ヨルシカの月光浴について考えたこと

ヨルシカの月光浴の、主に歌詞についての考察です。


「光陰矢の如し」の光陰は月日の事で 光=日 陰=月 なので、
月光浴→月日浴→月日(=光陰)を浴びる と思えます。

月光浴が月日の月なのは、 松尾芭蕉のおくのほそ道序文「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」を連想しました。(エルマの日記で松尾芭蕉について触れられています)
月光浴「貴方の足が月を蹴った」は、芭蕉のように人生という名の旅に出たのかなと。
この序文は李白の「光陰は百代の過客なり」を踏まえているので、
光陰=月日、つまり月日を月光と言い換える事に繋がります。

月光浴「岩の隙間に何かあった」は井伏鱒二の『山椒魚』を連想します。
エルマとエイミーの物語も『山椒魚』を意識したものですし。


「白い砂が夜灯みたいだ」は、砂時計の砂(≒秒)と思えます。
日々が集まって月日になるように、白い砂が集まって月になるのかなと。
月の中の日々が月日なら、
夜灯みたいな白々(砂や身体)は月白になりそうです。
n-bunaさんの『白ゆき』MVの駅名が月白で、『月を歩いている』初回版の絵本も月白文庫だったので、月白という言葉が意識されてる気がしました。
「月日」に1を足すと「月白」になります。
月白は、月の出ようとするとき、東の空が白んで明るく見えることです。
月光浴のラスト「月が眩しい」は、月白を見ていたのかもしれません。

「足している分だけ過ぎて」の「分」を時間の分とすると、
足している 分だけ過ぎて
で、時間だけが過ぎていく、とも思えます。


「月を跨ぐ 身体は夜灯みたいに白く」の「しろく」から、四六時中の四六しろくを連想しました。
四六時中=一日中 で、
「白」という字を分解すると「一日」になりますし。
睡眠時にも生命活動をする身体は、夜を照らす灯みたいです。
四六時中灯があるように、身体は四六時中生きているんだなと。

「月を跨ぐ身体」をカレンダー(月日)の月を跨ぐと取ると、日を跨ぐ時でもあるので深夜の身体と取れます。



n-bunaさんのコメント「僕たちは常に月の中にいます」は、日常ならぬ月常と思えます。
日単位ではなく月単位、長い目で見て日常を過ごすのかなと。
月光浴は、月を経由することで日光を遠回りして浴びる、ゆったりと光を浴びると取れますし。

「貴方の足が月を蹴った」を月の外へ出たと取ると、
貴方は暦(月日)の外へ出た、亡くなったとも思えます。
僕たちが日々浴びている光は、もういない、星になった人の光なのかなと。
「夜灯」を、亡くなった(夜になった)人達の発明の光とすると、
歴史(月日)の中に消えていった人の発明の恩恵を受けてるから、月光浴なのかもと思いました。
日進月歩の文明の光であると。

『大雪海のカイナ』スペシャルPVでの、「月日と誰かが言った」の「誰」のフォントが「言亡」の形に見えました。
月日と言った誰かは、昔の人だからもう亡くなってるのだろうと思います。


「僕らは泳いでいるんだろうか」は宇宙遊泳に掛かっていそうです。
地球を離れ月の軌道の外側へ行っても、
月日の中という意味では、月の中にいます。
ラストの「月が眩しい」は、地球で月を見た想い出が眩しいのかなと。


「月を跨ぐ」→来月に行く→みそかを跨ぐ と取れます。
「月の束が氷雨」なら、月日が集まれば海になりそうです。
晦と海は似ていて、晦を跨ぐ≒海を跨ぐ で、「月を蹴った」が「水を蹴った」になるのかなと。



月+日=明 と思えます。
日に月日(過去)を足して明日(未来)にする、
月日を踏まえて(月を蹴って)明日に繋げるのかなと。
「足して」の足は、「貴方の足が月を蹴った」の足に繋がりますし。

月日を重ねて明るい=月が眩しい とも取れます。
もし月日(過去)を忘れたら、真っ暗な場所にいる気分だと思います。
月日の明るさが、夜灯みたいに闇を照らしてくれているのかなと。


