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第五章 それでもフリーランスを続けています(2)

コロナのバカ!

状況が悪化する前に何とかしておこうと悪あがきをしていた矢先に起こったのが、あの騒動です。まだまだ現在進行形の出来事ではありますが…。

Facebookの過去投稿を見返したら、2020年の1月20日頃にはネタにしていたので、私が最初にあのウイルスのことを知ったのは、逆算すると年明け早々ぐらいでしょうか。まだこの頃は無条件でギャグのネタにしていましたね。数ヶ月で落ち着くだろうと思っていましたから。いや、私だけではなかったでしょうし、実際そう言われてましたから。

今、これを書いている時点で、もう2年ですが。

2月に入る頃にはかなりヤバいシロモノだということが分かってきて、九州に入ってくるのは時間の問題だと心配しながら福岡での試写に行った20日に福岡で初の感染者確認。そして、熊本に来るのは何日後か?まさか俺が熊本第1号じゃないだろうなと思っていた翌21日には熊本でも初の感染者が(自分の誕生日だったからはっきり覚えてます)。

実は、この年度に卒業できなくなっていた娘は休学しなければならなくなっていたのですが、それが決まった翌日にある病院から就職の内定を頂いたのです。事情を説明して辞退するしかなかったのですが、休学している間にその病院でアルバイトで雇ってもらえることになりました。来年こそは卒業して正看になり、ちゃんと雇ってもらえるように、娘は懸命に頑張っていたようです。しかし、熊本県のコロナ感染者第1号となったのは、その病院の職員の方でした。第一報の報道ですでに勤務先が分かったのは、病院側が無用のパニックを防ぐためにあえて自分のところだと公表したからです。その勇気に感心すると同時に、風評被害を受けないか、そして娘は大丈夫か…と、いろいろ心配しました。その病院はすぐに全館を消毒するなど全力で対応。娘も部署が違ったので、それ以上騒ぎは(表立っては)拡大しなかったようです。

コロナも心配ですが、自分の収入も心配です。ちょうど、この2月末発売の号で地元のタウン誌が休刊になり、大幅な収入減になることが分かっていたので、それに輪をかける苦境が待っていました。案の定、種蒔きしていた地元でのイベントは計画進行がストップ。スリーシェルズさんの方も、コンサートの方は一切無理ということになり、ペンディングになりました。ただし、それだと西さんたちも大変なので、何かしなければ。ということで、もう一つの「サントラCD発売」が一気に進み、私が高校生の時にテレビで見て以来大好きだった『戦争と人間』三部作(1970~73)の音楽をすべて収録したCD「戦争と人間 音楽大全」を発売することが決定しました。私にとっては、10歳の時に買ったゴジラのオムニバスアルバムでサントラの魅力に取りつかれて以来、(今思えば)40年以上にわたる悲願だった「サントラ発売への参加」実現することになったのです。

しかし、季節は春から初夏へと移っても、事態は収束するどころかどんどん悪化。アメリカなど本国で公開延期になった洋画はもちろん、東京都での緊急事態宣言を受けて邦画も公開延期が続出しました。これは本当に困りました。熊本地震の時のように新作映画のレビューが掲載できなくなり、それまでに観ていた試写も原稿にできなくなる。しかも、熊本地震の時は熊本だけでしたが、今回は全国規模。幸い、熊日新聞とWEBサイトは、「ステイホーム」により配信やレンタルDVDでの鑑賞を念頭に置いて、旧作映画の記事で急場をしのぐ方法が採られました。おかげで、最悪の事態だけは避けることができました。

