ヨルシカの春泥棒について考えたこと

ヨルシカさんの春泥棒の歌詞やMVについて考察したことです。

春泥棒は、春泥という語に繋がる気がしました。春の泥濘ぬかるみの事らしいです。
泥濘や混沌から命は生まれるので、
春泥棒は、命を奪うものでもあり、命を生むものでもある気がします。
「花散らせ今吹くこの嵐は まさに春泥棒」は、次の花を咲かせるのに必要な嵐(春泥棒)でもあるのかなと。
『又三郎』での風や嵐も、生み出すもの、という風に取れますし。

「花散らせ今吹くこの嵐」が春泥棒なので、
『又三郎』の青嵐=青春泥棒 と取れます。

恋することを「春が来た」とも表現します。
春泥棒は、恋泥棒でもあるのかなと。
盗作おじさんが一番最初に盗んだものは、妻の心なのかもしれません。


写真は1葉2葉とも数えるので、葉=写真とすると、
「ただ葉が残るだけ」は、写真だけが残ったと思えます。
瞬き=フラッシュの瞬きとすれば、
「瞬きさえ億劫」は、写真を撮るのが億劫と取れますし。

最後の歌詞の「春仕舞い」は、春一枚、とも聴こえます。
MVも桜の花一枚が舞って終わるので、MVに合ってる気がします。


狐や狸が化ける時に葉っぱを使う物語がよくあるので、
「ただ葉が残るだけ」は、化かされた気持ちと取れます。
君と花を見た春が、過去の幻のようになってしまったから「葉が残るだけ」なのかなと。
「花」から「化」がなくなり、「艹」(葉)が残るという。

「桜」から「女」を引くと「ツ木」が残ります。
ツ木=つき=月
春泥棒で妻(女)がいなくなったから、桜が月(ツ木)になって『嘘月』に繋がるのかなと。
本当は良い桜を二人で見たかったけれど、「良い月を一人で見てる」と。

春泥棒MVの説明「命を桜に喩えます。」の命を盗作おじさんとすると、
おじさんの人生から妻がいなくなる=桜から女がなくなる=ツ木(嘘月) と取れます。

「桜」の花部分を女、葉部分をツ、幹や枝部分を木とすると
葉桜=ツ木(花のない桜)=つき(月)
「葉が残るだけ」の桜を月に見立てた嘘の月、嘘月かなと。

「ただ葉が残るだけ」=言葉だけ残る
嘘月=言葉(嘘)で出来た月
とも思え、桜の花が散って嘘月(ツ木)だけ残ったと。


「ただ葉が残るだけ」は言葉が残るだけと取れます。
「愛を歌えば言葉足らず」「花開いた今を言葉如きが語れるものか」とあるので、
愛=花=言葉に出来ないもの なのかなと。
桜の花びらはピンクのハート形ですし、愛のカタチに見えます。

「名残るように時間が散っていく」とあります。
二人が言葉にせずとも共有できていた花(愛)は散り、名だけ残る、言葉だけ残るのかなと。

この曲の花見は、言葉に出来ないもの(愛)を共有する事だと感じます。
言葉に込もっていた愛(花)は時間に散らされて、
妻の言葉は覚えていても、どんな声だったか忘れてしまうのかなと。


「名残るように時間が散っていく」は「春吹雪」から名残雪、
時間(命)を喩えた桜を、更に雪に喩えていると取れますが、
名残の語源は波残なみのこりなので時間を波に喩えたとも思えて、月光浴の「波」に繋がります。
月光浴も月日(時間)を喩えている曲ですし。

月光浴は「波の向こう」の何かが名残惜しくて「少し寂しい」のかなと。
波残り(打ち寄せた波が引いたあと、まだあちこちに残っている海水など)を足して、
わからなかったこと、忘れたものを思い出そうとしていると感じました。


