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劇的に変わることを諦めた時、劇的に変わり始める

「生きづらさ」を抱えて生きて、
「生きづらさ」を手放そう、と願う人は言います。

「私はもう、散々自分と向き合った」

だから、先を急ぐ、と言います。

明確な答えが欲しい、と言います。

確かに、もう充分苦しんだと思います。

だから、一刻も早く、この苦しみから逃れたい、その思いは痛い程わかります。

しかし、本当に自分と向き合えていたのでしょうか。

自分と向き合う、という事は、
自分を感じる、という事です。

「生きづらさ」を手放す為に、「生きづらさ」の原因となった出来事を探します。

出来事が見つかったなら、更に、その時の感情を探します。

探し当てたなら、その感情を感じ尽くします。

その出来事が起こった時には、封印してしまった感情を探し当て、感じ尽くすのです。

散々向き合った、と言いながら、原因となった出来事に辿り着いたところで、立ちつくしてしまう人は少なく無い様に思います。

原因となった出来事について、事細かに思い出す事が出来る様になりました。

その時の状況の説明を求められれば、上手に説明する事が出来ます。

「その時、母は私にこう言った」
「その時、父も兄も聞こえないフリをした」

細かい説明は出来ます。

でも、その時の自分の感情については、
「悲しかったと思う」
「腹が立ったと思う」

原因となった出来事の状況説明の延長線上にある、感情の「説明」に終始します。

状況説明にしても、感情の説明にしても、
「説明」は思考の仕事です。

どう悲しかったのか、どう腹が立ったのか、まるで今起こった出来事の様に、
まるで今感じた感情の様に、
ありありと感じる事が、「感じ尽くす」と言う事です。

何故、思考の仕事である「説明」に終始してしまうのか、というと、

感情が極めて動き難い状態だから、です。
感情が鈍麻しているのです。

だから、原因である過去の出来事に辿り着いても、そこに立ちつくしてしまいます。

感じることが出来ません。

先に、自分と向き合うことは、自分を感じること、と言いました。

感情が動き難くても、なんとか動きはじめなくては、感じることは、ままなりません。

「自分と散々向き合った」つもりで、感情が動かず、実は向き合えていない場合が多くある様に思います。

無理もありません。

感情が凍りつく程の、過酷な過去を背負ったからこその「生きづらさ」なのです。


先を急ぐ、という心境はわかります。

しかし、「自分と向き合うぞ!」と意気込んだからといって、先に進める訳ではありません。

先ずは、凍りついた感情を溶かすことが先決です。

原因となった出来事を探す事と並行してで構いません。

凍りついた感情を溶かす必要がある、と考えます。

方法は簡単です。

これまで無頓着だった自分の感情に、これでもか、というぐらい目を向ける、それだけです。

朝目を覚まして、気分はいいのか、悪いのか、
顔を洗う時、歯を磨くとき、どんな気分なのか、
朝食は旨いと感じるか、不味いと感じるか、
靴を履く時、玄関から出る時、どんな感情か、
逐一、全局面で自分の感情を探します。

暫く続けると、思うより早い時期に、感情の動きを感じられ、

自分は何が好きで、何が嫌いか、何がしたくて、何がしたくないのか、わかる様になって来ます。


「生きづらさ」を抱える人に、こう話すと、冒頭の、
先を急ぐ、欲しいのは明確な答えだ、と言われる事が少なくありません。

おそらく、過酷な過去を持ち、「生きづらさ」を抱える自分が、それに気づき、それを手放そうとする事の偉大さに気が付いていないのだと思うんです。

気づいていれば、外に魔法の杖を探すことは無く、答えは自分の中、自分と向き合うことでしか見つからない事がわかって来る筈だと思います。

そして、その偉大さに気が付いていれば、遠い道のりでも、一生を掛けても、少しずつ凍りついた感情を溶かして、活き活きと流れる感情を手に入れよう、と決心するのだと思います。

その境地に至った状態が、腹をくくった状態だと思うのです。

「生きづらさ」を手放すには、決断が必要ですが、決断とは腹をくくる、という事です。


心のこと、には、逆説的な事が多々あると思っています。

求めれば遠ざかり、受け容れたら近くなる。

お話ししたことも然りで、

今直ぐに、劇的に変わることを諦め、

少しずつでいい、でも必ず、と

腹をくくった時、

凍った感情は溶けて、

劇的に変わります。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム











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