月明かりの「月明」は月が向かい合っていて、ヨルシカのロゴマークっぽいと思います。
月光浴MVには、向かう合う月光の中にいる二人の場面があります。
月と月が挟んだ日=月の中の日 と取ると「月の中を生きる日々」で、
月明(げつめい)は月の明るいことなので、「月が眩しい」に繋がります。


一日をついたちと読むのは、月立つきたちが由来なので、
月光浴の「足して」は、一を足す事でも、月を足す事でもある気がします。

「足して、忘れて」は月日の細部を忘れて、抽象的な数字になってしまったのかなと。
MVでも数字が降っていますし、
数字(順位等)を気にし過ぎて大事なものを忘れてしまった、と思いました。


MVの数字が降る描写は、
ゼロという字に、水滴が落ちるという意味があるのを連想します。
降の右部分(夅)は足の象形らしいので、
「足して」という歌詞の「足」は、降る事に繋がると思いました。
数を足すことを、降る数字で表現したのかなと。
月日を足で踏む≒月日を足す≒月日が降る
「貴方の足が月を蹴った」から「月の束」が氷雨みたいに降ってくると。



月光浴MV2分15秒の、海に沈む数字が(7に増えず)6のままなのは、
ヨルシカのロゴマーク「6時から夜」を連想しました。
MVの公開時刻も夜6時ですし。
「夜しかもう眠れずに」だから、6になって海底に眠ると。
そこから「足して」いく事で12(正午)になり陸へ上がる、生まれ変わるのかなと思いました。

氷の結晶の六角形も連想しました。
「月の束が氷雨みたいだ」とありますし。
氷みたいに眠る≒冬眠≒海底に眠る
氷に温度を足して溶ける、春になり目覚めるのかなと。
雪には六花という別称があり、雪国の花韮も6枚の白い花びらがあります。

夜6時に眠る≒六角形(氷の結晶)になり眠る≒冬眠 と取れます。
冬眠「冬になって長い眠りについたあとに雲に乗って」で氷の粒になって、
「春になって~深い眠りが覚めた頃に水になって」で溶けて水になったと。

6→ろく→ロック
6時から夜
夜しかもう眠れずに→ロックでしか眠れない
眠る→永眠(エイミー) とすると、
八月某の「あの世ではロックンロールが流れてるんだ」に繋がります。

月光浴「岩の隙間に何かあった」 =ロックの隙間に何かあった
MVではこの時エメラルドっぽい石を拾っています。
エイミーの遺したロックンロールの中に花緑青(エメラルドグリーン)、つまり涙、この世からいなくなった理由を見つけて「少し苦しい」のかなと。



「夜の海」は、月の海と呼ばれる、月面の黒い場所にも思えます。
月の海は玄武岩でクレーター(穴)が埋まったものらしいので、
「岩の隙間に何かあった」は、月に空いた穴(≒心に空いた穴)があったとか。

「足して、忘れて」は、
月の穴を、岩を足して埋める、
心の穴を時間が埋めてくれるのかなと。
過去に穴があった事を忘れていくという。
「増える月日の上で」は、月の海(玄武岩)の上とも取れます。

月の海には『氷の海』『雨の海』という名称のものがあり、「月の束が氷雨みたいだ」を連想しました。『波の海』もあります。
『賢者の海』は月光浴が主題歌の『大雪海のカイナ ほしのけんじゃ』と名前が似ています。

海みたいだから『月の海』と誰かが名付けたように、「月の中を生きる日々を月日と誰かが言った」のかなと思いました。



1番サビの「足して、足して、」を
「、」を2つ足す=「゛」(濁点)を足す と取ると
すこし寂しい が すごし寂しい
過ごし寂しい になります。
「足している分だけ過ぎて」とありますし。
「少し」が足されていく過ごし方なのかなと。

2番サビは、
「足して」→+
「足して重ねて」→++→艹
「足して、足している分だけ過ぎて」→プラマイゼロ→0→口
「艹」「+」「口」を合体すると「苦」です。
2番サビ前の「少し苦しい」に繋がると思いました。

「苦」の古を新にすると、薪です。
苦しさを薪(燃料)にして今を生きるのかなと。
さびしいがさび(緑青)になって涙(花緑青)になる、とも思えます。


「足して重ねて」→かかと
「足している分だけ過ぎて」→歩いた分踵がすり減る
踵がすり減って足がなくなり、足のない「魚の僕」になったのかなと。
きびすを返し、人間が魚だった頃に戻ると。

