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変化を求めるのでは無く、受け容れた時、変化は訪れる

充分な愛情を注がれない環境に生まれ落ちた人は、苦しい人生の幕開けとなってしまいます。

その様な環境に育った人は得てして、自分は人並み以上に愛されて育った、と思い込みます。

そう思い込むのには、幾つもの理由が絡まり合っています。


生まれた時から、その環境しか知らないので、環境を疑い様がありません。

一日でも、愛情を惜しみ無く注がれる環境を経験したなら、自分の置かれている環境が如何に理不尽なのか、ということに気が付くでしょう。

しかし、その人には、たった一日の愛情溢れる環境に身を置いた経験すら無いのです。

だから、過酷な生育環境に気が付くことがありません。


親は、心に重大な生きづらさを抱えています。

その親にとって、何があっても自分を慕う、無垢な我が子は、絶対服従の存在に見えてしまいます。

自分の我が儘が通ります。

貶めても自分を慕います。

親は自分の我が儘(幼児的願望)を通し、我が子を貶めて、自分の価値が上がったかの様に錯覚します。

その親にとっては、自分の生きづらさから目を逸らすことが、生きる目的になってしまっていますから、

この自分都合の親子関係を壊さない為に、躍起になります。

子供が理不尽な仕打ちに気がつきそうになると、
「お前の為を思って」と言い、
「お前は気にし過ぎだ」と言い、

親という絶対優位な立ち場を使って抑え込み、
自分のした理不尽な仕打ちを「小さなこと」と矮小化し、

子供の感情には見向きもせず、親子関係を完璧な親都合の仕組みに組み上げます。

その仕組みから逸脱しない為に子供は、自分の感情を全て閉じ込めます。

悲しくて、悲しくて、涙が零れそうになっても、親が望めば明るく笑って見せます。

悔しくて、悔しくて、怒りに震えても、親が許さないなら涼しい顔を作ります。

この親子関係は完璧な親都合の仕組みになっています。

つまり、子供の犠牲があって初めて成り立つ親子関係です。

親は仕組みを守る為に、これが愛だ、と言いながら利用します。

与えている、と言いながら奪います。

親は仕組みを守る為に、まことしやかに嘘を言います。

だから、その人は気が付くことがありません。


親もまた、かつて親都合の仕組みの親子関係の中で育った人です。

要するに、その人の親は愛を知らず、その親であるおじいちゃん、おばあちゃんも、愛を知らず、親の兄弟であるおじさん、おばさんも愛を知らず、

その人が、幼少期の白く柔らかな心の頃に密に関わる人は皆、親都合の親子関係の中で育ち、愛を知らない人ばかりなのです。

だから、その人は気付くことが出来ません。


そういった幾つもの理由が重なって、その人は育った環境に愛が無かったということに気がつかず、

そればかりか、自分は人並み以上に愛情を注がれて育った、と思い込みます。

気がつかないまま、生きづらさを引きずって歩く人生は、苦しいのです。

苦しんで、苦しんで、あまりにも苦しくて、何かがおかしいんじゃないか、と気が付く人がいます。

気付かない理由は、述べた様に、幾重にも折り重なっていますが、長く歩いた末に気が付く人も在るのです。

気がついて、生きづらさを手放そう、とその人は自分と向き合い始めます。

自分と向き合い、生きづらさの源となった出来事や思い込み、を探ります。

かつて親の気持ちを優先して、心の奥に閉じ込めた感情を見つけ出し、感じ尽くします。

泣きたいのに、笑って見せた、
はしゃぎたいのに、大人しくしてた、
怒りたいのに、涼しい顔をして見せた、

それらの、見て見ぬフリをして、心の奥に積み上がった感情が生きづらさの中身です。

あまりにも積み上がり過ぎたのです。

だから、今、その感情を感じ尽くします。

それが封印された感情の解放であり、生きづらさを手放す方法です。

感情を封印せざるを得なかった環境を腑に落とし、感情を解き放ち、感じ尽くします。


ところが、生きづらい人は、自分の感情を否定されて育った為、自分の感情を悪いもの、と思い込んでいます。

そういった封印した感情の連なった先が、今の自分です。

生きづらい人は、今の自分が嫌い、です。

だから、封印した感情を探り当てても、感じ尽くすことを拒み、

嫌っている今の自分を受け入れることが出来ず、

他人に攻撃的になってしまう今の自分、
非を認められず言い逃れてしまう今の自分、
自信が無く何でも譲ってしまう今の自分、

そういう今の自分を変えようとしてしまいます。

変えようとすることは、今また自分を否定すること、です。

かつて、親から求められて、感情を殺し、ありのままの自分を否定した、あの日の様に、です。

生きづらさに気がついて、
自分と向き合い、
ありのままの自分を受け容れて、
生きづらさを手放す筈なのに、

いつの間にか、

ありのままの自分を否定して、
自分を変えようとしてしまうことが、
多く有ります。

手放すこと、を見失い、
変化を得ること、を求める横道に、迷い込む人は、とても多い、と思っています。

過去を遡るのは、過去にしがみつく為では無く、腑に落とす為です。

腑に落ちたなら、今の自分に納得が行きます。

あんな環境を生き抜いた自分が好きになります。

攻撃的であっても、言い逃れるクセがあっても、全部譲ってしまう自分だとしても、

あんなことがあって、生き抜いて、今があるから、欠点も自分の一部だ、と思えます。

求めるのでは無く、

自分を好きになれた時、

変化している自分に気がつきます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム








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