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妻の死

彼女と僕は2011年2月10日に籍を入れて結婚し、その月に新居となるマンションに引っ越して一緒に暮らし始めた。

彼女と出会ってから約3カ月しか経っていなかった。

妻と僕はたまにレンタルDVD店から映画などのDVDを借りてきて一緒に観るのを楽しみにしていた。

いつもはレンタルDVD店へ行って二人で話し合って借りる映画を決めていたが、ある日、妻が東京の実家から持ってきたDVDの映画を観ることになった。

その映画は「クワイエットルームにようこそ」というタイトルの映画で、主人公がODを度々してしまう癖を持った女性で、そのために精神病院に入院し、そこを舞台にした人間ドラマだったが、その時は彼女がその映画を僕に観せた訳など知らなかった。

ある日、僕が外から帰ってくると妻はソファで寝ていた。

その時はとりわけ不審に思わなかったが、ずっと起きないしおかしいと思ってごみ箱を見たら何十錠もの薬の殻が入っていたので、すぐ事情を察知して電話で救急車を呼んだ。

救急隊が駆けつけて眠っている妻を担架に乗せ、一緒に救急車に乗って病院へ行き、妻は胃を洗浄するなどの処置を受け、一晩病院で寝て翌日家に戻った。

妻と結婚している間、そのような事が3度あったが、切っ掛けは喧嘩とも言えないような些細な事であった。

救急車で運ばれた先の病院は慈恵医大病院、東大病院、虎ノ門病院といずれも有名で大きな病院だった。

僕は妻と知り合う前から精神科から薬を貰って服用していたが、妻と知り合ってからは妻の通っている病院と同じ病院から薬を貰うようにしていた。

妻は病院を場所よりも自分の好みの医者で選ぶ性格だったので、遠いにも関わらず毎回一緒に行っていたが、その病院の妻の担当医と妻は長い付き合いらしかった。

妻はいつも一人で診察を受けていたが、僕が受診する時は一人ではなく妻も一緒に診察室に入って医師と話をするようになっていた。

ある日、たまたま妻がいなくて僕だけがその医師から診察を受ける機会があり、その際に妻のODの件を相談した。

その時、その医師から妻は「死ぬような飲み方はしない」と言われたので、妻を長い間知っている先生の言葉だったこともあり、素直に信じた。

妻と僕は近所の銭湯に行った後、道路を挟んだ向かいにある焼き鳥屋へ行くのを常としていたが、その日僕は機嫌が悪かった。

僕が機嫌が悪い理由は些細な事だったが、僕が毎日勉強を頑張っているのにろくに掃除もしないというような文句を妻に言ってしまった。

その焼き鳥屋へは入ったばかりだったので、まだ注文した焼き鳥が出される前だったが、妻は怒って「あたし帰る」と言い、一万円札をテーブルの上に置いて、「これで払って」と言い残して店を出て行った。

僕は「ちょっと待て」と言って店の外まで追いかけたが、諦めて店に戻り焼き鳥が焼けるまで待っていた。

15分程度待ってから焼き鳥が焼けたので家に持って帰ることにし、パックに入れて貰い、持って帰った。

家に帰ると妻がソファで寝ていて、沢山の薬の殻がごみ箱の中にあったが、あまり何度も救急車を呼ぶのは近所の体裁もあるし、前に医師から言われた言葉が頭にあったので、救急車を呼ばなかった。

妻はほぼ丸一日ソファの上で眠り続け、次の日の夕方やっと目を覚まし、その時最初に言った言葉は忘れたが、家にいる事を意外に思ったようだった。

そして、喉が渇いたと言ってスポーツドリンクを飲みたいと言ったので、僕は近所のコンビニまでスポーツドリンクを買いに行き、戻ってきて飲ませた。

妻は何も怒っている様子はなく、いつも通りであっけらかんとしていた。

僕はいつもと変わらない妻の様子にほっとして、シャワーを浴びるため浴室に入ってシャワーを浴びた。

その時、浴室の壁の向こうからちょっとどすんというような鈍い音が聞こえたような気がしたが、普通にシャワーを浴びてから浴室を出て、体をバスタオルで拭いてから服を着た。

その時、トイレからちょっと苦しそうな声で「助けて」という妻の声が聞こえたので、トイレの扉を開けると妻が便器に座ったまま頭を後ろの壁に着けて、後ろのほうに倒れたまま起き上がれないようだった。