「夜の海を二人歩いた」
ふたり→ふ足り で、
を足して、月日を歩いて二人になろうと(貴方に会おうと)してる気がしました。


「波の向こうに何かあった」
73なみの向こうに74無しがあった
何も無しなのに、何かを見てしまうほど「寂しい」。
または、
73なみの向こうに72なにがあった
足して増える月日の上で、
74の今から、73や72という過去を振り返っているとも取れます。
過去を忘れていくことが「少し寂しい」と。

「岩の隙間に何かあった」
=1(い)と0(輪=わ)の間に何かあった
1とも0とも言えない何か、言い表せない想いがあって「苦しい」
と取れます。

五十音表で「い」と「わ」の中間辺りに「なに」がある事も連想します。
い→2番目 わ→43番目
な、に→21番目、22番目

「言わば月光浴だろうか」=岩場月光浴だろうか とすると、「岩の隙間に何かあった」に繋がります。
「それが何かわからなかった」から「月光浴」と名付けたのかなと。

「隙」の小と小の間に「日」が、
「間」の間に「日」があります。
「岩の隙間に何かあった」は、日(日差し、日々)があったのかなと。
岩の隙間から月明かりのような日が差すという。
氷雨みたいな月の束を岩とすると、年月の隙間に1日があるとも取れます。

「岩の隙間に何かあった」は、
岩の間→違和いわかん違和感いわかん と取れます。
「足して重ねて」=岩を積み重ねる
積み重ねた年月(岩)の隙間に、忘れた日があって「少し苦しい」、違和感があったのかなと思いました。

「阿吽の呼吸」に少し足りない二人の呼吸は、岩の呼吸かなと。
「あ」から「ん」には足りない、「い」から「わ」
阿吽の呼吸ほどの息ぴったりではなく、違和(岩)があるという。
「少し苦しい」=息が苦しい
「魚の僕」が息を吸って気付くラストは、言葉もなく意思疎通(阿吽の呼吸)ができる、テレパシーで伝わるから『テレパス』っぽいピアノが流れる気がしました。

「足して、溢れて」は、
日の光で水が涸れることの逆で、
月光では水が溢れるのかなと。



足し算の繰り返しが掛け算になるように、 繰り返す「足して」が「重ねて」になる気がします。
1分1秒を足し続ける事が、月日を重ねる事であると。

「足して」は引いての逆、引力の逆と取れます。
「貴方の足が月を蹴った」は月の引力に逆らったのかなと。
重ねる→重力 とすると、
引力に逆らう事(足し算)の繰り返しが重力になってしまうと取れて、
掛け合わせると負になる虚数i、藍二乗を連想しました。
藍二乗=マイナス1(君が引かれてる0の下)=エイミーが沈んだ海底 と思うと、
月光浴「僕らは泳いでいるんだろうか」に繋がりますし。
足すことでマイナス1から上へ、魚の状態から足が足されて陸へ行くと。



月光浴のジャケットビジュアルには水と魚と月がいて、
「水清ければ魚棲まず」「水清ければ月宿る」という言葉を連想しました。
魚は水ではなく宙を泳いでいて、
月は水に浸かっているようにも見えるので。

時が過ぎる=時を足し過ぎて溢れる=忘れる と思えます。
イラストでの「水清ければ月宿る」場所に想い出の美化された貴方がいて、
「水清ければ魚棲まず」、清い水から離れた今の自分が、想い出の(細部を忘れて)綺麗になった貴方を見ているのかなと。

波の向こうの何かがわからないのは、時が過ぎて忘れてしまったからと取れます。
イラストでは波の向こうに月があるので、忘れた日々=月 かなと。
「月の中で過ごす僕ら」は、忘れた記憶と共に過ごすとも、いつか想い出になる(忘れられ美化される)日々の中にいるとも思えます。
次第に過去を日単位ではなく月単位や年単位でしか想い出せなくなっていくから、日光浴ではなく月光浴なのだと感じました。

イラストの椅子が一つなのは、定員が一人で、足しただけ溢れてしまう、と取れます。
溢れてしまった誰かを、波の向こう、月の向こうに見ているのかなと。
月や波が額縁の中、絵の中みたいになっているのは、
過ぎ去った月日(想い出)がフィクションみたいに綺麗って事に思いました。
過去は、今にとってはフィクションに近いですし。
絵の中の月は嘘の月、嘘月と取れます。