とは言え、この状況はいつまで続くのか?日本だけ落ち着いても外国が落ち着かなければ変わらないんじゃないのか?ある意味、熊本地震の時よりも先が見えない状況でした。

その一方で、半年前まで勤めていた会社のことも考えました。医療関係なので社員が医療機関に出入りするのは当然。常に「うつる危険」と「うつす危険」にさらされているわけです。私は外回りこそなかったものの、外回りの人たちと接するのが日常の業務でした。あのまま勤め続けていたら…。感染の危険だけでなく、取引先などへの対応をはじめ、さまざまなことに忙殺されていたでしょう。その状況で、もし母や伯母にまた何か起きたら…。この点に限っては、やはりあのタイミングで辞めて正解だったかも知れません。ちなみに、以前の手紙の仕事も、辞めた3ヶ月後に東日本大震災が発生。書かなければいけなくなった手紙の量が何倍になったか…と考えたら、複雑な心境になりつつも、正直言ってタイミングよかったなあと思います。変なところで悪運が強いと言うか…。

そんな中、我が家は引っ越しました。地震で半壊状態になったまままったく補修してもらえる気配がなかったため、19年の秋頃から引っ越し先を探し続けていましたが、ようやく良い場所を見つけ、夏に引っ越すことができました。しかし、この時も私は、「戦争と人間 音楽大全」のブックレット執筆作業(三部作・全9時間半を見直すところから始めて、送られてきた音源がどんなシーンに使われたかを曲ごとに説明する原稿を作成したり…)と引っ越しの荷造りが重なってしまい、「これがCDになるんだ!」という希望と気力とモチベーションを武器に、ひたすら時間と戦いました。

引っ越しが終わった頃には映画興行の関係もだいぶ落ち着き、何とか持ち直してきました。しかし、そんな時に限って悪夢は繰り返す。娘がまたも単位を落としてしまったのです。しかも、留年が認められるのは2年。来年4月からの1年が最後のチャンスになるわけです。もう後がありません。たまにはきつく叱るべきなのですが、いろいろ考えるとやはりエラそうなことは言えません。もう、本人を信じるしかありません。

12月頭には「戦争と人間 音楽大全」が発売になり、それを記念してライブストリーミング・チャンネル「SUPER DOMMUNE」で特集番組が配信されることになりました。私も渋谷パルコ9階のスタジオにて出演してお話することになり、急遽上京することに。前年11月末の「小松左京音楽祭」以来1年ぶり、「今年は東京には行けないだろうな」と諦めかけていた時でした。とにかく、自分で出来る感染予防策を徹底して、不必要な場所には行かない、翌日さっさと帰るという条件を自分に課して、いざ東京へ。しかし、例の西新宿のホテルに着いてスタジオへ行く準備をしている時に、東京都の感染者が初めて600人を超えたという速報が入り、こりゃヤバいと思いました。とりあえず無事に熊本に帰り着きましたが、それから1ヶ月も経たない大晦日に1000人を超え、来年もこんな調子だろうなと覚悟を決めて年を越しました。

絶対の危機

案の定、年末年始の感染者激増で、落ち着きかけていたコロナの状況は再び悪化しました。2020~21年は同じようなことが何度も繰り返されたので、最近のことなのにいつの話か分からなくなっていることも多々あります。

私自身の苦境も続いていました。前年の秋ぐらいから両足の膝から下がむくみ、いつも履いている靴が履けなくなるぐらいパンパンになることもありました。歩くのにも不自由するぐらいの痛みもあったので病院を受診しましたが原因は不明。私にしては珍しく数ヶ所の病院を受診したのですが結局同じでした。ただ、最後に行った病院で睡眠時無呼吸症候群であることが判明しました。測定器によれば、院長先生すら驚くほどの回数止まっていたらしいのです。睡眠障害の原因もこれだったのでしょう。治療器(CPAP)を使い始めたら症状は治まったようなのですが、寝る時にずっと使い続けなければいけないのはいささか面倒です。あ、ちなみに、前の職場で出ていた睡眠障害の症状は、勤めを辞めて在宅ワーカーになった途端にピタリと止まりました(苦笑)。

健康面で唯一の救いだったのは、コロナ禍が発生する数ヶ月前から、偶然ながらすでに「新しい生活様式」を始めていたため、あの状況でも心身への負担がほとんどなかったということでしょう。

