いている」感じがすごくするのよね。

みっぽ 『そうして私たちはプールに金魚を』は2012年に埼玉県狭山市の学校でプールに400匹の金魚が放流された実話を原案にした短編映画で、15歳、つまりは中学3年生の少女たちを描いているのよね。
『LOVE&POP』は原作村上龍、監督庵野秀明の1998年公開の映画。「最後までいく援助交際」をすると決めた女子高生の1日を回想を交えつつ追う内容。

キキ そう。私は初めてみた時からこの2本の映画にそもそもすごく似た感情を感じているんだけど。
どちらに出てくる少女たちも「今履いている下駄が脱げること」は分かっていて、でもやっぱり年齢や環境のせいもあって今見えている世界が狭いから、「この下駄が脱げたらどうしよう」っていう漠然とした不安感が根底に流れているように感じるんだよね。

みっぽ マーケットの選び方とか、下駄の履き替え方とか以前に「下駄を履き替えるという選択肢」が見えていない状態だよね。

キキ どうしても中学・高校時代って学校というコミュニティにしか属していなかったりすると、「今(下駄を履いて見て)いるコミュニティ=世界の全て」になっちゃうから、下駄が脱げるリミットが近付いてくる怖さは大人の思うそれとはまた違うよね。

みっぽ そもそもなんで下駄が脱げるのが怖いのか、下駄を履かなければいけないのかっていう話をすると、裸足じゃ勝負できないことが無意識的に分かっているからなんじゃないかと。

キキ それすごく『LOVE&POP』的だわ。(観ていない人は観てね、エンディングが素晴らしい名作です。)

みっぽ 自分に付加価値を求めるが故に、中学生とか女子高生っていうコンテンツ自体の価値に頼ってしまっていたんじゃないかなーなんて。
その分かりやすい下駄から、社会に出るともっと細分化された下駄を選んで履かなきゃいけなくなってきてる難しさ!

キキ でもそういう繰り返しの中で生きていると「LJK」みたいな明確な脱げる瞬間が分かるときに限らず、なんとなく「そろそろ脱げそう」とかって感覚も分かるようになってくる気がする。

■『勝手に震えてろ』のヨシカは下駄を履けるか

キキ 「今履いている下駄」が脱げる怖さ、もあるけど、そもそも「下駄の履き方がわからない」パターンもあると思うんだよね。で、その代表格が映画『勝手に震えてろ』の主人公、松岡茉優演じるヨシカなんじゃないかと。

みっぽ ここで『勝手に震えてろ』出してくるキキのセンス好き笑
確かにヨシカは下駄の履き方が分からない感じするね。

キキ 周囲の人たちがどうやら下駄を履いているみたいだってことは薄々気が付いているんだよね。でも、自分はそれが出来ない。

みっぽ なんでかって、「どこのマーケットに行くべきかという見定め」も「自分がどう見られているか、役割の理解」も苦手だから。

キキ でも、裸足じゃ勝負出来ない。だから、色んな人と上手くコミュニケーションを取れる、ちょっぴり下駄を履いた自分の目線の妄想の世界に生きている。

みっぽ 結局みんな、裸足は怖いんだよね。

■「年上の彼氏が欲しかった」「年下の女でいたかった」

キキ 話を下駄が脱げる瞬間に戻すね。
自分がLJKだった頃、下駄が脱げる瞬間が近付いていることはやっぱり分かってた気がするなぁ。特に私はバイトや趣味のコミュニティが年上ばっかりで、「最年少」且つ「女子高生」という下駄を履かせてもらってたのよね。

みっぽ 2つの下駄が同時に脱げる恐怖だ。

キキ そう。それで次の下駄、大人用の下駄が早く欲しくて、ちょっと年上のお兄さんとお付き合いしてみたりとかね。笑
もしも同級生とばかり過ごしていたら、あそこまでは「下駄が脱げる」ことを意識しなかったかも。

みっぽ わたしもキキと同じように、常に最年少で可愛がられてきたし、その自覚もあったから毎年誕生日が今でもちょっと怖い。笑
歳下でいることで安心しちゃってたんだよね。
「年上の彼氏が欲しかった」し「年下の女でいたかった」し、年下でいられる今を愛してたなーって思う…。

キキ ここで『社会の窓』を引用してくるみっぽのセンス好き。笑
「そんなの分かっていたけれどやっぱりちょっと痛かった」んだよね。

■総括「そして私たちは18才になった」

みっぽ こうして改めて振り返ると、女子高生、大学生、10代、そういう自分本体ではなくて自分がカテゴライズされている場所に価値があることが分かってたから、下駄の履き替えってかなり意識して生きてきたなーと。

キキ 特に私たちの場合それを特に強く感じたのがLJK、17才の頃だよね。
下駄が脱げる瞬間について歌っている訳ではないんだけど、Base Ball Bearの『17才』って曲もあの時期の空気感に溢れてるよなと、ふと思った。

みっぽ 確かに改めて歌詞ちゃんと聴いてみると、下駄が脱げてしまう女の子を俯瞰的に見ているようにも見える。

キキ もしくは下駄を履き替えた過去の自分を回想している女の子。

みっぽ 「何も無い感覚 昇っていく階段」とかね。

キキ MVだとラストの「それが全てだ」からの「そして私たちは18才になった」が秀逸。そうなんだよね、色々話したけど、意外とこうやって、下駄を脱いだり、履いたり、しちゃうんだよねって。

みっぽ そして同時に、そうやって自然に下駄を履き替えられなかったり、そもそも下駄の履き方が分からなかったりもして、ね。


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