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第三章 「兼業フリーランサー」の苦闘(1)

業務の多角化

薬剤師である父が亡くなったため、実家は薬局として営業できなくなりました。ただ、登記してある有限会社の名前には薬局の言葉を使っていなかったので、しばらくは自家製造していた健康食品などを売って食いつないでいました。しかし、それも在庫がなくなるまで。翌年になると、廃業する準備を少しずつ始めながら、私は他にも映画関係のお仕事ができないか、なりふり構わず知り合いに頼んでまわりました。

すると、ほぼ同時にいくつかのお仕事が決まりました。

一つは、熊日が発行している宅配のフリーペーパーで、新作映画の紹介を中心に、映画関係の記事をいろいろと。

そして、とある編集プロダクション経由で、地元のタウン情報誌の新作映画コーナーの執筆を、場面写真の画像の入手も込みで。

ここの編集プロには、他にもいろいろなお仕事を頂きました。観光ムック本やグルメ本のリライト(掲載するお店への確認作業もあります)、ナイトタウン特集での(イントネーションが上がらない方の)クラブの取材…。慣れないジャンルに悪戦苦闘しつつ、必死に頑張りました。有り難い修行をさせていただきました。

また、映画好きの若い人たちが集まる飲み会に出席した時に知り合ったRKKの美人女性ディレクター(笑)の方から、当時公開された『明日の記憶』(2006)のCMに推薦コメントを入れるというお仕事を頂きました。この時に、初めて「映画評論家」の肩書でいきましょう!ということになりました。新聞でずっと執筆していたので、局の方でもその方が見栄えがいいと判断したのでしょう。私自身はかなり恥ずかしかったのですが…。しかしそれ以降、同局で同様のお仕事をちょくちょく頂くようになりました。

そんな中、キネマ旬報が映画検定を開催すると聞き、自分の映画マニア度がどれぐらいのものか客観的に知りたいし、話のネタにもなると思い、受検することにしました。第1回で2・3・4級の試験があり、2級の合格者だけが次に開催される1級を受検できる、という仕組み。私は念のために2級と3級を受け、両方とも合格。数ヶ月後に実施された第2回で1級にも奇跡的に合格。それで、映画館の入場料金が割引になるとか特典があるわけではありませんが、確かにその後の映画関係のお仕事では話のネタになりました。それに、8年近く経って意外な形でお仕事につながったのですが、それは後ほど。

1級の合格証が送られてきた翌2007年の春、とんでもないお仕事が舞い込みました。

本格的にテレビ出演、しかし…

映画化されて大ヒットした『黄泉がえり』などで知られるSF作家の梶尾真治先生は熊本市在住で、やはり熊日でレビューを書かれている関係で親しくして頂いています。その梶尾先生の知り合いで私も面識があった方が、民放テレビ局のTKU(テレビ熊本)の知り合いのプロデューサーさんから相談を受けて、私を推薦してくださった―――という経緯で頂いたのが、何と夕方のニュース番組に週一で出演し、新作映画の紹介をするという大役。嬉しい反面、さすがに今回は少し尻込みしてしまいました。再三書いておりますが、私は人前で喋るのがかなり苦手。人と話すことすら苦手でした。だから、自己表現の手段として書くことが好きだったんだと思います。ところが、次第に人前で喋るお仕事が増えてきて、ついにはテレビのレギュラー出演。私に務まるのかと心配でしたが、面会したプロデューサーさんは笑顔で
「大丈夫です!」
とおっしゃってくださったので、思い切って引き受けました。半年持てばいいかな、などと(かなり無責任なことを)考えているうちに、迷いが消えたのです。

最初の1ヶ月間は私が一人で喋る様子を事前に収録するという形でしたが、2か月目からは毎週スタジオに行って生出演し、キャスターの皆さんと掛け合いをしながらお話することになりました。事前に打診された時には
「さすがに生はヤバいだろ…」
と思いましたが、実際にやってみると意外に気が楽でした。収録だとNGを出すたびに録り直しになり、スタッフの皆さんに迷惑をかけてしまいます。それが更なるプレッシャーになってしまうのです。生放送でももちろん失敗は許されませんが、収録の場合のようなプレッシャーからは解放されました。お話する相手がいる、というのもよかったのかも知れません。考えてみれば、最初のシティFMの時も含めて、主にラジオだと相手の方がいるのでやりやすいのだと思います。そのせいか、試しに始めたYouTubeは一人語り式のため、なかなか上手くいかない上に精神的にキツいので、1年以上放置状態です。

この番組と時を同じくして、RKKでも映画のPR番組など単発のお仕事が増えていきました。これらのお仕事で徐々に増えていったのが、新作映画の全国キャンペーンで熊本や福岡に来る監督さんや俳優さんへのインタビューです。時には東京のジャパン・プレミアにまでレポーターとして乗り込み、海外からの映画人にもインタビューするという、仕事を忘れそうな体験までさせていただきました。ただし、それらにもそれなりに苦労が多いことは、第一章で述べましたね。同時期に、テレビだけでなくタウン誌やフリーペーパーの方でもインタビュー任務が一気に増えていきました。

