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第二章 フリーランサーへの道(1)

私は如何にして心配することなく映画を愛するようになったか

リアルでもSNSでも、「自分語り」はかなり嫌われる行為なのですが、一応やっておかないと話が進まないので、しばらくお付き合いください。なるべく、仕事に関係することだけに絞りますので。

父は薬剤師で、最初は公立病院の薬局で働いていました。その時に引っかけられたのが私の母なので、職場結婚です。しかし、しばらくして独立起業し自分で薬局を開きました。最近になって伯母から聞いた話では、「上司とウマが合わない」というのが独立した理由だったそうです。この時点で、私がかなり父の性格を受け継いでいることが明確に分かります。組織に属せない、独立心だけは強い。

結婚して10数年後にやっと生まれたのが私。母は一度流産したらしく、まさに待望の子供。しかし、店の仕事が忙しかったせいか、弟や妹は作ってもらえませんでした。物心ついた時にはすでに同居していた伯母が、学校行事などには主に来てくれました。ただし、ただでさえ母が高齢出産だった上、伯母は母より8つも年上。授業参観の時は若干浮いてました。

父は薬局の仕事をしつつ、健康や病気に関して自分でいろいろな研究をして、カイロプラクティックなどいろいろな療法に手を出して施術したりしていました。その一方で、店を母に任せて、平日でも趣味の狩猟(雉撃ち)や鮎釣りによく出かけていました。狩猟は早々に止めましたが、70歳の時に脳出血で倒れるまで続けていました。はい、ここでまた二つ、「学者肌」と「趣味に生きる」という、息子に遺伝させた性質が登場しました。

ただ、一番強かった影響は「映画好き」。ただ、母も伯母もそうだったので、絶対に避けられなかったことでしょう。幼い頃から、両親たちと一緒にテレビの洋画劇場を見て育ち、それで寝るのが遅くなっても注意されない。遺伝子と家庭環境の両方で、私の運命はほぼ決まってしまっていたようです。

幼稚園の頃からコテコテの怪獣少年だった一方で、怪獣映画に似た匂いを感じていたのか、パニック映画も大好き。幼稚園の卒園直前に『日本沈没』(1973)を映画館に観に行ったり、小学2年生の時に『タワーリング・インフェルノ』(1974)を映画館で10回観たとか、自慢していいのかよく分からない記録をいろいろ作りました。小学校中学年の頃には、逆に一般的には子供が観ないような映画やテレビドラマも数多く観て性格をどんどん拗らせていきました。相変わらず、両親たちと一緒にテレビの洋画劇場を見ていましたが、ゴールデンタイムに全国ネットで放送されるそれらの番組に加えて、十代になる頃にはもう一つ、ローカルテレビの映画劇場を見るようになります。地元のRKK(熊本放送)で土曜の深夜に放送されていた『土曜招待席』です。「熊本のオヤジ」が好きな時代劇・西部劇・日活アクションなどの活劇系の作品、ちょいエロ系、B級パニック映画など、玉石混交の多彩なラインナップでした。今日に至る私の映画の守備範囲の支離滅裂ぶりは、この番組によって形成されたと言っていいでしょう。

ただし一方で、車や鉄道にハマった時期もあるなど、映画と関係ない分野への興味もありました。その中の一つが推理小説。市川崑監督の金田一耕助シリーズがきっかけとなってハマったので結局は映画絡みなんですが(苦笑)、原作小説を読んでいるうちに、ついには自分で推理小説「らしきもの」まで書くようになりました。文章を書くことが好きだという自分の性質に気がついたということでは、現在の自分の基礎の一部になったと言えるでしょう。とは言え、物語や人物の設定、細かい描写…と、小説(特に推理もの)のキモになる部分がきちんとできていないという致命的な欠陥がありました。推理小説なのに犯行の動機がないって、ある意味現代的と言えないこともありませんが(それはない)、今思い出してもひどいシロモノばかりでした。まさに黒歴史。それでも、中学生ぐらいまでは(推理もの以外の)小説「らしきもの」を書いていましたが、やはり自分には小説の才能はないと思ってきっぱり諦めました。だから、今も、
「小説書けば?」
とよく言われますが、絶対にありません。確かに、超ベストセラー小説を書けば、映画やドラマ化の場合の権利関係の収入も含めると、まさに労少なくして夢の印税生活が送れるでしょうけどね。ただし、「物を書く」と言っても、小説と映画の解説ではまったく違います。そう簡単に、いろんなジャンルに対応できるわけではありません。これも大きな誤解の一つですね。

