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本能寺の変1582 第51話 9光秀という男 1フロイスの証言 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第51話 9光秀という男 1フロイスの証言 

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光秀は、坂本にいた。

 準備、完了。
 「甲斐へ」
 信長の出陣命令を待つ。

坂本城は、明智の誇りであった。

 フロイスは、次のように言っている。

  そして明智は、都から四里ほど離れ、比叡山に近く、
  近江の国の二十五里もあるかの大湖(琵琶湖)のほとりにある
  坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、
  それは日本人にとって豪壮華麗なもので、
  信長が安土山に建てたものにつぎ、
  この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。

これが光秀の実像である。

 これまでのイメージを払拭しなければならない。

光秀は、織田家の新参者だった。

 信長は、光秀を気に入った。
 能力・才能・器量・実行力・人物、等々。
 そして、抜擢・重用。
 明らかに、異質のタイプ。
 他の家臣らとは、一線を画した。

  殿内にあって彼は余所者(よそもの)であり、外来の身であったので、
  ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、
  自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを
  身に備えていた。

光秀は、典型的な戦国武将だった。

 フロイスは、イエズス会の庇護者信長には、同情的であるが、
 謀叛人光秀には、きわめて、辛辣な筆致で記録を残している。
 そのことを考慮して、目を通していただきたい。

  彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、
  己を偽装するのに抜け目がなく、

  戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、
  計略と策謀の達人であった。

光秀は、信長と同じタイプの人物だった。

 すなわち、同類。
 「同じ穴の狢(ムジナ)」
 従って、気が合う。  
 「打てば響く」
 信長は、重宝した。  

光秀は、築城に秀でていた。

 勉強家・努力家だった。
 築城術を身につけていた。

  また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、
  選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。

光秀は、信長に従順だった。

 目覚ましい立身出世の裏には、涙ぐましい努力があった
 新参者となれば、なおさらである。
 信長の信頼を得るために、苦労していた様子が見えてくる。

  彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、

  その親愛の情を得るためには、
  彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、

光秀は、信長の気性をよく知っていた。

 これもまた、戦(いくさ)。
 佐久間信盛とは、大違いであった。

  彼の嗜好や希望に関しては、
  いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、

  彼の働きぶりに同情する信長の前や、
  一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、
  自らはそうではないと装う必要がある場合などは
  涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
                           (『日本史』)



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