*基本的にずっと在宅=ステイホーム&不要不急の外出をしない
*主な作業はあちこちから依頼を頂いての自宅での執筆=在宅テレワーク
*外食はほとんどしない。してもお一人様マクド=黙食
*友達が少ない&必要以外は人と群れない=3密を避ける
*妻に避けられている=濃厚接触しない

冗談半分で「時代を先取りしていた」と言っていますが、コロナ禍でもちょくちょく東京や福岡に行きながらもいまだに感染していないことに、まったく関係がないとも言えないのではないかと思っています。


仕事の量も依然として少なかったのですが、相変わらずK氏がいろいろなお仕事を回してくださったので、首の皮は維持することができました。特に、4月末に第1号が発売されたムック「週刊文春CINEMA!」は、ミニシアター応援を中心としたユニークなコンセプトで、やりがいがあるお仕事です。1号では全国のミニシアターを取材するコーナーで、熊本のDenkikanと沖縄・那覇の桜坂劇場を取材しました。片やバスで30分、片やバスと飛行機とモノレールを乗り継いで4時間。沖縄に行くのは人生で2度目、しかも約四半世紀ぶりでしたが、いろいろ節約&コロナ対策で日帰り(笑)。そしてこの時も、数週間後に沖縄で感染者が急増するという、自分が違う意味で何か「持ってる」ような気がしてくる展開になりました。

4月になり、娘は最後のチャンスの1年間を賭けて、再び専攻科に通い始めました。私は、次のサントラ企画「太平洋ひとりぼっち 音楽大全」の制作に没頭しました。ところが、1ヶ月も経たないゴールデンウィーク直前、妻に乳がんが見つかりました。腫瘍は全部で5つ、ステージ3A。あばらの下に出来ているものもあり、かなりの長期戦になることが予想されました。とりあえず、抗がん剤で腫瘍を出来るだけ小さくして、手術で取り除く。それでも除去できない部分のものは放射線で…。主要なプロセスだけでも10ヶ月近くかかる、まさしく長丁場になりそうな治療計画でした。私の稼ぎが悪いことと、あまり病人ぽくしていたくないという理由で、妻は今まで通り仕事を続けることにしました。自分の不甲斐なさに落胆しつつ、とりあえずみんなで通常運転で頑張らないと、と思いました。

そんな私たちをどん底に突き落とす最悪の展開になったのは、それからそこまで日が経っていない頃でした。ついに娘が履修の上で取り返しがつかない失敗をしてしまい、それから後の実習が受けられなくなりました。実習が受けられないということは単位も取れない。そうなると卒業もできない。つまり、現時点で正看護師になる手段がなくなってしまったのです。結局、娘は学校を正式に辞めました。それまでのお金と時間が完全に無駄になってしまったわけで、そんな時に収入を落としている私への妻からの風当たりはさらに強くなっていきました。

もともと、スポーツはやるのも観るのも大嫌いだった私は、もちろん東京オリンピックでも感動できるわけがなく(そもそも中継を見ている暇がない)、とにかくできることを少しずつでも…と、「観ては書き、観ては書き」の生活を続けました。スリーシェルズさんでのサントラ企画も、いくつかを並行して進めました。

この年は伯母の調子がかなり悪く、それまでは年齢の割りに頭はしっかりしていたのに、急に痴呆が進んでしまいました。そんな中でまたも入院。食事が摂取できず栄養失調状態になっていたのです。最悪の場合、何も処置をせず自然死を待つという選択肢も提示され、愕然としました。しかしこの時、骨粗鬆症を防ぐために摂取していたカルシウムが多過ぎ、それが痴呆を進めていることが分かりました。そこで、体内のカルシウム量を抑える処置を施したところ、あっという間に元の状態に戻りました。最悪の選択をしなかったことを喜びました。

しかし、全体的な不調は続いていました。年末には路線をガラリと変えたサントラの第3弾「ハレンチ学園 音楽大全」が発売できたのは救いでしたが、翌年にかけてさらに定期収入が減ることが決まり、暗然とした気持ちで新年を迎えました。

そして「現在に至る」(2022年1月)というわけです。

(つづく)

<これまでのお話>

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