「白い砂」→砂のしろ(白=城)→砂上の楼閣
(砂の城を)貴方は築いているんだろうか と取れます。
MVにも砂上の城が出て来ます。
砂上の楼閣のような虚構(フィクション)が波の向こうに流される、
月日は砂の城のように、波に流されていくのかなと。

「浴びる」は、水にも光にも使う言葉です。
嘘月の「バケツ一杯の月光を呑んでる」は、月光を浴びるように呑んだのかなと。
月光=月日 とすると、
「月光を呑んでる」=想い出(月日)を呑んでる と取れます。
君の想い出を嚙み締めてる、という。
嘘月→嘘の月日 で、君との月日が夜に消える、嘘(虚構フィクション)になってしまうのかなと思いました。

嘘月という曲名は、嘘吐きの吐きを月に変換しています。
吐き=月 とすると、
月光浴「魚の僕は息を吸った」の後の「月が眩しい」は、吐いた息が眩しいのかなと思いました。
吐いた息が夜灯みたいに白く、月のように眩しい。
息を吐き吸わないと生きられないから「月の中で過ごす僕ら」であると。


「魚の僕は息を吸った」は、
魚の目に水見えず人の目に空見えず(身近すぎると大切さに気付けない)
という言葉を連想します。
「貴方もようやく気が付いた」は、月日という身近な物の大切さに気付いたのかなと。「月が眩しい」と続きますし。


「波の向こうに何かあった」
「波を待つ 月を跨ぐ」
波≒並み で、月並みという語を連想しました。
月並みな日々の中で何かを待ってるのかなと。
月並は元々「毎月の恒例」という意味なので、「月の中を生きる日々」だと言えます。

「月並」を今の意味で使い始めたのは正岡子規で、
「波」に掛けて歌語として用いられるらしいです。
「身体は夜灯みたいに白く」は、句を書く余白と取れます。
「月の中で過ごす僕ら」は月並みから抜け出せない(創作は盗作の延長にしか存在しない)けれど、
最後の「月が眩しい」で、月並みを愛せるようになったのかなと思います。


「貴方の足が月を蹴った」→踏み付き→文月ふみつき と連想しました。
嘘吐きを嘘月と変換する事に似ていますし。
文月という語の由来は七夕だという説があります。
「白い砂が夜灯みたいだ」は、天の川の星を川の砂に見立てて、
「僕らは泳いでいるんだろうか」は天の川を渡る二人の事かなと。
MVの6まで増えて沈む数字の後、7月7日になって再会するとか。


「氷雨」は、夏の季語としては雹や霰の事です。
「月の束が氷雨みたいだ」は、左右盲「夏に舞う雹」「夜の日差し」を連想しました。
秋の季語「月の氷」(月の光が氷のようであること)も意識されてそうで、
月日に関する曲なので、春夏秋冬どれにも取れるようにしてる気はします。

「月の束が氷雨みたいだ」は、
月日が凍り付いたようだ、時が止まったみたいだ、とも取れます。
想い出の中で立ち止まっているのかなと。
「僕らの足が水を蹴った」で氷が溶けて水になり、時がまた流れ出す気がしました。
「僕らは泳いでいるんだろうか」は、時の流れを泳いでいると思えます。
さかなの僕は、月日の最中さなかにいるのかなと。
「月が眩しい」は、月の真っ盛り、最中であると思いました。

線状に見える降り注ぐ雨を「雨足」と言います。
「月の束が氷雨みたいだ」は月の雨足と取れる気がしました。
月の束を浴びる=月の雨足で溢れる=月を足す
「夜の海を二人歩いた」の時、雨足みたいになった月の光も、二人と一緒に歩いたのかなと。


氷の白い部分は、空気等らしいです。
「貴方は気付いて」の前の「白い砂が夜灯みたい」「月の束が氷雨みたい」は、氷の中の空気が白いのかなと。
「身体は夜灯みたいに白く」は水中から空気の泡のように浮上していくと。
「魚の僕は息を吸った」の時MVで泡が映るので、貴方は僕の息(空気)に気付いたと取れます。
「月が眩しい」は、氷の中の息、月の中を生き(息)る日々がキラキラしてたのかなと思いました。



