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溢れる情報と二極化について考える。

マスメディア、インターネットなど、情報を提供する媒体や取得方法はさまざまに存在する。今はまさに、情報が溢れ返っている状態である。そして、溢れる情報は我々の感情を見事に左右している。

日々、我々が触れるニュース。その多くは、ネガティブな感情を発生させる内容なのではないだろうか。ソーシャルネットワーク(SNS)でも、恐怖を煽るような情報発信は少なくない。

確かに、自己防衛の観点から、ノー天気な無防備にならないためにも、適度に恐れる必要はある。ただ個人的には、その恐れの感情に揺り動かされる必要はないと思っている。まずは冷静に、類似する過去の事例を考察することである。

戦争も、過去幾度となく繰り返されてきた。その度に、一般市民は何の理由もなく巻き込まれ、凄惨な最後を迎える・・・、そんな事例は絶えることがない。とりわけ、情報が瞬時に映像とともに届けられる現代では、なお一層過去の負の歴史を繰り返す人類の愚かさと、今の時代を重ね合わせる必要があるのではないだろうか。

再び繰り返されることを、リアルに感じ取るために。

戦争。それは、国家の大義と思惑や、自国の内情(ヒエラルキーとイデオロギーが織りなす内部抗争や騙し合い)が、したくもない戦争を「せざるをえない状況」にまで発展させるのかもしれない。

さらに、国家間による戦争だけではなく・・・。

紛争や争い・・・。それは規模が違うだけで、まさに我々に身近な家庭事情や、ご近所付き合いも同じなのではないだろうか。ウチの家は健康で平和に暮らしているが、お隣さんは毎日うるさく喧嘩が絶えない。さらには喧嘩の騒音だけでなく、物が飛んで来たり、うっかり玄関先で隣の住人と出くわすと眼光鋭く睨まれる、などなど。それでも、回覧板は回さねばならず、お隣さんの家へ足を運ばざるをえない。

そんな、水と油のように混ざり合うことのない現状に対して、どうしても交わらざるをえない状況もある。回覧板を届ける・・・、ただ、そのために。

しかし、ここで「間違えてはいけない」ことがある。それは・・・、お隣さんは、お隣さんなりに、「家庭内の問題を抱えながら、喧嘩しながら何かを学んでいる」ということである。

だから、堂々と喧嘩していない静かな時を選んで、回覧板を届ければいいのである。冷たいように思えるかもしれないが、ただ届けて終わりにすればいいのである。

私、あなた、そして彼ら、皆それぞれ現世で学ぶ目的は違う。

これまでの人生を振り返り、「自分は現世で何を学ぼうとして生きているのだろうか」、この疑問を素直に受け入れられる自分かどうか。そこにこそ、二極化の分かれ目があるように感じるのである。



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