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第二章 フリーランサーへの道(2)

まだ今の仕事とはあまり関係ない時期の話

ちょっと映画の話、しかもローカルネタが続いてしまいましたので、続く高校・大学時代は、個人的には楽しい思い出と青春の苦い思い出が詰まっているのですが、私の仕事にはあまり関係ないので、ちょっと飛ばして早いとここの仕事を始めたところまで行きます(笑)。

高校時代にようやく我が家にビデオが来て、遠方の知り合いにご当地のローカルテレビで放送される映画を録画してもらったりして、どんどんマニアへの道を邁進。

そして、1年生の夏休みに日比谷公会堂で行なわれた伊福部先生のSF映画の音楽のコンサートに奇跡的に行けたことが生涯忘れられない思い出になりました。いきなり伊福部先生ご本人にお会いできたのですから。しかし、これ以来たびたび実行の機会に恵まれた「伊福部先生のゴジラ映画関係のコンサートに行くために上京する」という習慣(?)が、結果として最近の私のいくつかのお仕事につながることにもなるのですから、人生分からないものです。

完全なる文系人間で理科は苦手だったので、父の後を継いで薬剤師に、というのは完全にムリでした。しかし、父がそのことを知ったのは、私が共通一次試験を受けに行く直前でした。とても私には薬学部に進学する(理系の)学力はありませんでした。私が薬学部に進まない(進めない)と知った父はちょっと驚いていましたが、それ以上は特に何も言いませんでした。それまで、あまりにも息子の教育に無関心だったことを後悔したのでしょう。もちろん、周囲の大人たちからは、父と比較したり「もったいない」といった類の言葉を散々言われました。その頃から私は、特に一部の年配の人たちに根強く残っている「子供は親の後を継ぐのが当然」という考え方に疑問を抱くようになりました。

だからと言って、大学の商学部の経営学科に進んだのは、第一志望の大学に落ち、唯一の滑り止めだったそこしか合格しなかったからです(笑)。大学時代にはついにレーザーディスク(LD)プレイヤーを購入、バイト代をほとんどLDソフトの購入に注ぎ込むという、オタク道まっしぐら。もちろん、実年齢と同じ長さの彼女いない歴は伸びていく一方。それでも、当時大ブームだった「ねるとんパーティ」に出まくったものの、当然のように「ごめんなさい」砲で撃墜され続けました。

そんな暗黒の学生時代も、時代が昭和から平成に移った翌年、90年代最初の年についに終わり、私は母のたっての願いで実家の家業を手伝うことになりました。一応、大学で簿記は学んだので、それまでドンブリ勘定だった帳簿関係は少しはまともになりました。義理の伯父(父の長姉の夫)が税理士だったので、そっちの方からも税務署への申告がちゃんとできるように教育されました(ただし、かなり簡素な状態ではありましたが)。おかげで、フリーランサーになった今でも、確定申告の書類はほぼ自分で仕上げることができるようになりました。

実はこの90年代の10年間にプライベートが激動しました。ようやく彼女いない歴がストップしたと思ったら、数ヶ月単位の短期集中で相手がコロコロ代わったり、そうかと思えば3年間持った相手と98年に結婚。生活が安定するまで子供を作らない予定だったのにハネムーンベイビーを授かり、99年に娘が誕生。少年時代、自分は性格的に結婚できないだろうと早々に諦め、独身のまま恐怖の大王によって31歳で死んでしまうと覚悟していたのに、子供を授かるところまで行き着いたのでむしろ拍子抜けしてしまいました。

ただ、妻の妊娠が判明した直後、父が脳出血で倒れました。最悪の事態はもちろん、よくても手術を覚悟しましたが、父は何と精神力と自分が選んだ薬で驚異の回復を遂げ、手術することもなく相場(?)よりも短い日数で退院しました。ただ、これまでのように球磨川や鹿児島の川内川まで車を運転して一人で鮎釣りに行くのはとてもムリだと思い、思い切って釣りも車の運転も止めるように恐る恐るお願いしたら、あっさり聞き入れました。まあ、すぐに孫娘が生まれ、代わりになる楽しみが絶妙なタイミングで手に入ったのは幸いでした。娘が生まれてからの父の豹変ぶりはまさにコントで、娘を通わせていた保育園が実家の近くだったので、父はよく「リハビリのための散歩」と称して保育園を覗きに行っていたようです。よく不審者通報されなかったものだと感心しました。