「眩」は、目がくらむ等で「くら」とも読みます。
「月が眩しい」=月がくらしい=月が暮らし でもある気がしました。
月の中を生きる、日々の暮らしが眩しいと。

「月の中を生きる日々」の漢字(月中生日日)を並び替えると、
日中星月 になります。
日中(昼間)にも星と月がみえるのかもしれません。
「月の中で過ごす僕ら」は、月を夜に限らずにずっと在る物としてますし。

貴方は気付きづいているんだろうか
貴方はつきいているんだろうか
貴方は月 居てるんだろうか
と変換できます。
貴方は自分が月の中に居る事に「ようやく気が付いた」、月に気付いたから最後が「月が眩しい」なのかなと。
貴方は気付いているんだ老化ろうか と取ると、月日が経ったと思えます。


「白」という字は、白骨化した頭蓋骨の象形だという説があります。
「身体は夜灯みたいに白く」=白骨になる
「白い砂が夜灯みたいだ」=砂になった骨
「月」=にくづき とすると、
月を足す→白骨に肉を付ける
白骨からの復活、生まれ変わりを表している気がしました。

月光を浴びて身体が夜灯みたいに漂白され、夜の海を漂泊したと取れます。
月日が過ぎ(月光を浴び)身体が白い骨になる
=月日を足して月(にくづき)を失う
=「足して、忘れて」 と思いました。

漢字的にも「月の中で過ごす」と骨になる気がします。
骨=冎(ほね)+月(にくづき)
身体にくづきが夜灯みたいな白い骨になる、亡くなってお星様(夜灯)になったと。
その後の「足して、忘れて」は、前世の心を亡くなって忘れて、魚に生まれ変わるとか。
蝸牛やノーチラス(オウム貝)の渦のように過ごす、輪廻を巡ると。

「白」い身体に「一」を足して「百」になり、
貴方と、魚として再会できたのかなと思います。
百日紅の伝説や第一夜の百年で、花として再会したと取れるように。


「足して重ねて」は足跡を重ねる、時計や暦や輪廻の上で何周も積み重ねると取れます。
「足している分だけ増える月日の上で」は、螺旋階段のように回りながら上へ登っていくと。
螺旋はDNAも連想できて、胎内で魚から人へ進化する胎児や、運命的(本能的?)に巡り合う二人に掛かる気がしました。
日々が描く螺旋の影をオウム貝(ノーチラス)の渦巻きと取ると、曲と曲が繋がって面白いなと思いました。


p進数での-1が全ての桁が一番大きい数(十進で言うと-1=…999)なのは、
1を足し続けると-1や0に戻るみたいで、数が円を描いているようです。
月光浴の「足して」は、時を足し続けて元の場所(0)に戻る感じがしました。
時計も四季も円形に配置されますし、月日は月のように回ってるのかなと。


夜灯は夜の暗さを奪っていると取れて、夜盗やとうと思えます。
月光浴「月が眩しい」の眩しさも、闇を奪う夜盗だと取れます。
「強盗と花束に何かの違いがあるのですか」のように言うと、
 夜盗と月束に何かの違いがあるのですか なのかなと。

「夜しかもう眠れずに」を踏まえると、眩しい月は眠りを奪うと取れます。
魚は目を開けて眠るので「魚の僕」は月に気付くけれど、
夜に目を閉じる貴方は夢の中で蹴った月や、氷雨みたいな月の束に気付かない。
最後に貴方がようやく気付くのは、
いつもより眩しい月が貴方の眠りを遮り、魚の僕に出会わせたのかなと。



月光浴げっこうよくの語呂は、血行良けっこうよくや健康食けんこうしょくに似ています。
この曲での月光浴は健康的なものとして書かれている気がするので、合うと思いました。

「月の中で過ごす僕ら」
=つ ぼくら き
=つぼ くらき
=壺暗き
魚の僕は、暗い壺の中から月光を見ているのかなと。

「足して」を逆にすると てした=手下 です。
  少し寂しい
  手下、手下、溢れて
  手下、手下いる分だけ好きって
という事かもと思いました。
寂しいから手下を作り、好きって言わせるという。

月に1を足すと「用」になります。
月に「足して、足して」をすると、用を足す。
用を足した結果溢れたのかなと。
「足して重ねて」は、用をクロスさせてるとか。
クロスは×で、足し算を重ねる(繰り返す)と掛け算になることに対応する気がしました。

