過度な競争心をあおる教育・スポーツ

これまでにも書いてきましたが、最近の私は特に具体的な目標もなく生きており、何も目指していないので、心が平安でいられる時間が増えてきました。あるのは内面の目標のみ(もはや内面の目標しかなくなったの記事参照)、目標がないからこそ、誰とも比べず、競わず、嫉妬もせずに心が落ち着いていられるようになったのだと思います。自分の生き方、価値観、思想が固まってきて、他者の評価や世間体から解き放たれてきたことも大きいです。「他人と比べる」というある種の心の癖や習慣はどなたにとっても根深いもので、多くの人が苦しんでいる諸悪の根源ではないかとすら思います。

私は長いこと他人との比較、劣等感や優越感、嫉妬や見下しなどの感覚に悩まされてきていて、ここ1~2年は「どうしたらそういった感覚がなくなるだろうか?」といったことに意識を向けてきました。小学生のころから塾に通い、上の方のクラスにいてもその中での上位にはなれない…上を見ても下を見てもきりがないのに、狭い社会の中での優越感や劣等感を感じては苦しんでいました。生まれつき持っていたであろう好奇心、知識欲といったものが、受験に必要な勉強をすることに吸収され、集約されてしまうような感覚はありましたね。勉強や学ぶこと自体は楽しいのに、テスト、序列化、競争になると楽しいどころか苦しみになる…。点数化され、序列化されるのが当たり前になり、他人と比べることによる苦しみはパターン化され、今の今まで私を苦しめていました。

今の資本主義社会は弱肉強食の競争社会です。教育も資本主義テイストに設計されていて、幼い頃から過度に競争心をあおるようなやり方を採用しています。私はスポーツには全く関心がないのですが、世間の風潮としてスポーツ礼賛が目に余ると思っており、これも大きな洗脳だなと日々感じています。以前に部活動に関する記事を書いたこともありますが(部活・サークル等における温度差問題の記事など)、とにかく勝つことを目標に活動するのが当たり前となっている部活動のあり方には疑問を感じています。1位を目指して頑張るのは良いこと、勝つために努力するのは良いこと、というのは、あまりにも当たり前に浸透している価値観なので疑問に思うこともないかもしれませんが、その考え方が資本主義を成立させるための基本思想であり、愛と平和の社会から戦争と争いの社会へと向かわせる意識の根幹にあると思っています。似たようなことは「勝つために頑張るのはいいこと」という洗脳という記事にも書きました。

現代社会の苦しみの原因は、私たちの意識のエゴの肥大によるものがほとんどだと感じます。とにかく勝て、1位になれ、ライバルを出し抜く、周りは敵、自分さえよければいい…今の教育を幼い頃から受けていたらエゴの肥大が加速するのは当たり前で、「エゴの極み人間」を量産しているように見えます(笑)。内面の探求を進めていて深く腑に落としたことは、こうした過度な競争心こそが人々を苦しめる最たるものであり、なかなか地球に平和な社会が訪れない原因だということでした。そして、その思想を深く植え付けているのが、幼い頃から当たり前に受けてきている教育やスポーツ礼賛主義だと思います。そしてもっと遡れば、おきまりの超幼少期の親子関係の話にどうしてもなります。満たされなかった超幼少期の思いが、大人になってからも人々を過度な競争社会に巻き込み、心を蝕んでいく…そんな状況なのだということが手に取るようにわかるようになってきました。私の意識はもう競争社会には向いていません。外の世界は内面の投影で、自分の意識が変われば外の世界も変わっていくものです。自分の内面を見つめることで、幼少期の傷が少しずつ癒されていっているのだなということを日々実感しています。

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