十代前半で基礎完成

そして小学5年生の時、決定的な転機が訪れます。朝日ソノラマから発売された「ファンタスティックコレクション」というムック本のシリーズの一冊で、ゴジラが取り上げられたのです。それまで私が読んでいたような怪獣図鑑的なものではなく、映画としての『ゴジラ』シリーズを詳しく紹介したものでした。つまり、「怪獣の本」ではなく「怪獣映画の本」。この違いは大きいです。当然、大学生以上の“大人”向けの作り。「文章にふりがなが振っていない怪獣の本」は、当時の私にはまさにカルチャー・ショックでした。映画製作の裏側、そしてスタッフやキャストなどに興味が拡がるきっかけになりました。

同じ年、『ゴジラ』シリーズの音楽から名曲の数々を集めたオムニバスアルバムのレコードが発売されました。恐らく、最初に買ってもらったサントラアルバムだったと思います。テレビのヒーローものの主題歌関係はいくつか持っていましたが、インスト中心のものは初めて。これで、伊福部昭や佐藤勝といった日本映画の黄金時代を支えた作曲家の音楽にきちんと触れ、その魅力に目覚めたわけです。

この二つのアイテムが、現在に至る私の仕事関係の基礎を作ってくれたものだと思います。これらを作ってくださった諸先輩方、そして私にその存在を教えて貸してくれた同級生の福田君には心から感謝しています。しかし、福田君の方は私みたいにハマらなかったようです。

私と福田君の人生の分かれ道は、中学校の頃に発売された2つのアイテム―――またも書籍とレコードを買ったか買わなかったか、ということだったようです。

書籍の方は、「大特撮 日本特撮映画史」。タイトル通り、戦後の日本映画において特撮シーンに大きな比重がかけられた作品について紹介・批評したものでした。取り上げた作品のジャンルは怪獣やSFだけでなく、スペクタクル、歴史おの、戦争、ファンタジー、ホラー…と多岐にわたり、私の知らない作品も多数ありました。これで私は、「映画について語る」ことの面白さに目覚め、その書き方を学んだのだと思います。しかも後半には、日本の特撮映画の歴史、そして巻末には、本文中で取り上げていないものも含めて、日本の主要特撮映画の作品ごとのデータがギッシリ書かれていました。これらが私の研究心に火を点けてしまいました。日本の映画史に残るスタッフや俳優の名前の半数近くは、そこで覚えたのではないでしょうか。

そしてレコードの方は、伊福部先生の映画音楽を、特撮ものに限らず幅広いジャンルから集めたオムニバスアルバムの10枚シリーズ。当然、当時の私には全部買い揃えるだけの小遣いはありませんでしたが、頑張って半分は買いました。これで完全に伊福部音楽の虜になりつつ、それらが流れた「非特撮」映画にも興味を持つようになりました。

それを待ち構えていたかのように、私が中3になった年の4月に、熊本で「テレビの映画劇場バブル」が起こったのです。RKKは『土曜招待席』に加えて、平日の昼間に帯で旧作の日本映画を毎日放送を開始。同じ頃、日本テレビ系列のKKT(くまもと県民テレビ)が開局し、それまで熊本では放送されていなかった水野センセイの『水曜ロードショー』が見れるようになっただけでなく、ローカル枠でも土日の昼間に映画を放送。高校受験を控えていた時期に、私は毎日のようにテレビで(火によっては数本)映画を見ていたのです。

当時は今のように配信で手軽にいろいろな映画が観れたわけではありません。まだCSもBSも、DVDもない。それどころか家庭用のビデオデッキもようやく普及し始めた頃。正規のビデオレンタルもまだ日本では始まっておらず、ビデオソフトは販売用のみ。しかも、シネスコの横長画面を当時のテレビの4:3の画面にトリミングしたり、作品によってはカットされたものを、1本2~3万、メーカーによっては5~7万円という今ではあり得ない価格で販売していた時代です。昔の映画を観るには名画座での再上映かテレビ放映しか方法がありませんでした。そんな時代にこの状況は、まさに嬉しい悲鳴でした。今まで通り怪獣映画も見つつ並行して増村保造にハマり、ジョン・フォードやヒッチコックにも取りつかれていき始めたのです。

現在の私の基礎は、この年あたりで完成したようです。

(つづく)

<これまでのお話>

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