「貴方の足が月を蹴った」とあるので、
「足して」は足蹴あしげに掛かっているように思います。

サビの歌い方が、
足してええええいいええええええい永遠
という風に聴こえました。



月光浴を人魚姫っぽく取ると、
「魚の僕」は人魚
「貴方」は人魚が恋した人 と思えます。
人魚は、声を失うのと引換えに足を手に入れます。
「魚の僕は息を吸った」は肺呼吸、人になったと取れて、
ラストは声を使わずテレパシーで通じ合うから、テレパスに似たピアノなのかなと。
suisさんのラストの低めの声は、テレパシー越しの心の声に思えました。
「月が眩しい」を「月が綺麗ですね」に似たものだと思うと、
「月が綺麗ですね」は直球の言葉にせず伝える事の美学なので、テレパシーに繋がります。



「貴方の足が月を蹴った」は、胎児が母のお腹を蹴ることを連想しました。
胎内を漂う子は宇宙飛行士みたいですし。
月経周期の浴室(子宮)で陣痛の波(生まれる日)を待つ
=十月十日の中で朝を待つ と想像しました。
「足して」=たすじゅう で、
月日を足す=+月+日=十月十日=朝 かなと。

魚は肺呼吸しないので、「魚の僕は息を吸った」は魚じゃなくなりつつあると思えます。
羊水を泳いでいた(魚に近い状態の)胎児が、産まれた瞬間に息を吸った場面かなと。
ラストの歌詞「月が眩しい」は、この世に産まれた時の眩しさという。
「足して」は「足」に掛かっていると思います。
「足して」=魚に足が生える で、
海(胎内)にいた魚(胎児)に足が足されて陸(胎外)に出たと。
魚のような状態から人になる胎児の急速な成長は、日進月歩と言えます。

月光浴→月こーよく→月子およぐ→月子泳ぐ と連想できます。

月にいた時=胎内で前世の夢を見ていた時=魚だった頃 で、
想い出が眩しい(綺麗に見える)=忘れた前世が月のように眩しい
と思えます。
最後suisさんの歌声が変わるのは、「僕」が生まれ変わって前世と違う人格になったのかもと。

この世に産まれた時の光を「日の眩しさ」とすると、
「月が眩しい」はあの世への眩しさ、走馬燈の眩しさとも取れます。
うは目が回るという意味なので、
「月が眩しい」は月に目が回って、廻る、輪廻転生するとか。

「月日」を「生」きると書いて腥です。
魚はなまぐさいので、月光浴のテーマに合っていると思いました。

月=にくづき=肉(身体) とすると、
「月の中で過ごす僕ら」は、自らの身体の中で過ごす心だと思えます。
「身体は夜灯みたいに白く」=月は夜灯みたいに白く で、
「月を跨ぐ」は肉体を乗り越え、輪廻転生すると。

月(身体)を跨いで何かが届くと取ると、テレパシーみたいです。
「波を待つ」→電波を待つ→テレパシーを待つ
最後の「月が眩しい」辺りで『テレパス』に似たピアノが流れます。
テレパシーを受信した身体(背びれ)が夜灯みたいに光るのを、月の眩しさに例えてるのかもと思いました。
魚と人がテレパシーで会話している光であると。

「海」という字には毎日の「毎」があります。
足場のない闇を歩く(泳ぐ)ような毎日を「夜の海」と言ってる気がします。
重力の弱い月を蹴っているような、足場の頼りない毎日であると。
暗闇に灯した救助信号が「夜灯」で、
ラストで貴方はSOSに気が付いた、テレパシーがようやく届いたのかなと。



月光浴MVラストの、魚に指を合わせるのはE.T.のポスターオマージュかなと。背景に月がありますし。
テレパスという語も、E.T.を連想します。
「八月某、月明かり、自転車で飛んで」もE.T.っぽいです。
MVの部屋に『だから僕は音楽を辞めた』の写真が飾ってあって、
金魚鉢に入れたエメラルドグリーンは花緑青、エイミーが生まれ変わった魚かなと。


「波」から、月の引力でも波ができる事を連想します。
「波の向こうに何かあった」=波を作る何か(月)があった という。
月光DVD冒頭の「遥か上には表現の波が泡立つ」を踏まえると、
「波の向こう」=表現の向こう と思えます。
表現の向こうに作者の影を見る、
波の向こうに月や太陽(日)の影を見るのかなと。