「今日さえ明日過去に変わる」に「い」を足すと、
今日さえ愛した過去に変わる になります。
「愛を歌えば言葉足らず 踏む韻さえ億劫」で「い」(韻)が足りなかった、と思える気がしました。
「花開いた今を言葉如きが語れるものか」、
語れるものではないから、愛したが明日(今じゃないもの)になったとか。


詩書きとコーヒー「冷めた目で愛を語るようになっていた」と、
春泥棒「愛を歌えば言葉足らず~花開いた今を言葉如きが語れるものか」は対比になっていそうです。
温かい春が来て「冷めた目」じゃなくなるのかなと。


『風を食む』の「桜の散りぬるを眺む」は、春泥棒の事に思えます。
「散りぬるを」は、いろは歌「いろはにほへとちりぬるを」の引用でしょう。
いろは歌は仮名を一度ずつ使ったものなので、言葉の比喩と取れそうです。
桜を散らして葉(言葉)だけにする風なのかなと。

いろは歌の内容は、命を花に喩えていると解釈できるので、
命を桜に喩えた春泥棒は、いろは歌を意識している気がしました。


『チノカテ』に繋げて考えます。
白い花が枯れて、心は文字の中、言葉になってしまったのかなと。
本を捨てるのは、花の枯れた後に残った葉(言葉)を捨てる、と取れます。
言葉だけになった心を捨てて、心を変える為に町へ出るのかなと。
白い花=余白 とすると、
白い花が枯れた=余白が無くなり言葉だけになった と思えます。

春泥棒の「花開いた今」=花火ライター今 とすると、
今を言葉如きが語れないから、451のように言葉を燃やして昇華したと思えます。
春泥棒MVに花火出てきますし。



『創作』は想咲く(そうさく)、桜の想い出が咲いていると取れます。
「花見は僕らだけ」だった情景を想ってるのかなと。
創作を複数形にすると創作ら、そうさくら、saw桜(桜を見ていた)です。

春泥棒の次の曲『創作』に歌詞がないのは、花開いた今を言葉如きが語れないからかなと。

嘘月の「ただ染まった頬を想った」は「何か頬に付く」(春泥棒)、つまり桜に染まる頬を想ったと取れて、
創作=想咲く(そうさく) に繋がる気がしました。


『強盗と花束』に「強盗と花束に何かの違いがあるのですか」とあります。
札束を盗むのが強盗で、
花束を盗むのが春泥棒なのかもしれません。


春泥棒MVの説明は「命を桜に喩えます。」なので、
花だけではなく、桜全体で命なのかなと。
散って葉桜になってもまた来年花を咲かせる事は、ヨルシカ作品内で人が生まれ変わる事に対応する気がしました。

「瞬きさえ億劫」は、瞬きの一瞬を長い時間に感じた、とも取れます。
「億劫」という言葉は元々、非常に長い時間という意味なので。
命(人生)を桜の儚さへ喩える事に、合っているなと思います。


夜行の「花風、揺られや一輪草言葉は何にもいらないから」は、
春泥棒「言葉如きが語れるものか」に繋がるのかなと。
「花風」は桜花を散らすように吹く風の事で、春泥棒を連想します。
「うちとけて一輪草の中にいる」時に言葉はいらない、言葉で語る必要もないのかなと思いました。


春泥棒と藍二乗は、2曲とも歌詞に「高架」があります。
iの2乗(藍二乗)は「君が引かれてる0の下」で、「高架下」は君がいない場所と取れます。
「高架橋を抜けたら道の先に君が覗いた」
春泥棒では「浅い正午 高架下、藍二乗」を抜け(高架橋を抜け)、君に会いに行ったのかなと。

四季が巡り春が何度も来ること、
生まれ変わりの循環の中で何度も君に会うこと、
複素数平面の単位円上をiのr乗(rは実数)がぐるぐる回ること、が対応してると思いました。

以上です。
お読みいただきありがとうございました。