それでもやはり収入に不安があったので、さらに探しているうちに地元の在宅就労支援する事務所から頂いたのが文字起こしの仕事でした。これは映画関係で活字媒体のインタビューでは必須の作業でもあったのでやり方のコツは身に着いていましたが、まったく自分が関与していない講演やトークショー、しかも録音状態がかなり悪いという悪条件のものが多く、毎回悪戦苦闘しました。

そんなこんなで、いろいろなところからいろいろなお仕事を頂き、多忙ながらも個人的には充実した日々が2年間続きました。しかし、TKUのニュース番組が春のリニューアルで映画コーナーを止めることになり、私もお役御免。ぶっちゃけ、週一のレギュラー出演のギャラでかなり助かっていたので、これは大打撃でした。これはもう贅沢は言っていられない。私は41歳にして(恥ずかしながら)生まれて初めて「外に勤めに出る」決心をしました。ただ、正社員だと今頂いている映画やライターのお仕事は“副業”になるので、すべて止めなければいけません。もちろん、私の気持ちとしてはそちらが“本業”なので、渋る妻を説き伏せてパートでの仕事を探すことにしました。

組織に属せない男

初めての就職先を探すにあたって私が一番心配したのは、それまで“外”で働いたことがほとんどなかったことです。大学時代に2年近く漬物屋でアルバイトをしたぐらい。それに、そもそも自分が「組織に属することが苦手」という、かなり厄介な性格だということも分かっていました。まさしく父と同じ。でも、そんなことを言っている場合ではありません。まずは、もしあるならば、文章関係の仕事を…。

あった。いろいろな事業を行なっている会社で、運営するwebサイトや販促用の小冊子の執筆。しかもwebサイトでは新作映画の紹介も!願ったり叶ったりでした。

しかし、心配した通り、半年も持ちませんでした。私にもいろいろ落ち度はありましたし、経営者側にも結構いろいろ問題がありました。意思の疎通が不十分で、「言った・言わない」の揉め事は日常茶飯事。労働条件でトラブっていた同僚が多数いました。双方が原因のトラブルが積み重なっていたある金曜日の終業5分前に直属の上司から電話があり、
「月曜から来なくていいですよ。」
と突然言われて唖然。俺、そんなに働き悪かった?いや、そうかも知れないけど、普通は事前に注意ぐらいするだろ?今まで何も言われてないぞ!と、ちょっとしたパニックになりましたが、どっちにしてももうここにはいたくないと思っていたので、逆にせいせいした部分もありました。ただ、やはりこれは労働基準法に引っかかるのでは?と、元同僚たちに誘われて一緒に労働基準監督署に行きましたが、何だかいろいろ面倒くさい。それに、この会社に未練はないし、どんなことでももう関わりたくない、というのが実はみんなの本心でした。なので、それっきり。さ、次行こ、次。

派遣会社に登録し、次の仕事が決まったのが、その年の11月末。あるメーカーの通販部門で、顧客への手紙(主にお詫び)の文面を考える部署。「書き物」でも、手紙はなかなか難しい。しかも、それぞれのケースに即して細かく文面を変えなければいけません。何より、ひたすら謝り続ける仕事です。文面で顧客に謝り、仕事でミスをしては同僚に謝り、家に帰ればなぜか妻に謝り…(苦笑)。それでも、自分としては懸命に頑張ったつもりだったし、半年経った頃には派遣ではなく直接雇用になりました。

ただ、最初の頃から、人の入れ替わりが激しいのが気になっていました。理由はすぐに分かりました。とにかく同僚同士の揉め事が多く、いじめも横行していたのです。そして、私の眼の持病がひどくなってくると、次のいじめの標的にされたのです。恐らく、そんなにひどいものではないのでしょうが、ただでさえ謝ってばかりでメンタルが弱ってきていた私は、毎晩頭を洗うたびに大量の抜け毛に悩まされました。それでも我慢して出勤を続けましたが、早く辞めるよう仕向けるかのようにジワジワといじめはひどくなっていきました。時季はクリスマス目前。みじめな思いでその日の仕事を終えて外に出ると、市の中心街だったので周囲はイルミネーションだらけ。青春時代にもクリスマスにはいい思い出がなかった(直前にフラれてシングルベル、というパターンだらけ)私は、これがトラウマになってクリスマスのイルミネーションが決定的に苦手になってしまったのです。結局、ここも1年ちょっとで辞めてしまいました。

私にもダメなところはたくさんあったと思うので強くは言えませんが、やはり「組織に属したくない」オーラがガンガン出ていたのではないか、という気がしています。それが、この二件でさらに強くなるという悪循環。まあ、傍から見れば「仕事が長続きしないダメ男」にしか映らないでしょうね。

ただ、これらの間も、映画と書き物関係のお仕事は続けて頂いていました。それだけが、我が家の家計にも私の心にとっても救いでした。

(つづく)

<これまでのお話>

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