月光浴「白い砂」「波の向こう」から、白波(泡立って白く見える波)を連想しました。
月光DVD冒頭の「遥か上には表現の波が泡立つ」も白波と思えます。
「水面の月光に手を伸ばし」とあるので、
エイミーがエルマの詩に月明かりを見たように、
白波の向こう、表現の向こうには月光があるのかなと。

波の白い泡の正体はプランクトンなので、
「言葉のオキアミを飲み込んでいる」は表現の波を食べていると取れます。
白波には盗賊という意味があります。
「表現の波が泡立つ」は、表現は盗作とそう変わらないとも取れ、アルバム『盗作』に繋がると思いました。
「白い砂が夜灯みたいだ」の夜灯は、夜盗やとうでもあると。

白波には波の花という呼び方もあって、
波の花には塩という意味があります。
テレパス「溢れた塩の瓶」を波の花、白波と思うと、
月光浴の「白い砂」「波」「夜の海」に繋がると思いました。
テレパスの「僕」は「どう言えばいい」かがわからなくて、表現を探してたのかなと。

月光浴「白い砂が夜灯みたいだ」「寂しい」「溢れて」は、
テレパス1番「白く降ってる」「寂しさ?」「溢れた塩の瓶」に似てます。
白い砂=夜灯=海中の塩
波の向こう=海面の上 と思えて、
夜灯は海底から見た月明かりでもあるのかなと。

「それが何かわからなかった」の後「少し寂しい」と言う月光浴と、
「どう言えばいい」かわからないものが「寂しさ」だと言われるテレパスは対応してそうです。
-1(君が引かれてる0の下)の海底から、
「足して」海の上(波の向こう)、あるいは白く降ってる空へ向かうと。



「欲」の字源は「何かが足らず体をかがめること」らしいです。
欲の「欠」に月光水(バケツ一杯の月光)を足すと「月光浴」になる気がしました。
欲+月光水-欠=月光水谷=月光浴 という。
『盗作』の本の穴が月光ソナタのカセットで埋まっていた事、盗作おじさんの穴が月光で満たされた事、
月光DVD冒頭の「欠けてしまった何かを探している」に繋がる気がします。

昼鳶の「何も無いから僕は欲しい この渇きを言い訳にさぁ」も、
月光で渇き(欲)が満たされれば、月光浴になるのかなと。
盗作(曲)の「何もかも失った後に見える夜は本当に綺麗」=月光で、
「何かが足りない」盗作おじさんを満たす=美足みたす(月光という美を足す)と思いました。

月光DVD冒頭の「遥か上には表現の波が泡立つ」「表現欲に終わりなんてない」「水面の月光に手を伸ばし」から、
欠けてしまった何かを探す
=水面に表現の波を立てる
=欲(表現欲)を満たそうとする
=水面の月光に手を伸ばす と思えて、
表現欲(「欠」を月光で満たしたいという欲)が月光浴になる気がしました。




天体の月と時間の月を同一視すると、
老人と海「想像力という重力の向こう」は月日の向こう、
想像力は過去の経験や未来への期待で生まれる、月日の力だと思えます。

繰り返す月日、巡る四季は時計の円のようです。
円の中に緩く縛られるのは、月の重力みたいだなと。
月光浴に「足して」「重ねて」とあります。
月日を重ねることが、重みになって、重力になる、
その重力によって四季は月のように巡るのかもしれません。

ヨルシカのロゴマークは時計であり「月と月が向かい合っているモチーフ」でもあるので、
月光浴はヨルシカのコンセプトど真ん中という感じがします。

ヨルシカでの輪廻(生まれ変わり)を円とすると、
老人と海「想像力という重力の向こう」は円(時計)の外、時間によって変化しない絶対的なものを目指す事のように思いました。
輪廻を巡って絶対的なもの(重力の向こう)を探すけれど、神様ではないから手に入らない事は確定しているのかなと。
芸術は相対的で、受け取る人によって価値が変わる気がします。
数学の定理などは絶対的(不変)だと思いますが、神様が元々用意していたものを発見しただけで、人間の発明品ではないように感じます。
人間は相対的なものを作るか、神様の作った絶対を発見する事しかできないからこそ、絶対(想像力という重力の向こう)に憧れるのかなと思いました。