30歳を過ぎてからのスタート

そんな歳月の間も、私は実家の商売を手伝っていたのですが、時間の融通は利きます。急ぎの仕事がなかったら、ちょっと抜け出して映画を観に行っていました。この頃に知り合ったのが、熊本で活躍している映画評論家の園村昌弘先生です。大学時代にローカルテレビで放送されていた映画番組で、穏やかな口調と豊富な知識で古今東西の映画を紹介されていた時からの憧れの存在でした。偶然、自治体主催の映画イベントのスタッフに高校の後輩の女の子が加わっていて、映画に詳しいからと助っ人を頼まれたのですが、そこにゲストで来られたのが園村先生でした。確か、当時D・W・グリフィスの作品集のLDボックスが発売された直後で、待ち時間にその話で盛り上がったのがきっかけで親しくしていただくようになり、先生が経営されていた喫茶店に通うようになりました。そこは、映画のポスターが飾られ、BGMにサントラが流れる、まさに熊本の映画ファンの“基地”的存在でした。

結婚の少し前ぐらいから、先生がレギュラー出演されていたコミュニティFMの映画音楽の番組に、私のサントラ・コレクションから音源をちょくちょくお貸しするようになりました。そして、ゲストで呼んでいただくようになり、ついには先生がお仕事で出演できなかった回にピンチヒッターを務めるという恐ろしい事態も発生。そんな経験がまったくなかった私にそんなことをさせるなんて、ムチャ振りを通り越して暴挙です。本当に私は人前で喋るのが苦手だったのですが、相手の女子アナの方のサポートもあり、何とか切り抜けることが出来ました。それに、中学生の頃にNHKのFMで放送されていた、関光夫センセイの『夜のスクリーン・ミュージック』が大好きだった私は、ラジオの映画音楽の番組の選曲や出演に密かに憧れていたので、夢を叶えていただけたわけです(上手くいったかは分かりませんが…)。それに、映画の話ならば人前で喋るのもあまり苦にならないということに気がついたし、現在もラジオへの出演が多いし、何よりやりやすさを感じていることからも、この時の経験もまた今のお仕事に通じるものだったようです。

しかし数年後、園村先生からさらに大きなご恩を頂戴しました。熊本日日新聞の文化面に新作映画のレビューが週一で掲載されていて、園村先生をはじめ熊本の映画関係の方や文化人の先生方数人がローテーションで執筆をしています。2002年、園村先生がお仕事で忙しくなりレビューの執筆を減らさなければならなくなりました。その交代要員として、私を推薦してくださったのです。確かに文章を書くのは好きでしたが、お仕事としてやったことはありませんでした。そんな私に新聞用のレビューを書かせるなんて、またも暴挙。でも、一か八か、ダメだったら園村先生にご迷惑をおかけするというプレッシャーはあったものの、思い切って引き受けました。

しかし、最初に熊日さんから頼まれたのが、韓国映画の『友へ チング』(2001)だったので、早速血の気が引きました。実はアジア映画が苦手だったのです(笑)。しかし、この作品は書きやすかったのか、意外にすんなり書くことができました。担当の記者さんも私がズブの素人だと聞かされていたので心配していたようですが、思っていたよりはマシだったらしく、お褒めの言葉まで頂きました。熊本の映画業界の長老・辻昭二郎先生にも認めていただいたので、普通だったらちょっとテングになりそうな状況でしたが、私としては何だか狐につままれたような感じで呆気にとられていただけでした。

原稿料をきちんと頂いたという意味では、これがまさしくプロデビューだったというわけです。34歳の春でした。

この時に、熊日の担当さんと話し合って、とりあえず肩書を「フリーライター」にしておきましょう、ということになったわけです。とは言え、ただ「書くのが好き」だっただけで、プロのライターとしての勉強はまったくしていなかったわけですから、世間一般のプロのライターの皆様の前でこの肩書を名乗るのはいまだに気が引けます。

未経験で独学での映画ライター・デビューでしたが、それでもよかったのでしょう、その後も月一でレビューを書かせていただけるようになりました。数ヶ月経った時、熊日の担当さんが、
「上妻さんの文章は型破りだけど、柔らかいんですよね。そこがいいと思います。」
とおっしゃってくださいました。それはまさに、私が子供の頃から吸収していた、テレビの洋画劇場の解説を文章にしたイメージだったんだろうと思います。そして、それを無意識のうちに実践していたことも含めて、涙が出るほど嬉しくなりました。たぶんこの時に、自分の方向性を無意識のうちに決定していたのでしょう。

(つづく)

<これまでのお話>

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