多分、水分を取ったことで薬が体内で急に回り始めたのかもしれない。

そう思いながら妻の両手をしっかり掴んで、妻を起き上がらせようとした。

妻の体はトイレの外に出たが、立ち上がれず四つん這いのような恰好のまま動けずにいた。

その時、妻は「足が痛い」と言ったので、僕は「大丈夫か?」と言うしかなかったが、妻はそのまま動かなくなって床に横たわった。

僕は妻がまた眠ってしまったのだと思ったが、妻の胸をずっと凝視していても動かずに息をしていないように見えたので、すぐ携帯電話で救急車を呼んだ。

救急隊が到着するまでの間、ずっと電話は繋がったままで妻が今どういう状態で、どういう経緯でそうなったかなどを聞かれたので答え続けた。

救急隊が到着するまでちょっと長く感じたが、5人程度の救急隊員が到着すると一人が妻の胸に手を当てて心臓マッサージをし始めた。

その時、僕は救急隊の人に妻は助かるのか聞いたら、「心肺停止だからちょっと厳しいね」と言われ、その時初めて妻が深刻な状態だと悟り、救急隊の人に「お願いですから助けてください」とすがるように頼んだ。

妻は救急車に乗せられて病院へ運ばれることになり、一緒に乗って病院へ行った後、救命救急室の外の待合室で待っていてくれと言われたので、椅子に座って待っていると、背広を着た2人の刑事が来て簡単に事情を聞かれたので答えた。

それからそんなに時間が経たないうちに医師の一人がちょっと深刻な顔で僕のところに来て、「来てください」と言われたので救命救急室の中に入ると、妻の体が真ん中のベッドの上に載せられており、医師から「8時35分、ご臨終です」と告げられた。

その時、急に周りの景色が霞んで見え、目の前にある妻の遺体を目にしながらもぼんやり見えて、目にしている光景や自分の存在すらも現実とは思えないような感覚に包まれた。

妻の遺体が霊安室に運ばれた後もその前の地べたに座り、茫然としていた。

僕はその日、まだ真っ暗なうちに病院を出ると、心の中で「生きる」と呟いた。

どんな不幸な出来事に見舞われようが生きねば仕方ない。

生きるしかない。

その日、タクシーで家まで帰った。

2012年6月26日の事であった。

その後、警察から電話が掛かってきて呼び出され、警察の車両で警察署まで連れていかれ、「密室」での死ということで取調室で取り調べを受けた。

僕は自分の妻があっさり死んでしまった状況の中で色々疑われて質問されたので、腹が立って「刑事さんは仕事だというのは解りますけどね、僕は妻が死んだばかりでまだ何が何だかわからないのですよ。それなのにそんなに疑われたって困りますよ」と言い返した。

僕は人間というのはこんなにいとも簡単に死んでしまうのかということに呆気にとられていて、現実だと分かってはいても信じられなかった。

妻の両親とは何度か会ったことがあって電話番号も知っていた。

妻の死を知らせるのは非常に躊躇せざるを得ないことだったが、伝えるほかなかったので伝えると、電話の向こうの父親の声は驚いてもいないし、怒ってもいないように感じた。

ただ「ああ、そうか。わかった」というような言葉だけだったと記憶している。

妻の両親は年金で暮らしている老人で、母親は僕が妻と結婚している間に認知症のため施設に入り、父親はとても穏やかな性格の人で怒ったような顔は一度しか見たことがなかった。

それは妻の父親が振り込め詐欺の被害に遭った時、僕が犯人だと疑われた時だった。

妻の遺体は監察医務院で解剖されたが死因は特定できず、「不詳の死」ということになった。

妻の葬儀の手配は僕が一人でやり、小さな葬儀場で妻の両親と妻の姪と僕の友人2人だけが参列して行われた。

それから妻の遺体は葬儀屋で手配してくれた火葬場で荼毘に付された。

それから僕はよく妻に連れられて飲みに行っていた居酒屋へ行くと、僕と知り合うずっと前から妻のことを知っていた高齢のママとその店の常連客の一人に妻が死んだことを伝えた後、酒を注文して飲みながら何気なく妻の思い出話をしていた時、もう彼女はこの世にいなくて、二度と彼女に会うことができないのだという思いが初めて切実に感じられ、急に悲しみがこみ上げてきて涙が止まらなかったので、お金を払って店を出ようとしたら、ママに妻への香典替わりだからお金はいらないと言われ、店を出てタクシーを拾って家へ帰った。

家に着くまでずっとしゃくり上げながらタクシーの中で泣いていた。

家へ帰ってから号泣し続けて、一晩でそれまでの人生で泣いた分よりもっと泣いた。

妻が僕のために心に闇を抱えていたのだとしたら僕の責任だし、それに気づいて真剣に向き合ってあげられなかったのは僕の責任である。

妻の死に関して僕は責められて当然なのは承知している。

妻の遺骨は彼女の家の墓に入れられ、お盆に僕は妻の実家へ行くといつも父親だけいるのだが、最初の3年は父親と一緒に墓参りに行った。

僕は妻の死に関して申し訳ないとしか言いようがなかったが、父親から一言も責められたことはなく、墓参りの帰りにいつも食事を奢ってもらった。

今は彼女の父親に会いに行くことはたまにあるが、墓参りは一人で行っている。



2020.7.7 加筆修正

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