月日は光陰とも言うので、月日=陰陽と思うと、
太極図、陰陽魚を連想します。月光浴には魚が出てきますし。
太極図の円を、ヨルシカは時計の円に見立てているのかなと。

太極図☯の黒の中の白、陰陽魚の目は、夜灯みたいな白と思えます。
「月を跨ぐ 身体は夜灯みたいに白く」は、
夜(陰)を跨いで朝(陽)へ向かう身体が、白く染まるのかなと。
「月の中を生きる日々」→月の中の日→陰の中の陽
「月が眩しい」の眩にはくろがあって、明るいの中に黒が含まれてる事に陰陽魚っぽさを感じました。



日が差す→日光を引く(引き算は差とも言うので) とすると、
月光を足すことは、日差しの対と取れます。
月光浴の「足して」は、斜陽の「茜が差した」に対応してるのかなと。
日には手が、月には足が触れています。
(「お日様に手が触れた」「貴方の足が月を蹴った」)
斜陽「お日様で手が濡れた」は、日光を水っぽく表現していて、
月光浴も月光を浴びるとすると、月光を水っぽく表現しています。

斜陽「落ちて行くように茜が差した」は、
茜が差し引かれて-1(夜、水面下)へ落ちて行くと思えます。
月光浴「足して」は逆に、引力に逆らって上っていくと。
斜陽MVの冒頭では水面下から光を見ていましたし、エイミーの物語にも合うなと思います。

「浴」には体をひたすという意味があるので、
海底で月明かりを見る=月光の浴槽につかる(月光浴) と取れます。

月を足して(月光浴)
日が差して(斜陽)
土曜の生活感を飲み掛けて(チノカテ)
幸せが¥(金)を含むのが割り切れない(ヒッチコックだから僕は音楽を辞めた)
という、加減乗除と曜日の対応を感じました。

「光」という漢字の成り立ちは「人の頭の上にひかる火」なので、
「月光浴」という文字列には、月と火と水(さんずい)が含まれています。
月曜と水曜の谷に落ちた、火曜の底へ沈んでいく人のようにも見えました。



「魚目」には(魚の目は宝石に似ているが価値は非常に劣るところから) 本物に似ているがつまらないものという意味があるらしいです。
月光浴MVのエメラルド(花緑青=涙)は「魚の僕」の涙と思える気がします。
嘘月「昔の僕は涙が宝石で出来てた」も嘘の宝石と取れますし。
月光浴「月の束が氷雨みたいだ」の氷雨は、涙(液体≒雨)が宝石(固体≒氷)みたいって事かなと。

月光浴MVには左右盲MVっぽい鉛筆が出てきます。
左右盲「この瞳からサファイア」も魚目、偽物の宝石なのかなと。
左右盲には「心を少しずつ剥がして君に渡して」とあり、心は宝石のような分かりやすい価値は付けられないですし。
左右盲MVとチノカテMVが対なので、
月光浴MVの「足して、忘れて」での枯れる植物は、チノカテの枯れた白い花を連想しました。
「夕陽を呑み込んだコップがルビーみたい」なら、
月光を呑んだ魚はサファイアな気がしました。


緑青は銅の錆なので、
花緑青は、造花の錆と取れる気がします。
左右盲「散らぬ牡丹」は、散らないけど錆びる、涙(花緑青)が出ると。
「涙も忘れるほどの幸福」ではないという。
左右盲のモチーフ元『幸福の王子』が像なので、造花と取れます。
花緑青の別名はエメラルドグリーンで、歌詞のルビーとサファイアに繋がります。

月光浴MVのエメラルド色の石は、
パワーストーンを月光浴で浄化する文化があるらしいので、それに繋がると思いました。
エメラルド→花緑青→銅の花 と連想できて、青い銅の花というパワーストーンがありますし。


過ぎていく時間を春泥棒、つまり泥棒だと認識していた人が、月光浴という穏やかな名前で呼べるようになったという感じがします。
音楽は時間芸術なので、曲名は曲が流れる時間の名前とも取れます。
春泥棒や月光浴は作中の物語に流れた時間の名前でもあり、その曲が現実に流れる時の名前でもあるのかなと思いました。

以上です。
お読みいただきありがとうございました。